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丸山真男著『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)という本を今読んでいる。
これは福沢諭吉の「文明論之概略」をダシにして丸山真男が政治学について色々語っている本なのだが、最近私が常々考えていた俗権と聖権の分立の話が出ていて非常に面白い。
福沢諭吉は日本と中国の歴史的発展の相違点として、日本では権力が天皇と将軍に分けられたのに対し、中国は皇帝が全ての権力を独占したと指摘する。
福沢は天皇権力を「至尊」と表現し、将軍権力を「至強」と表現する。
「至尊」というのは物理的な実力は弱いが、世の人々に正しいとされる「正統性」を持つ権力のことであり、私がここで「聖権」と呼ぶものである。
一方「至強」というのは正統性を持たないが、人を屈服させることのできる物理的な力(「暴力」と言い換えてもいいかもしれない)を持った権力のことであり、私がここで「俗権」と呼ぶものである。
日本においてはもともと諸豪族の中で最も力を持っていた王が大王となり、その後天皇となって中央集権制を作り、俗権と聖権を一身に兼ね備えた。
しかしその後天皇権力は弱まり、将軍が暴力装置を握るようになり、天皇(聖権)と将軍(俗権)の並立状態が長く続いた。
しかし中国では皇帝が正統性と暴力装置をともに掌握し、皇帝専制が行なわれた。
この状況を福沢は「至尊の位と至強の力とを一に合して人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯して其の方向を定むるものなれば、此の政治の下に居る者は、思想の向ふ所、必ず一方に偏し、胸中に余地を遺さずして、其の心事、常に単一ならざるを得ず(上巻、139頁)」と述べて、聖権(至尊)と俗権(至強)が一体化してしまうと、その社会に多様な物の考え方が生まれにくいということを指摘している。
(中国皇帝=専制的という話をすると、「皇帝が必ずしもすべて自分の意のままにできたわけではない」という反論が必ずやってくると思う。そりゃそうである。皇帝専制システムがあるからといって皇帝が完全にやりたい放題だったわけではない。実際には外戚や宦官の意のままに動かされるロボット皇帝だっていただろうし、また皇帝だからこそ自由が封じられることだって多かったはずである。たとえば皇帝が一人で庶民達の世界に紛れ込んで遊びまわることなど到底できなかったであろう。しかし私の言う皇帝専制とはそんなことではない。皇帝が実際に個人的な欲望をどの程度充足できていたかは問題ではなく、皇帝がその領域内に住む全ての人間を従属させることができたということが重要なのである。たとえば、帝国内に住む官人の権力や民の権利はあくまでも皇帝の許す範囲内でのみ行使可能であり、皇帝がそれをいくらでも制限することが可能なのであれば、皇帝専制とみなしてよいだろう。またそのような措置が皇帝の名のもとに行なわれるのなら、実際の皇帝の意思とはかかわらず、専制的支配が行なわれていたと見なせる)
こういう話をすると、何となく今の中国や北朝鮮における思想・言論の弾圧が思い浮かぶ。
中国共産党や朝鮮労働党は単に自分たちが俗権の支配者であることに飽き足らず、「正しさ」までも独占しようとするため、自分たちの考えに反対する思想や言論を封殺しにかかるのであろう。
ロシア、中国、北朝鮮のようなかつて専制的な権力支配が行なわれていたと見なされる国ほど社会主義革命が起こり、その支配が長期化するのもおそらく偶然ではない。
社会主義の独裁システムと前近代の専制的王権が類似しているからこそ、これらの国々で社会主義一党独裁が受け入れられやすいのであろう。
このような俗権と聖権を兼ね備えた前近代的王権万能主義を、西洋人たちは長い間「東洋的専制」と言う言葉で呼んできた。
「東洋的」というのはつまりヨーロッパ的ではないということであり、ヨーロッパには無いアジア的な専制だと考えられてきたのである。(この場合ロシアは東洋、もしくは東洋と西洋の中間に入るのだろう)
ヨーロッパの場合は、ある意味日本とよく似ているのだが、俗権と聖権の分離が起こった。
俗権は神聖ローマ皇帝とかフランス王とかイングランド王とかいったもので、聖権はローマ教皇を頂点にする教会権力である。
このような教皇権と王権という二大権力の分立を利用して、貴族・騎士たちは王権をある程度牽制しながら独自の荘園経営につとめ、市民たちは都市の自治を実現していった。
このような権力の分立化傾向が、ヨーロッパの各地域や各都市の多様性を生んだと言われている。
ヨーロッパ史の中でこのような権力の分立が起こった時代を「中世」といい、王権と貴族・騎士が土地を媒介にしてギブアンドテイク的主従関係を結んだ支配システムのことをフューダリズム(=封建制)と呼ぶ。
日本の鎌倉・室町時代を「中世」と呼び、また「封建制」と呼ぶこともあるのは、明治以来の日本の学者が日本史の中に西洋的封建制(と彼らが考えているもの)を発見したためである。
彼らは日本史の中に「東洋的専制」とは異なる「西洋的封建制」を見出すことによって、アジア的停滞の道ではなく、ヨーロッパ的近代化の道を日本も歩むことができるだろうという証拠を見つけ出したのである。
ある意味、「歴史的発展の脱亜入欧」と呼べるものが、日本における「中世封建制」の発見であった。
だんだん何を述べているのかわからなくなったけど、次回に続く。
(続く)
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