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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

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(写真)韓国の仁川(インチョン)。ここはかつて日本人の居留地があったところで、現在は観光地化のため昔の日本人居留地のような風景を作っている。韓国において植民地時代が、「モダン文化発祥の時代」として再評価されつつある。


植民地支配、特に日本の植民地支配を評価する時、異なる二つの意見が存在しており、互いに相容れない主張を繰り広げている。

一つ目は植民地支配を否定的に評価する意見であり(これを以後「植民地支配否定論」と呼ぶことにする)、今の日本では基本的にこちらが主流をなしている。
このような主張に共通しているのは、「日本はアジアの国々を支配して様々な収奪をおこなった。そのために現在韓国・中国から批判されることになっている。日本はこれらの国々に対する謝罪と補償をきちんと行ない、二度とこのような過ちを繰り返してはならない」という「植民地支配=収奪」ととらえる見方である。

これに対してもう一つの意見は植民地支配を肯定的に評価する意見である(以後これを「植民地支配肯定論」と呼ぶ)。そのような意見は大抵次のように述べる。「日本の植民地支配は他国にくらべれば悪いものではなかった。日本は植民地から収奪するよりはむしろ投資した額の方が大きかったのであり、日本によるインフラ整備がアジアの国々の近代化を促進した。さらに日本のアジア進出がアジア諸国の解放をもたらしのであり、日本の植民地支配はプラスの側面の方が大きかった。現に日本が一番長く支配した台湾では日本支配を感謝する声が多い。したがって日本の植民地支配は収奪ではなくむしろ恩恵であった。」
このように植民地支配を「恩恵」と考えて称賛しようとする論調は近年になって急激に大きくなりつつあるが、戦前の日本ではむしろこちらの意見が多数派であった。
そういう意味で、植民地支配否定論と植民地支配肯定論は戦後の思想と戦前の思想の対立という様相を帯びているといえるのかもしれない。

植民地支配否定論は日本による支配がいかに過酷であったかを強調することで、自らの説を補強しようとしている。
その逆に植民地支配肯定論は日本の支配がいかにその地域の近代化に役立ったかを強調することで、自らの説を補強しようとしている。
この両者は同じデータを使ってもたがいに異なった意見を出すために、議論は常に平行線となる。
たとえば、「日本統治時代に朝鮮における米の生産量が上がっていた」というデータがある。
このデータを見て植民地支配肯定論者は「日本の指導下で米の生産が上がって朝鮮農民は豊かになった。だから日本はいいことをしたのだ」と評価する。それに対して植民地支配否定論者は、朝鮮米の日本への移出量も同時に増えていたことを指摘して、「日本人が食べるための米を朝鮮農民が無理やり作らされていたにすぎない」と評価する。
どちらの意見も事実の一面を突いてはいる。ただ日本の植民地支配をどのように評価するかという立場の違いによって、その解釈が真逆になってしまうのである。

日本の植民地支配問題を考える際に、様々なデータを用いて良かったか悪かったかを論議することもそれなりに意味があることなのだろうとは思う。
しかしこの問題を考えるときに真っ先におさえておかなければならない前提は、日本の支配が文字通り「支配」だったということだろう。
よそからやって来た日本人がすべて政策を立案・実行し、そこに代々暮らしてきた現地人はそれに従うほかなかった。
そのような体制は、表面的には日本人と現地人の合意の上で成立しているように見えても、実際には日本の警察や軍隊のような暴力装置によって支えられていたものである。
また植民地期には、現地人と日本人は明らかに対等ではなく、様々な場面で区分(身分差と呼んでもいいと思う)がもうけられていた。

