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(上のイラスト)本文の内容が殺伐としているので、かわいらしい漫画でも付けときます。この漫画は、エニカさんという韓国の漫画家が描いた「ハヌルとパダの深層報告書(하늘과 바다의 심층 보고서)」という漫画のワンカットです。チュソク(旧暦の仲秋)の日に、左のパダが間違えて「あけましておめ・・・」と言おうとしているところを、右のハヌルが「楽しいチュソクを過ごしてくださいね〜!」と訂正しているところ。 |
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中国の少数民族切手。左上から回族、朝鮮族、蔵(チベット)族、満族、オロス(ロシア)族、プイ族。
ある満洲人のサイトをのぞいていて不思議に思ったことがある。
その人は満洲人(中国少数民族の一つとしての満族)の文化を紹介しつつ、「満族万歳、中国万歳」と書いていたのである。
どうやらそのサイトの開設者にとって、自分が満族であることと中国人であることは全く矛盾しないようなのである。
多民族国家であることを自他ともに認め、少数民族の自治を認めている中国ならではの状況だろう。
ひるがえってこれが日本ならばどうだろうかと考えてみる。
自分が日本国内の少数民族であるという自覚のある人たちが、「わが民族万歳、日本万歳」とはなりにくいのが実情ではないか。
日本人であることと日本以外の民族であることは両立しにくい。自分のアイデンティティを保つためには片方を棄てて片方を選ぶ必要がある。
その例としてすぐに思い浮かぶのは在日韓国・朝鮮人と中国朝鮮族の違いだ。
日本に住む在日韓国・朝鮮人は3世ともなれば、(民族学校に通いでもしないかぎり)朝鮮語を覚えず、見た目はほとんど日本人と同じになってしまう。韓国人に言わせれば、「在日は日本人と変わらない」(筆者の知人談)と言われるくらいに日本人に同化してしまうにもかかわらず、「日本に帰化して日本人になるのは抵抗感があるんですよね」(筆者の知人談)と言ってなかなか日本国籍を取ろうとはしない。日本社会で生きていくには明らかに帰化したほうが得であるにもかかわらず、それをためらわせてしまう何かが日本社会にはあるのだろう。
それに対して中国朝鮮族の多くは、若い人でも中国語と朝鮮語のバイリンガルが多く、日常的に朝鮮語を使って生活している。それなのに彼らは中国国籍をとることに抵抗感は特に無く(少なくとも在日ほどには無いだろう)、中国人として暮らしている。
様々な民族が混在して暮らしているのが常態の中国では、中国人でありながら少数民族として生きるという選択肢がありうる。それに対し、ほぼ日本民族だけで日本という国を作り上げてきた日本では、日本人=日本民族であり、日本に帰化するというのは単なる国籍取得の問題ではなく、自民族を棄てて日本民族になることを意味するのである。
だからこそ、朝鮮民族にしてみれば、中国で暮らす限り民族性の根幹である言葉や生活習慣を守ることができるため、中国人になることは抵抗感がない。それに対し日本で暮らすのであれば、言葉や生活習慣を守りにくく、そして朝鮮式の名前を名乗りにくくなるため、民族性を保持しにくい。だから「国籍」を民族性の最後の砦として守ろうとするのであろう。
日本は明治の時代に沖縄と北海道を併合し、その後台湾や朝鮮のような植民地を得たため、ある程度多民族的状況が生まれたとはいえ、その根幹にあるのは日本人=日本民族という等式がほぼ当てはまりうる単一民族国家である。(たとえば外国人が日本に帰化しようとする時に、「日本人として帰化するなら日本風の名前にしなさい」などと平然と民族的同化までせまってくるところが、日本の単一民族国家的性格をよく表している)
そして韓国・北朝鮮も日本と同じく単一民族国家である。近代における急激な領土拡張がなかったぶんだけ日本より純度の高い単一民族国家かもしれない。
基本的に単一民族国家の特徴として、自分たちの国の中に異民族の存在を許さないというのがある。異民族に対して同化をせまり、それを受け入れなければ排除するという行動様式である。(逆にいえばそのような行動様式の結果として単一民族国家を作り上げることができたのであるが)
日本による朝鮮の合併は、単一民族国家が単一民族国家を吸収合併するという世界的にも珍しい事態であり、同化と排除の論理が働くかぎり、両者の間に対立が生じるのは必至であった。
日本は支配下においた朝鮮に対しても同化の論理で日本語や日本的価値観を押し付け、それに従わないものには「不逞鮮人」というレッテルを貼って弾圧した。
一方朝鮮人側は、同化をせまる日本人に対して敵愾心を燃やし、自分たちの民族性に固執した。
支配者側も被支配者側も多民族的状況に慣れておらず、それゆえに支配者への不満、被支配者に対する疑念は容易に日本民族対朝鮮民族という民族対立へとつながった。
