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いつの間にか1カ月以上ブログを放置していることに気付きました。
あんまり放置してると「あいつは生きてるのか?」と不安に思われる方もいると思うので、生存報告だけはしておきます。
最近刺身を作るのに凝っています。
今までは魚屋で魚を三枚におろしてもらって、家に帰って皮をはいで切るだけだったんですが、最近は魚を丸ごと買ってきて、頭落とし、ワタ抜きまで自分でやったりしてます。
といってもまだまだ下手くそですけどね。
でも自分でさばいた魚を食べるのはそれなりに面白いものです。
以上、どうでもいい近況報告でした。
まったく関係はないけど、写真は湖畔のコーヒーハウスです。
雰囲気が気に入ったので撮っちゃいました。
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「キャンディ・キャンディ」という漫画がある。
その漫画のアニメのOP曲の中に「おてんばいたずら大好き、かけっこスキップ大好き」という一節がある。
この一節を聞いたときに、「おてんば」というのが一昔前の少女漫画を語るキーワードだなあと思った。
私は1970年代から1990年代までの少女漫画に関してはわりかし読んでいる人なので、「おてんば」というのをキーワードにして、一昔前の少女漫画について思うところを少し語ってみたい。
「おてんば」という言葉は今ではほとんど死語になりつつあるが、かつての少女漫画の中では実によく見かけた用語である。
「おてんば」という言葉を聞いて私がいつも思い浮かぶのは、「ポーの一族」の「メリーベルと銀のばら」という話でオズワルドとメリーベルが出会うシーン。
メリーベルがスカートの裾をつまんで裸足で水たまりを渡ろうとしているのを見てオズワルドが「わっ、おてんば!」と思うシーンなのですが、マニアックすぎますかね。今手元に単行本が無いのでそのシーンをお見せできないのが残念です。
メリーベルといえば病弱な美少女という印象が強いので、萩尾望都先生は意図的にあのシーンを描くことでバンパネラになる前のメリーベルの幸せそうな姿を描きたかったのではないかと勝手に想像してみたり。
「ポーの一族」より兄エドガーと妹メリーベル。メリーベルはこんな風に病弱な薄幸の少女という設定である。エドガーはメリーベルの病弱さと不幸を自分のせいだと思ってこんな事を言っている。そのたびにメリーベルは否定しなければならないのだから、エドガーって結構めんどくさい奴だよね。 まあ「ポーの一族」の話をしだすと長くなるので、本題に戻りましょう。
少女漫画における「おてんば」という言葉には二つの意味があると思います。
女性の目から見れば活発で快活というプラスのイメージ。
それに対して男性から見れば、「女の子らしくない」というマイナスのイメージ。
この二つのイメージの間で悩まざるを得なかったのが、一昔前の少女漫画を読んでいた女性読者たちの状況だと思う。
教育の場では男女同権を教えられながらも実際の社会では男性に従属させられるという矛盾した状況に置かれていた当時の少女たちにとって、「おてんば」というのは馴染み深い言葉だったのではないかと思う。
少女漫画の主人公たちは大抵おてんばである。
それは主人公が活発に動き回らないと話が進展しないためでもあろうが、それ以上に主人公に「女の子らしくない」という(男性の目から見た)負の属性を付加することで、読者の共感を得るためだと思う。
逆におてんばではなく、(男性の目から見て)いわゆる「女の子らしい」主人公は女性から見れば「ぶりっ子」に見えて反発を買いやすいだろう。
(とはいえ、そのいわゆる「女の子らしさ」が「内気」とか「引っ込み思案」のようにマイナスの側面を持っていれば共感を得ることもあるとは思うが)
おてんばに限らず、少女漫画の主人公たちは必ずどこかしら(主に男性にとって)望ましくない負の属性を持っている。
それはたとえば料理が下手だったり、大食いだったり、胸が小さいことだったり、そばかすだったり、鼻ぺちゃだったり(キャンディかよ)することである。
どうでもいい話だが、少女漫画の主人公は9割方料理が下手である。
たとえば「こどものおもちゃ」でサナちゃんが小麦粉とふくらし粉を間違えてクッキーをオーブンの中で爆発させてしまうシーンなどはその典型である(マニアックな例だなあ)。
これは「女は料理くらいできなければ」という男性優位社会の考えに対して、あえてそのとおりにできない主人公を描くことで、女性の共感を得るためであろう。
「クッキー爆発とかありえんw」と笑いながらも、「サナちゃんも料理下手で安心したわ。私も料理苦手だから親近感わいた」と読者に思わせるために、あえて少女漫画の主人公は料理下手に描かれるのだろう。
「こどものおもちゃ」より、主人公サナ(紗南)と母ミサコ(実紗子)とサナのマネージャーのレイ君。小学生タレントの主人公が倍以上年上のマネージャーを「ヒモ」と呼んでいた斬新な設定の少女漫画。
大食いも少女漫画の主人公には多い。
これは「食べるのが大好きで太るとわかってても食べてしまう!」という女性たちの欲望を具現化したものだろう。(本当かなあ?)