私の個人的な考えとしては、ある人間集団が他の人間集団を支配し、その両者の間に超えられない身分差を作り出してしまうという点で、植民地支配を「良かった」などと評価することは決してできないと思っている。
「植民地期に日本人と現地人を平等に扱った日本人もいた」とか「植民地期にも日本人と現地人の間に友情は芽生えていた」という意見もたしかにある。
もちろんそういう意見を否定はしない。たしかにそういう例はあったし、私自身も実際にそういう人に会ったことはある。
しかし、そのような例は植民地支配の暴力性・理不尽さを打ち消すどころか、むしろそれを浮き彫りにさせてしまうものでしかない。
たとえば「植民地期に日本人と現地人を平等に扱った日本人もいた」という話が強調されるのは、それが当時珍しかったためである。「日本人と現地人では待遇に差がつけられるものだ」という社会通念のようなものが存在したからこそ、「日本人と現地人を平等に扱う日本人」が目立ったのである。
さらに、そのような話の中に「日本人と現地人を平等に扱った現地人」というものは登場しない。日本人と現地人で差別をもうけないという「恩恵」をほどこすのは、常に支配者側である日本人の特権だからである。
また「植民地期にも日本人と現地人の間に友情は芽生えていた」という意見はあるが、彼らは何語で会話をしていたのだろうか?おそらくほとんどの場合が支配者の言語である日本語であっただろう。その逆はなかなか考えられない。
現代ならば、英語か現地語で友情が芽生えるかもしれない状況が、植民地時代にはほとんどあり得ない光景だった。現地人は支配者の言語である日本語を学ばされ、それをうまく習得できた者だけが支配者である日本人と友達になれたのである。
植民地時代の日本人と現地人の友情というものは、そういう片方だけに負担をせまるような状況の上に成立していたのであり、必ずしも対等な関係とは言えなかったと思う。
彼らが今の時代を生きていたならば、もっと対等な友情を育むことができたのではないだろうか?

植民地支配肯定論者が言うように、日本が作った社会的インフラが今の台湾・韓国・北朝鮮(部分的には中国も)で今でも残っていることは事実である。
しかし上で述べたような植民地支配の暴力性や理不尽さを考えると、「日本は良いことをしたんだ!」などとはとても言えなくなるのである。


モンゴル語の辞書をパラパラめくっているとたまに、「おや?」と思うことがある。
その「おや?」には色々な「おや?」があるが、一番多いのは朝鮮語と共通する語彙を見つけた時だ。

たとえばモンゴル語で「父親」は「ААВ(アーブ)」という。これは文語だと「abu(アブ)」もしくは「aba(アバ)」というらしい。
これを見てすぐ思い浮かぶのは「父親」を意味する「아버지(アボジ)」という朝鮮語である。
これは標準語だと「アボジ」だが、方言で「アブジ」と発音することがよくあり、モンゴル文語の「アブ」と極めてよく似た発音になるのである。

またモンゴル語で「月」を「САР(サル)」というが、朝鮮語では「달(タル)」という。
また、モンゴル語で右側(Баруун Зүг)、左側(Зүүн Зүг)という時の「側」は「Зүг(ズク)」というのだが、朝鮮語ではこれを「쪽(チョック)」という。

このように朝鮮語とモンゴル語には似たような語彙がしばしば見られる。
今ここで挙げた言葉がたがいに関連を持つのか、それとも単なる偶然の一致なのかはわからないが、両国の関係の歴史を考えると、単なる偶然としてすませてしまえないような気がする。

朝鮮とモンゴルが深い関係を結んだのは13世紀から14世紀までのいわゆるモンゴル帝国時代(最近は「イェケ・モンゴル・ウルス」という言葉が一般的になりつつあるが)である。
この時代にモンゴルはユーラシア大陸の大部分を征服し、東は高麗、沿海州、サハリンから西は南ロシア平原、アラビア半島まで勢力を伸ばした。
この時代高麗王朝と呼ばれた朝鮮もまたモンゴル帝国の勢力圏内に入り、日本遠征に協力させられたことは有名な話である。
こういう時代であるから、モンゴル文化が朝鮮に入り込むのは当然である。そんなことはモンゴルの勢力圏におさめられた地域では全て経験していることであろう。
しかし朝鮮の場合面白いのは、逆にモンゴルにも影響を与えていると思われることなのである。

モンゴル時代において、朝鮮はモンゴルに人を輸出していた。それは主に女性と宦官だった。
元代社会では高麗女性の人気が高く、元の上流階級では高麗女性を娶ることが社会的ステータスになっていた。
そのため元王朝は高麗に対して良家の少女たちを元に送るように要求し続けた。これを「貢女(こうじょ)」という。
韓国では「貢女」の歴史を民族の悲劇としてとらえ、まるで奴隷に売られたかのようなイメージで貢女をとらえているようだが、実際にはそんなみじめなものではなかったと思う。