今に至るまでの日韓歴史問題の淵源は、単一民族同士ゆえの葛藤という点に求められるのかもしれない。
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(写真)ソウルの徳寿宮(トクスグン)の中和門と中和殿。韓国の宮殿建築は中国文化の影響から生まれたが、よく見ると韓国的特徴をそなえている。
韓国の歴史は、古代における高句麗の南進・北方系文化の南遷という例外があるものの、統一新羅時代以降は大体において南方勢力が北方を併吞していく過程であった。
これはおそらく北方原住の民が、農業生産力の高い南方からの人口圧力に屈した結果なのだろう。
西暦936年に旧新羅領域の統一を成し遂げた王建の高麗王朝は、旧新羅領域の北限を乗り越えて北方開拓を推し進めた。
この当時、新羅領域以北に住んでいたのは、長白山(韓国では「白頭山」)を聖山と崇める女真人であった。
女真人は高麗人とは異なり、農業のほかに狩猟採取や漁撈などを生業とする人々であったため、土地への定着度、密集度は高麗人より低かった。
そのために、高麗王朝が南方の民を殖民させながら北方開拓を推し進めていくと、女真人はその人口圧力に勝てず、次第に住地を追われていった。
もちろん中には高麗に反抗した女真人たちもいたが、数でまさる高麗人に結局は勝てず、多くの女真人たちは高麗に帰化するか、さらに北方に移り住むことを余儀なくされた。
このようにして高麗は、12世紀頃には鴨緑江岸の義州から東海岸の定平を結ぶあたりのラインまでを支配下におさめるようになった。
鴨緑江を中朝の国境となすという現在に至るまでの常識は、高麗時代にできあがったものである。
現在の北朝鮮領域の大部分は、高麗時代以降女真人の住地を征服することで形成された。
異民族の駆逐・同化によって北方開拓を推し進めるこのような手法は、日本のエミシ、アイヌ政策に通じる部分も多いだろうと思う。
このような高麗王朝の順調な北方開拓を頓挫させたのが、大元モンゴル帝国である。
元は高麗の勢力を削いで従順な属国に仕立て上げるため、高麗が建国以来開拓してきた北方領域を取り上げ、親元的な高麗人にそこの支配をまかせた。
元朝の手によって、現代の状況を彷彿とさせる、「南北分断」が行なわれたのである。
ただし現代の南北分断と異なるところは、領域は分断されたもののボーダレス化が起こったため、人の移動がむしろ促進されたことである。
これは元代の大きな特徴で、元朝支配下の領域はかなりボーダレス化した。
マルコ・ポーロがヴェネツィアから中国まで来れたように、イブン・バットゥータがモロッコから中国まで来れたように、モンゴル支配下の世界ではかなり往来が自由になったのである。
このようなボーダレス的状況の中で、多くの異民族や異文化が高麗に入り込み、また高麗から元朝側にも多くの人間が流れ込んだ。
特に高麗の民が重い税負担を逃れようと元側に大量に流れ込み、そこで何代にもわたって住みつき、現地で土豪化するものも現われた。
李氏朝鮮王朝の建国者李成桂は、朝鮮半島南部の全州から元側に越境して在地豪族化した一族の子孫だと史書にはあり、当時そのような人々がたくさんいたことをうかがわせる。
元代はその支配領域がかなりボーダレス化した時代であり、高麗にも多くの異国的要素が入り込み、変質を余儀なくさせられている。
しかしこんな時代においても高麗は自分たちのやり方にこだわり、どうにかして高麗旧来の体制を維持しようと努力している。
「モンゴルの平和」と呼ばれるユーラシア大陸のボーダレス化現象は、つまるところモンゴルの軍事力によって支えられていたものであったため、モンゴルの支配体制が揺らぐにつれて徐々に崩壊していった。
高麗の場合も同様であった。高麗は元朝の勢力が衰えだして以降は、次第に元の言うことをきかなくなり、元によって切り離された旧北方領域を取り返すことに成功した(西暦1356年)。
高麗はさらに元朝の弱体化につけこんで、取り返した北方領域を越えてさらなる北方征服に乗り出した。
その北方征服の対象となったのは、鴨緑江の中・上流域と東海岸の咸興以北の地である。
これらの地域にはすでに元の時代に税を逃れるため高麗人が多く移り住んでおり、女真人の抵抗も少なく、比較的容易に征服を行なうことができた。
このような北方征服の先頭に立ったのが、元側に移住した高麗人の子孫である李成桂その人であり、彼は高麗王朝の北方征服に従事しつつそこに自らの勢力基盤を着々と築き上げていったのである。
(続く)
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(写真)ソウル北村(プクチョン)のとある韓屋の中庭(アンマダン)。このようないわゆる「韓国らしさ」はどのようにして出来上がったのだろうか?