「あさりちゃん」みたいにそれ自体がネタになっているのなら納得できるのだが、「ふしぎ遊戯」の美朱(みあか)みたいにシリアス展開に水を差すにもかかわらず主人公の大食いっぷりが描かれている漫画もある。どこまで大食いを強調したいんだ。
しかしどうでもいい話だが、少女漫画の主人公は大食いのわりにはそんなに太っていない。というよりやせている。異常体質だと思う。
「胸が小さい」というコンプレックスを持つ主人公は昔はそんなに多くなかった気がする。
多分1990年代以降増えた主人公の悩みだと思う。
それは多分昔は今ほど巨乳ブームではなかったことと、少女漫画において性的な描写が許されてなかったためだと思う。
90年代ころから胸が小さいことに悩み、ライバル(女)の胸の大きさに嫉妬する主人公が増えたような気がする。
「ベイビィ★LOVE」の中で主人公のせあらが胸の小ささを気にして(といってもアンタ小学生やん)、「胸って揉んでたら大きくなるかな」と自分の胸を揉んでいたシーンには驚いた。
「ベイビィ★LOVE」より、主人公の有栖川せあら。初期は裏表のある性悪ヒロインっぽかったのに、途中から純情乙女に変わってしまったのが残念。クセのあるキャラのままでいてほしかったです。ちなみに私は同じ作者の「あなたとスキャンダル」の方が好きです。初恋の王子様が実は女だったというまさかのレズ展開が神がかっていました。
いずれにせよ、少女漫画の主人公は必ず(主に男性の目から見た)負の属性を持っています。
時には不自然なくらいとってつけたようにそんな描写がなされたりします。
完璧な主人公は共感しにくいからそうなるのでしょうけど、その不自然さに少女漫画の宿命のようなものを感じてしまったりするのです。
おてんばというのがかつての少女漫画における主人公の(男性の目から見た)負の属性だったと思います。(その反面女性読者にとっては主人公のチャームポイントになる)
しかし女性の社会進出が進んで、活発な女性像がむしろ好まれるようになっていくにつれ、「おてんば」という言葉が使われなくなり、少女漫画主人公の負の属性ではなくなっていきます。
「おてんば」に代わって「元気」というのが一つの属性として少女漫画の主人公にも付与されるようになりますが、「元気」は「おてんば」と違って負の側面を持ちません。基本的にいい意味です。なので、おてんばであることはもはや少女漫画主人公の負の属性には成りえないのです。
だんだん何を言っているのかわからなくなってきたが、結論めいたことを言っておこう。
男子禁制の少女漫画世界においても、男性からの視線というものがはっきりと意識されている。
それは少女漫画が男の子との恋愛を主なテーマにしているから当然のことではあるのだが、それ以上に読者である女性たちが実生活において常に男性からの視線を意識せざるを得ない状況に置かれているためではないだろうか。
たとえば少年漫画においては、主人公の少年たちも読者の男性たちも女性からの視線をそこまで意識しているようには見えない。
少女漫画と少年漫画のこの非対称性は、実際の社会における女性と男性の置かれている立場の違いを反映しているように思えるのである。
最後に余談だが、一昔前の少女漫画の主人公たちは「私ってかわいくないし・・・」とか「太っちゃったかなあ・・・」みたいなセリフをよく言っていた。
顔の可愛さはどう見ても人並み以上だし(少女漫画は顔面偏差値が高すぎると思う)、手足はマッチ棒みたいに細いのにこんなことを言うのである。何と嫌味な。
本当に太っていて不細工な主人公が出てくる少女漫画というのを一度見てみたいものなのだが、いまだにお目にかかったことがない。
世の女性たちはブスでデブな主人公が素敵な男の子たちにチヤホヤされる構図を見たくないのだろうか?(男性向けならブサ面男主人公がかわいい娘にチヤホヤされるドリーム物はたくさんあるのに)