貢女として元に連れて行かれた女性たちの多くは元の上流階級に嫁入りしている。
元王朝といえばマルコ・ポーロがその栄華を絶賛したように、間違いなく当時の世界のセンターだった。
元での生活水準は明らかに高麗よりも高かったはずであり、「貢女」のシステムは、女性やその家族たちにとって社会的ステータスを上げるための一種の「チャンス」にもなりえたのである。
もちろん元のような遠い異国に娘を行かせることは親心としては辛かったであろうし、娘もおそらく遠い異国の地で故郷を想って涙を流したことだろう。そういう意味での悲劇はたしかにあったであろう。
しかし、それでも「貢女」としての立場を逆手にとって出世していったたくましい高麗女性たちはたしかにいた。

その代表格が元朝最後の皇后である奇氏である。
彼女は高麗の武官奇子敖(キ・ジャオ)の末娘で、貢女として元の後宮に入り、そこで皇帝の寵愛を受けた。
元朝最後の皇帝は順帝トゴンテムルという人物であり、奇氏はその人の皇后として皇太子アユルシリダラ(元の滅亡後、北元の初代皇帝となった)を産んだのである。
この奇氏の時代、つまり元朝の最末期には元の宮廷では「高麗趣味」が流行していた。
宮中の女官や宦官は高麗人でかためられ、高麗風ファッションが流行していたのである。
ある意味モンゴル帝国の「韓流」といえようか。
もちろんこの流行の中心にいたのは皇后奇氏なのだが、実は順帝自身も高麗が好きだったのかもしれない。
というのは、順帝自身、1330年7月から翌年の12月までの間、高麗で暮らしていたことがあるからである。その時順帝はまだ11〜12歳程度の少年であった。
彼は元朝廷内部の政治的いざこざのために高麗の大青島に流配されていたのだが、育ち盛りの少年の心に高麗での生活はなつかしい経験として記憶されたのではないだろうか。
彼はその経験に味をしめたのか、晩年には高麗の済州島(チェジュド。いわずと知れた韓国の観光地)で隠遁生活を送ることを望み、自分用の離宮の建設工事まで行なわせていた。

結局その隠遁生活の夢はかなわず元朝は崩壊し、順帝と奇氏と二人の息子アユルシリダラは済州島ではなくモンゴル高原へと逃亡せざるを得なくなったわけなのだが。

このように、元の最末期には高麗趣味が流行していた。元朝の滅亡以降、モンゴルと朝鮮の直接的関係が希薄化していくとはいえ、この時にモンゴルに植え付けられた「高麗風」は、高麗に植え付けられた「モンゴル風」と同様にその文化形成に影響を与えたのではないだろうか?

さて、それにしても気になるのは、何故元朝で高麗女性がもてたかということだ。
元朝は世界中から人がやって来る所であったから、その気になればヨーロッパの金髪碧眼の美女だって、西アジアのエキゾチックな美女だっていただろうにと思う。それなのにモンゴル貴族たちはどうしてあえて高麗女性を選んだのだろう?

ここから先は単なる私の想像でしかないが、世界中の人間を見ているモンゴル貴族たちが一番好んだのはやっぱり自分たちと近い顔立ちの女性だったのではないだろうか?
高麗人はモンゴル人と顔がよく似ており、それでいてモンゴル人より綺麗だったから人気があったのだろうと思う。
宋代の中国人徐競が書いた『高麗図経』という本には、「高麗人はよく沐浴して清潔にしているため、中国人を見ると垢だらけだと馬鹿にする」と書かれており、高麗人が中国人より清潔にしていたことがわかる。
これはもちろんどこにでも湧水や小川があるという朝鮮半島の水資源の豊富さのおかげなのだが、水にとぼしくてろくに身体を洗うことができなかったモンゴル人たちにとって、高麗人は清潔で美しく見えたのではないか。
また、夫婦となり愛を育んでいくためには言葉が必要である。
外国人と結婚する際には言葉の壁が小さい方が望ましい。
その点モンゴル語と朝鮮語は文法が似通っており、習得するのは比較的簡単である。
きっと高麗女性は他国の女性よりうまくモンゴル語を習得できたために、いっそう人気が高かったのだろう。

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(写真1枚目)ソウルの街角で買ったBig Issue
(写真2枚目)ソウル宗廟公園で見た紅葉。韓国は今紅葉真っ盛り。
(写真3枚目)ソウルの庶民の道、ピマッコル(避馬小路)。昔は食堂や飲み屋が延々と続く通りだったのだが、都心再開発のため今は一部しか残されていない。