朝鮮半島が北緯38度線を境にして南北に分けられてからすでに60年以上が過ぎた。
南と北の経済的・文化的格差は大きくなっていく一方だが、そのわりには「我々は一つの民族である」という意識はすたれないようだ。
一つの国家として出発しながらも、民族意識の昂揚などのためバラバラになってしまう例も多い中(ユーゴスラビアなどがその典型)で、これほど長い期間別々の国としての道を歩みながら、未だに一つの民族としてのアイデンティティを失わない例も珍しいのではないだろうか。
「民族」というのはきわめて恣意的に用いられうる概念であり、「私とあなたは同じ民族である」もしくは「私とあなたは違う民族である」と区別するための客観的な指標は存在しない。
だから実態としては「○○民族」というものが存在するのではなく、「私たちは○○民族である」という意識が存在するだけなのである。
しかしながら、そのような意識が広く共有されるためには、人々が「私たちは同じ民族である」と信じるようになるほどの共通点ないしは均質性が必要であり、そのような共通点のことを人は「民族性」と呼ぶ。
したがって、韓国と北朝鮮の間で経済的格差や政治的意識の格差、そして生活水準の格差が拡大したとしても、それを上回るだけの共通点ないしは均質性が未だに残っているからこそ、「われわれは一つの民族である」という主張が説得力を持ち続けるのである。
ではそのような民族性はいかにして生まれたのであろうか?
それは、後世に韓民族(=朝鮮民族)と呼ばれることになる人間集団が、数百年あるいは数千年の間、他の民族とある程度隔絶された環境の中で暮らし続け、その人間集団内部での均質化が進んだ結果であろう。
このような過去の歴史が、現在の数十年にわたる分断という現実よりも強烈であるため、いまだに「われらは一つの民族である」という意識が薄れないのであろう。
したがって、「韓国と北朝鮮が何故いまだに民族としての一体感を保っているのか?」という問題に答えるためには、韓民族が過去の歴史の中でいかに強固な均質性を作り上げてきたかを知る必要がある。
現在の韓民族と呼ばれる人々の原型がいつ出来上がったかを具体的に知るのは難しい。
時代によって人々の生活文化は変わるものであるし、どのような民族だって必ず他民族との融合を経ているはずだからである。
三国時代の高句麗・百済・新羅といった国々がどれほど民族的に異なっていたかを知ることは難しいが、少なくともこの時期にはまだ地域的な差異がかなり大きかったと考えられる。
朝鮮半島に住む人々が次第に均質化の方向に進むのはおそらく新羅によって統一されて以降のことであろう。
新羅による朝鮮半島統一は西暦676年。この年に唐の勢力を朝鮮半島から追い出した新羅は、朝鮮半島の大部分を占める国家へと成長し、かつての高句麗・百済領域を支配下におさめ、新羅的制度をそれらの地域にも適用した。
新羅による朝鮮半島支配が、半島内部での文化の均質化に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
しかしながら、新羅が支配できた領域は、現在の韓国・北朝鮮を合わせた領域には遠く及ばなかった。
新羅領域の北限は大体、大同江(平壌の南を流れる大河)〜安辺(元山の南にある都市)ラインであり、現在の北朝鮮領域の大部分は新羅の支配下にはなかった。(新羅は平壌の支配すら放棄し、荒廃するにまかせていた)
新羅による朝鮮半島統一から二百年以上が過ぎた頃、「百済」や「高句麗」という国名を称して新羅から独立する勢力が登場し、朝鮮半島は再び分裂時代に入った。これがいわゆる「後三国時代」である。
「百済」や「高句麗」のような昔の王朝を名乗って朝鮮半島が再び地域ごとに分裂したのは、新羅による朝鮮半島内部の均質化が不徹底であったことを示す(ただし新羅がどれだけ自覚的に半島内部を均質化させようとしたかは疑問だが)。
しかし別の一面では、「百済」や「高句麗」を名乗った勢力も新羅の影響をしっかり受けており、自分たちの国家制度を整える際には新羅の制度を参照している。
新羅領域内での文化的均質化は不徹底ではあったものの、確実に進行していたことは間違いない。
そのために後三国の分裂は一時的なものにとどまり、高句麗の後継者を称した王建の「高麗」によって、朝鮮半島は再び統一を迎えることになる。
(続く)
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