いくら少女漫画の主人公には(主に男性の目から見た)負の属性が与えられると言っても、容姿に関してだけは人並み以上が求められるようだ。
だとしたら少女漫画の世界というのはシビアなもんだなあと男性である私は思ってしまうのである。
小花美穂の「あるようでない男」。主人公ではないものの、男主人公とくっつく女性キャラとして山田さよりという不細工娘(失礼!)が登場する。作者はあとがきの中で「私ってばなんて絵的に美しくないものを描いてしまったんだ」的なことを述べていたが(うろ覚え)、個人的にはこういうヒロインがもっと増えてもいいと思う。
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中国の上海と杭州に行ってきました。
なので、それに関する記録を少し残しておきます。 日記形式の記録もあるのですが、それはまたの機会として、今回はメモ的に旅をしながら考えたことを書いてみたいと思います。
今回は上海と杭州なんていう有名な都市に行ってきたものの、あまり観光地らしいところには行きませんでした。
上海に行ったというのに外灘(バンド)も見ていないし、杭州に行ったのに六和塔にも登っていない。 それで「アンタ、何しに行ったの?」と中国の知人からもお叱りを受けております。 では私が観光地めぐりをしないで何をしていたかと言いますと、あまり観光客の行かない宗教施設を見に行ってたのです。
それがタイトルにもある孔子廟と城隍廟(じょうこうびょう)です。 孔子についてはもう説明の必要はありませんね。中国の昔の偉い人です。
・・・という説明はあまりにも端折りすぎだと思うので、少しだけ説明しておきます。 孔子は本名を孔丘と言い、春秋時代(紀元前770年〜403年)の魯(ろ)の国の人で、儒教の開祖として知られています。 儒教は漢代以降中国の官学となったため、孔子は文宣王(ぶんせんおう)と呼ばれ、畏敬の対象となりました。 そのため中国の各都市には孔子廟が造られ、それに併設される形で公立の学校も建てられ、地方における儒教教育の拠点となりました。 孔子廟は、「文宣王(=孔子)の廟」ということで、略して「文廟」とも言います。 また、城隍廟というのは都市の守り神(城隍神)を祀る廟です。
その土地の守り神という点では日本の産土神(うぶすながみ)に近いものと言えるかもしれません。 昔の中国の都市にはたいてい孔子廟と城隍廟がセットで設けられ、都市の統合の象徴的役割を荷っていました。
そのような孔子廟と城隍廟が、辛亥革命、日中戦争、文化大革命を経た現代にどれほど現役で残っているのかを知りたくて、あえて観光客があまり行かないであろう孔子廟と城隍廟を見て回ったというわけです。 見てきたのは、旧上海県城の孔子廟と城隍廟、それから旧杭州府城の孔子廟と城隍廟です。
(上海の城隍廟の様子。道士たちが祈祷を行っているようだ)
旧上海県城の城隍廟は思ったより観光地になっていて(豫園が近くにあるからですかね)道教式の儀式みたいなことをやっていて面白かったです。 一方、上海の孔子廟の方は中国人でも知らない人が多いらしく、知人の中国人に「上海の孔子廟を見てきた」と言ったところ、「上海には孔子廟は無いはずだ」と否定されてしまいました。あるんだけどなあ・・・。 (旧上海県の孔子廟の大成殿。孔子を祀る建物) (旧上海県の孔子廟の明倫堂。勉強するところ)
(旧杭州府城の孔子廟の孔子像。道教の神像みたい)
旧杭州府城の孔子廟はただで入れたので良かったです。
それから城隍廟の方は特に見どころがあるようにも見えなかったのに、わざわざ韓国語の表示まで有って驚きましたね。そんなに韓国人がこの廟を熱心に訪ねてくるのか? (旧杭州府城の城隍廟の功徳箱。何故か韓国語でも書いてある。「功徳箱」は日本なら「賽銭箱」、韓国なら「福田函」に当たるか)