韓国から戻ってきました。
11月末の韓国はとても寒かったですが、自分の原点に立ち帰ることができたような経験でした。

思えば私の外国体験は韓国から始まったのでした。
十年以上前に初めて足を踏む入れた韓国という外国に、どこかしら心ひかれ、その縁でここまで来ました。
その後韓国で一年間暮らすことにもなり、外国から来た多くの留学生たちと知り合いました。
出会った人々は、ロシア、中国、カナダ、アメリカ、イラン、パキスタン、インド、アルメニア、インドネシア、台湾、ベトナム、ウズベキスタンなど多岐にわたります。
彼らとの友情は一生大切にしていきたいと思っています。

私は韓国を訪ねることで初めて外国を知り、韓国で暮らしてさらに広い世界を知りました。 
私の世界を見る目は韓国体験を通じて養われたといっても過言ではありません。
そういう意味で、私は韓国に育てられたといえるのかもしれません。
韓国には恩があり、私自身深い思い入れがあります。

約半年ぶりの韓国だったので、韓国語を忘れていないか心配だったのですが、思ったより何とかなりました。もちろん語学力は暮らしていた時より劣化しているのですが、意思疎通にはそんなに苦労しませんでした。

今回ソウルで出会ったちょっといい話でも紹介してみましょう。

ソウルの地下鉄駅周辺でおじさんがBig Issueという雑誌を笑顔で売っていました。
Big Issueとは皆さんも知ってのとおり、ホームレスが売っている雑誌のことです。
この日のソウルは氷点下近くの寒さで風も吹いていました。
道行く人々は足早に通りすぎるだけで誰もBig Issueには見向きもしないのですが、おじさんは笑顔で売り続けていました。
「おじさんだって寒いだろうに・・・」と思いながら私は通り過ぎましたが、おじさんが凍てつく寒さの中でも笑顔を絶やさないのを見て、ふと気が変わりました。
この人になら支援してあげたい、雑誌を買ってあげたいと思ったからです。そう思って来た道をひきかえし、おじさんに声をかけました。
「一冊いくらですか?」
「3000ウォンです。(今のレートなら230円くらい)」
そうして3000ウォンを取り出そうと財布を開けてみたのですが、あいにく1000ウォン札がない。
一万ウォン札を出してお釣りをもらおうかな?でもおじさんがお釣りを持ってなかったらどうしようかな?なんて考えていたら、おじさんがこんなことを言い出しました。
「お金がありませんか?なら、このまま持って行ってください」
と言ってBig Issueを私に渡してくるのです。
「え?何ですって?」
「このまま持って行ってください。お金はまた来られた時で構いませんから・・・」
冗談ではありません。私は一時的な旅行者でこのおじさんに会うことはおそらく二度とないでしょう。
このまま雑誌だけ持って行ったら、支援どころか私がおじさんに損をさせてしまうことになります。
私はただでもらっていくことを断固拒否して、一万ウォン札を出しました。
おじさんはそれを受け取るとお釣りの7000ウォンを渡してくれました。
「きちんと数えてくださいよ。手がかじかんでるせいで、お釣りを間違えて渡しているかもしれませんから・・・」
私はお釣りがきちんと合っているのを確かめると、おじさんに「大変でしょうけど頑張ってくださいね」と言って地下鉄駅に駆け込みました。

おじさんがホームレスなのかどうかは知りませんが、寒空の下でBig Issueを売っているところから見て生活が楽ではない人でしょう。
そんな人でありながら、笑顔を絶やさず、「お金がないならこのまま持っていってください」と言えるのはなかなか無いことだと思います。
それにしてもつくづく思うのは韓国人のお金へのこだわりのなさです。見知らぬ旅行者のために切符を買ってあげたりするような韓国人の情の世界です。

ああ、思えば私が韓国語を話せるようになりたいと思ったのも、そういう韓国人たちの深い心に触れたいと思ったからなのでした。
韓国の街角で物売りをしているような人たちに気のきいた冗談でも言って笑わせられるような、そんな心のふれあいをしたいと思って言葉を学んでいたのでした。

最近すっかり忘れてしまっていたそんな初心をふと思い出しつつ、その時の目的を少しは達成できたのではないか?と一人自己満足にふける今日この頃でありました。

ソウルなう

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(写真1枚目)ソウル繁華街の夜の風景。右手に見える見慣れた店はセブンイレブン。
(写真2枚目)ソウル中心部に残るちょっと昔の雰囲気を残した小道。こんな風景もそのうち消えてしまうのだろうか。
(写真3枚目)宿の近くで食べたスンドゥブ定食。これにご飯と焼き魚がついて5000ウォン。


今ソウルに来てます。
約半年ぶりのソウルです。
来てみてわかったことが二つありました。

一つ目はとっても寒いこと。
「日本(東京)よりちょっと寒いくらいだろう」とたかをくくっていたら、東京では一年に一度あるかないかくらいの寒さだった。
今朝は氷点下の寒さになりました。まだ11月だというのに、冬将軍は張り切りすぎだろうと思う。
多分使わないだろうけど「念のために」持って行こうかと思ってかばんの中に入れておいた毛糸の帽子とマフラーが大活躍です。
何事も「念のために」という感覚が大切なんですね。
外は寒いけど建物の中は日本より暖かいです。これが韓国の特徴ですね。

わかったことの二つ目は、韓国は何事も変化が早いこと。
留学中によく通っていた飲食店が二つあって、そこのおばちゃんにはよくお世話になってました。
それなのに、今回行ってみたらどちらもなくなっていました。
特に海鮮鍋屋(해물탕집)のおばちゃん(どちらかといえばおばあちゃんという年齢かな)は私のことを「日本の息子(일본의 아들)」と呼んでかわいがってくれました。たまにただで食事をさせてくれたり。
そういう仲だったので今回は日本でお土産を買って海鮮鍋屋に会いに行ったら、違う店に変わっていました。
おばちゃんの個人的な連絡先なんて知らなかったので、会うこともできず、残念でした。
それにしてもわずか半年くらいの間に私の馴染みの店が二つもなくなっていたなんて、いくら変化の早い韓国といえども予想できないことでした。

今日は自分が以前に住んでいた下宿に行ってみました。
下宿のおばちゃんに電話をかけてみたのですが、「この電話番号はただいま使われておりません」という機械音が聞こえるだけで、本当に会えるかどうか心配でした。
海鮮鍋屋のようにもう下宿をやめていたら(このおばちゃんは雇われ管理人)どうしようかと不安に思いながら、現地まで行ってみました。
そうしたらまだ普通に下宿で働いていたので安心しました。おまけに同じ階に住んでいた女学生(同じ大学院生ということでそれなりに仲良くしていた)とも会えました。
おばちゃんは私が来たからということで、食べきれないほど料理を作ってくれて「食べろ、食べろ」とすすめてきました。留学中はこれがイヤで仕方がなかったのですが、今回は「相変わらずだな」とむしろ懐かしい気分になりました。
変化の激しい韓国でもまだ変わらないものがあるとわかってちょっと安心しました。

そんな中、海鮮鍋屋のおばちゃんから電話がありました。
海鮮鍋屋の跡地に新しく入ったうどん屋の主人に「海鮮鍋屋のおばちゃんに連絡がついたらこの電話番号を渡してほしい」と私の携帯電話番号(空港でレンタルしたもの)を渡していたのですが、主人がおばちゃんに伝えてくれたみたいでした。
ありがたいと思いました。
うどん屋の主人に百回くらい「ありがとう」と言いたい気分です。
やはり韓国は人情の国だと思います。人と人とのつながりの中で生きている世界だと思います。
最近人付き合いをおろそかにしていた自分自身を少し反省しつつ、今は素直に他人の好意をありがたく受け取りたいと思います。


最近あまり更新してなくてすみません。
ここのところ現実生活がわりあい忙しくてブログの更新ができなくなっているのです。
それでも何か書いとかないと私が生きているのか死んでいるのかわからなくなるので、一応書いてみます。

まあ忙しいと言っても相変わらずひきこもりに近い生活をしてるんですけどね。
毎日パソコンのデスクトップとにらめっこする日々。
たまにふっと「私は何をやっているのだろう」と我に返る日もありますが。

論文の書き直しをしながらも新たな研究発表の準備におわれて戦々恐々たる毎日です。
本当に私は何をやっているのだろう・・・。

変わったことと言えば、最近中国語を基礎から勉強し直してます。
どれくらい基礎からかというと、ピンイン練習のところから。
本当に基礎中の基礎ですね。
でも結構楽しいものです。
やっぱり私は漢字が好きなんだなあとつくづく思います。
中国語を書いてピンインを当てるという練習をしているのですが、小学校の時の漢字テストみたいでそれなりに面白いものです。
小学生に戻ったつもりで(中国語で)漢字の勉強をしていきたいと思います。


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