・・・で、これらを見て思ったことは、「日本の神社みたい」ということです。
何がありがたいのかよくわからないけどとりあえず拝んどけばいいことあるだろう、という感じの現世利益的な祈り方をされているように思えるんですよね。 もちろん城隍廟は本来日本の産土神みたいなその土地の神を祀る廟ですから、神社みたいになるのは当然だと思うんですよ。(中国は道教、日本は神道ですけど) でも孔子廟のような儒教的な施設までが、日本の神社みたいになっていたのは驚きました。 写真を見ていただければわかると思うんですけど、これは参拝者が孔子様へのお願いを書いた紙です。 (願いことを書いた紙がたくさんぶらさげてあった。杭州の孔子廟にて)
(子供の受験合格と家族の健康を祈る母親の願い事。日本の絵馬みたいなものか)
写真の紙には子供の大学受験がうまくいくようにという願いと家族みんなが健康で安らかに暮らせますようにという願いが書かれています。 受験だけならともかく、家族の健康まで孔子様に祈れば何とかしてくれるのか?孔子様はそんなに万能か? と私なぞは疑問に思いますね。 何というのか現在の中国の人にとって孔子というのは、日本人にとっての菅原道真ポジションの神様みたいになっているのではないかなと思います。 儒教の聖人というよりはむしろ関羽のような道教の神様という感じ。 孔子廟にびっしり吊るされている合格祈願の紙を見て、日本の合格祈願の絵馬を思い出したのは私だけじゃないはずだ。 孔子廟は韓国にもあるんですけど、いやむしろ保存状況は韓国の方がいいんじゃないかと思うくらいにたくさん残っているんですけど、中国とはずいぶん様子が違うんです。
まず韓国では中国みたいに入場料を取って参拝者を迎え入れたりしません。 それから韓国では孔子を祀る建物である大成殿を原則的に公開していません。 また、中国みたいにでっかい孔子像を造ったりしません。基本的には孔子の位牌があるだけです。 中国と韓国で同じ孔子廟でもこんな違いが出るのは、お互いのお国事情の違いによります。
中国ではもうすでに儒教が官学としての地位を失い、道教的な宗教施設となって参拝者を呼び込むことで生き残ろうとしているのだと思います(よく知らないけど)。 でも韓国ではまだ孔子廟が儒教施設として現役なんです。韓国では今でも全国的な儒教組織が勢力を保っており、孔子廟はその地域の儒教組織の拠点としての役割を果たしています。 そのような儒教組織は、昔からの伝統的な儒教式祭祀を守ろうとしています。 だから一般の参拝者を呼び込んで観光地化する気はなく、中国みたいに大成殿にでっかい孔子像を造って参拝者に公開したりはしないのです。 道教や仏教と異なる儒教式の純粋な信仰は中国よりも韓国で残っていると言えるのでしょうかね。 ちなみに日本にもわずかながら孔子廟はあります。
日本で一番有名な孔子廟といえば、JR御茶ノ水駅の近くにある湯島聖堂です。 これは江戸幕府が造った孔子廟で、江戸時代には昌平坂学問所という幕府直轄の学校が併設されていました。 私は一度この湯島聖堂の祭礼である釈奠(せきてん)を見に行ったことがあるのですが、祭官を務めていたのは神田明神の宮司さんでした。 日本の神道が仏教と融合していたのは有名な話ですが、儒教とまで融合していたとは知らなかったのでずいぶん驚いたものです。 日本のこの状況を見ると、中国の孔子廟の道教化を笑えませんね。 結局孔子廟の純儒教的性格を守り続けているのは韓国くらいのものなのだろうかと思います。(北朝鮮で孔子廟がきちんと残っているとは考えがたい。台湾やベトナムはどうだか知らないけど) 次に城隍廟ですが、韓国にも城隍廟がありました。
「ありました」と過去形で言うのは今は無くなってしまったからなのですが。 韓国も李朝時代には中国にならって地方都市に孔子廟と城隍廟をセットで造っていました。 しかし、城隍廟というのはあくまでも中国の模倣として政府が造らせたものであったため、中国のように民間に浸透せず、李朝の滅亡とともに消えていってしまったようです。 ただし、城隍廟とほぼ同義の「城隍堂」という言葉は韓国の土着信仰と結びついて現在でも残っています。 韓国の田舎を歩くと村の入り口などに石が積まれていることがあります。 それをソナンダン(서낭당)と言うのですが、これは城隍堂を意味する韓国語「ソンファンダン(성황당)」がなまったものです。 村の入り口に石を積む習慣はおそらく中国の城隍神信仰とは関係無いのでしょうけど、中国から城隍神信仰が入ってくると、この石積みを「城隍堂」の名前で呼ぶようになったのでしょう。 (ソナンダンに祈りをささげる女性。写真はこちらのサイトからお借りしました。http://www.cbinews.co.kr/news/articleView.html?idxno=38810)
孔子廟が民間信仰化して儒教本来の姿を失いつつある中国と、未だに儒教本来の姿をかたくなに守り続けている韓国。
城隍廟が道教的な民間信仰として今でも残っている中国と、城隍廟そのものは消えてしまったけど在来の民間風習の中にその名前だけをとどめている韓国。 中国と韓国は共通する面も多くあれど、違う点もたくさんあります。 今回は孔子廟と城隍廟を見て回ることでそのような共通点と相違点に気付かされたような気がします。 |
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(前回の続き)
ちなみに、この歌は本来韓国のパパヤ(파파야)というグループが歌っていた「私の話を聞いてよ(내 얘길 들어봐)」という曲です。
この歌の動画も貼っておきます。
ちなみに歌詞は次のような感じ。
아잉
アイ〜ン
한번두번세번네번 말해도~ 전혀 지겹지도 않은걸 뭐
ハンボン トゥボン セボン ネボン マレドー チョニョ チギョプチド アヌンゴル ムォ
「一回二回三回四回言っても全然飽きもしないこと
계속 도망가지 말고 이젠 나의 사랑얘길 들어줘
ケソク トマンガジ マルゴ イジェン ナエ サランイェギ トゥロジョ
逃げ回ってないでさあ私の恋バナを聞いてよ」
한두번내에 끝내야지 너의 말을 듣지
ハンボントゥボネ クンナヤジ ノエ マルル トゥッチ
「一回二回で終わらせるんならあんたの話を聞くわ
눈을 뜨면 내게 니남자친구 얘기
ヌヌル トゥミョン ネゲ ニナムジャチング イェギ
目を開けば私にいつもあんたの彼氏の話をして
오늘은 무슨 얘기를 하려고 또~ 아침부터 잠을 깨우니
オヌルン ムスン イェギルル ハリョゴ ト アチムブト チャムル ケウニ
今日はどんな話をしようとまた朝から私を起こすのやら」
하늘이 날 반기고 세상은 아름다워
ハヌリ ナル パンギゴ セサグン アルムダウォ
うれしくなるようないい天気 世界は美しく
어떤말도 나에게는 행복일뿐야
オットンマルド ナエゲヌン ヘンボギルプニヤ
どんな言葉でも私には幸せ
넓은 바다같은 너의 마음속에 그냥 풍~당 빠지고 싶어 아잉
ノルブン パダガットゥン ノエ マウムソゲ クニャン プ〜ンダン パジゴシッポ アイ〜ン
広い海のようなあなたの心の中にそのままザップーンって飛び込みたいの
한번두번세번네번 말해도~ 전혀 지겹지도 않은걸 뭐
ハンボン トゥボン セボン ネボン マレドー チョニョ チギョプチド アヌンゴル ムォ
「一回二回三回四回言っても全然飽きもしないこと
계속 도망가지 말고 이젠 나의 사랑얘길 들어줘
ケソク トマンガジ マルゴ イジェン ナエ サランイェギ トゥロジョ
逃げ回ってないでさあ私の恋バナを聞いてよ」
오늘은 왜 시무룩해 슬퍼보이는지 무슨일이라도 생긴건 아닌거니?
「オヌルン ウェ シムルッケ スルポボイヌンジ ムスンイリラド センギンゴン アニンゴニ?」
「今日はどうしてふくれた顔して悲しそうなの 何かあったんじゃないの?」
오~아니야 어제 하루동안 못봐서 기분이 우울해지는걸
「オー アニヤ オジェ ハルトンガン モッパソ キブニ ウウレジヌンゴル」
「ううん違うよ。昨日一日中会えなくて気分が憂鬱になっただけ」
하늘이 날 반기고 세상은 아름다워
ハヌリ ナル パンギゴ セサグン アルムダウォ
うれしくなるようないい天気 世界は美しく
어떤말도 나에게는 행복일뿐야
オットンマルド ナエゲヌン ヘンボギルプニヤ
どんな言葉でも私には幸せ
넓은 바다같은 너의 마음속에 그냥 풍~당 빠지고 싶어 아잉
ノルブン パダガットゥン ノエ マウムソゲ クニャン プ〜ンダン パジゴシッポ アイ〜ン
広い海のようなあなたの心の中にそのままザップーンって飛び込みたいの
아무도 없는 곳으로 단둘이 떠날거야
アムドオムヌン コスロ タンドゥリ トナルコヤ
誰もいないところに二人きりで行こうよ
하얀 파도가 우리를 부르자나
ハヤン パドガ ウリルル プルジャナ
白い波が私たちを呼んでるじゃないの
하늘이 날 반기고 세상은 아름다워
ハヌリ ナル パンギゴ セサグン アルムダウォ
うれしくなるようないい天気 世界は美しく
어떤말도 나에게는 행복일뿐야
オットンマルド ナエゲヌン ヘンボギルプニヤ
どんな言葉でも私には幸せ
넓은 바다같은 너의 마음속에 그냥 꼭~ 난 빠지고 싶어 아잉
ノルブン パダカットゥン ノエ マウムソゲ クニャン コッ ナン パジゴシッポ アイ〜ン
広い海のようなあなたの心の中に必ずそのまま飛び込みたいの
항상 날 바라보는 니가 내 곁에서 영원할꺼라고 난 믿고 싶은거야
ハンサン ナル パラボヌン ニガ ネギョテソ ヨンウォナルカラゴ ナン ミッコ シップンゴヤ
いつも私を見つめているあなたが私のそばにずっといてくれだろうと信じたいの
모두 부러운듯~ 우리 사랑 모두 질투하고 있는것 같아 아잉
モドゥ プロウンドゥッ ウリ サラン モドゥ チルトゥハゴ インヌンゴ カッタ アイ〜ン
みんながうらやましそうに私たちの愛に嫉妬してるみたいだわ
그냥 풍~당 빠지고 싶어
クニャン プ〜ンダン パジゴシッポ
そのままザップーンって飛び込みたいの
아~두팔에 날 가득 안아줘
ア〜 トゥパレ ナル カドゥッ アナジョ
ああ、その腕で私をいっぱい抱きしめて
ちょっと歌詞の意味を理解しにくいですが、彼氏ののろけ話を聞かされているような歌だと思えばおおむね正解でしょう。
で、何故私があえてこの二つの曲を並べてみたかというと、パパヤの元の歌の歌詞を見れば、王心凌の「愛你」というタイトルの由来がわかると思ったからです。
心凌が「愛你(アイニー)」と歌っている部分は韓国語だと「아잉」(アイ~ン)です。아잉というのは韓国語で女性が甘えるときに出すような声で、特に意味はありません。
それにしてもアイニーとアイーンは発音がそっくりなんですね。
多分、台湾の作詞者は元の歌を聞いた時に、「アイーン」の部分を「アイニー」に置き換えれば中国語曲になると考えたのだと思うんですよ。
それでタイトルまで「愛你」にしたんじゃないかと。
これは私の全くの想像ですけど、両方の曲を聴き比べて見てそう感じたんですね。
いずれにせよ、台湾の作詞者さんは原曲の雰囲気を壊さずにうまく台湾曲に仕上げたと思います。
歌の肝になる「아잉(アイ~ン)」の部分を「愛你(アイニー)」という自然な中国語に直したところは高く評価してもいいと思いますね。
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