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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

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これは、JR青森駅のトイレの中にあった落書きです。


ついに来た入学式。
うれしい入学式。
あのピカピカのランドセル。
そして僕だけ特注の黄色の帽子。
一年生代表の言葉は僕に決まっていた。・・・ドギバギ。
けど僕はそこに立てなかった。
入学式の前夜眠れなかった。
・・・緊張・・・緊張。
緊張のあまり飲んでしまった・・・リポビタン6本。
僕は熱を出していた。
・・・ああ、僕の入学式。
青春の入学式。


あまりにも秀逸な詩だったので、思わずメモしてしまったのです。
いくら緊張しているとしても、「ドギバギ」という擬音は普通には思いつきません。
詠み人知らずとはいえ、すぐれた作品だと思います。

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(上写真)ハノイの歴史博物館でもらったパンフ

第五章、出発の朝
 朝の八時前にホテルを出た。
 ホアンキエム北のバス停からノイバイ国際空港行きのバスに乗るためだ。
 ベトナム航空からリムジンバスに乗れば2ドル(3万ドン以上)だが、ハノイ市の路線バスに乗ればわずか2千5百ドン。破格の安さだ。
 ノイバイ国際空港はハノイ市の端にあり、車で大体五十分ほどかかる。私はバスの座席に座りながら、漫然と外の景色を眺めていた。紅河デルタの青々とした稲作地帯が、小雨にけぶっていた。
 私はふと昨日のことを思い出した。
 昨日私はラン・フウンに連れられハノイの西にあるバクニン省に行っていた。おそらく漢字は「北寧」とでも書くのだろう。
 ラン・フウンはバイクが運転できないため、バスでバクニンまで行き、その後はバイクタクシーに三人乗りして(やればできるものである!)あちこち回った。
 帰りのバスの中で「またベトナムに来てね。あなたがもう一度来たときには私もヴァンも、マイチーも、みんな結婚してるかもしれないけど・・・」と彼女はささやいた。
 ――「結婚」――、この言葉が私を現実に引き戻した。そうだ、彼女達はもうそんな年なのだ。周りがどんどん大人びていく中で、自分だけが取り残されているような気がした。
 バスを降りると、彼女は私の手を引いて歩いた。
 「このあたりは物騒だから。」と、手に力がこもっていた。
 「じゃあ、さようなら。」と言ってフウンは雑踏の中に消えていった。
 あの後彼女は職場へと向かったのだろう。
 ここで出会ったベトナム人達と、次に会うのは何年後になるのだろう。もう一度紅河デルタの地を踏むのは・・・。
 バスは10時前にノイバイに到着した。早く来すぎたような気がする。まだ手続きも開始されていない。
 ぼんやり新聞を眺めながら回想に耽った。
 ハノイの20日間。
 長すぎたようで私には短く感じられた。
 ある日本人観光客はハノイは三日で飽きたというが、私には20日でも足りないぐらいだった。
 入国のときの胸の高鳴りは今でも忘れられない。飛行機が少しずつ高度を落とし、雲間からベトナムの山野が見えてきたとき、「ああ、私は異国に来たのだ」と、叫びだしたいような衝動に駆られたものだ。
 今、そのときと同じ空港からまた飛び立とうとしている。
 手続きは意外に早く終わった。
 来るときは恐く見えた係員達も(いかにも共産党といった制服で、にこりともしない)、帰るときには優しく見えた。
 飛行機に乗り込むと、新聞には「台湾総統に陳水扁が当選、連戦・宋楚諭が選挙無効を主張」という見出しの記事が載っていた。
 陳水扁、といえばこの前撃たれた人・・・、何故かおかしくなった。
 私がぼんやりしてる間にも世の中は動いてるな、と思って外に目をやると、飛行機が少しずつ動き始めたところだった。
 加速をつけて機体がふわりと宙に浮いたかと思うと、そのまま春雨の雲に突入した。ハノイはあっという間に雲の中へと消えていった。
 また、現実に戻るのかな、と思った。
                  (完)


あとがき
 これはベトナム旅行をした2004年に書いた旅行記です。
 とある同人誌に載せたところ、意外に評判が良かった記憶があります。
 「西貢」というHNも、この時のペンネームに由来しています。
 思えば、この時から、私は旅行記を書くようになったのでした。                 

第四章、トゥーとチャン
 フンが私をバイクに乗せて、集合住宅の前で下ろした。外にはしとしと雨が降っていた。
 フンは勝手知ったる我が家のようにズンズン奥へと入っていくが、私はここぞとばかりに遠慮して日本人らしさを発揮していた。
 20代前半の聡明そうな女性が私を中に招き入れた。ベトナム人に多いすっきりした感じの美人である。
 彼女の名前はトゥーという。フンの友達だそうだ。
 「Is she your lover?(彼女はあなたの恋人?)」と後で聞いたら、フンは「No!」と否定した。そういう関係ではないらしい。
 彼女の家が何階建てなのかはわからないが、一階には茶の間と台所があった。二階以上に寝室があるのだろう。
 台所ではトゥーのお母さんが料理をしており、茶の間にはトゥーより背の高い女の子がいた。
 彼女の名前はチャン。トゥーの妹である。日本語を勉強しているという。
 この家には彼女が書いたと思われる「おかあさん、おたんじょうび おめでとう」という文字や「あかさたな」の五十音表が散見された。
 「はじめまして」とチャンが綺麗な日本語で話しかけてきた。
 「はじめまして、」と私が返す。
 聞くところによるとチャンは半年前に大学に入学し、それから日本語の勉強を始めたという。わずか半年しか勉強してないわりには彼女の日本語はうまかった。
 日本語を誰に習ったのか、と彼女に尋ねた。彼女は水島さんだと言い、知ってるかと付け加えた。私は知らないと答えた。
 日本に行ったことがあるかと尋ねたら、ない、でもいつか行ってみたい、と答えた。
 日本に来たら私が歓迎するよ、と言って少し陰鬱な気分になった。
 豊かさの違い―――それは私たち二人の間に厳然と存在していた。
 海外に遊びに行ける日本人と、母国の外に出られないベトナム人。
 わずか一握りの選ばれた者達だけが祖国の壁を越えることができる。
 彼女はその壁を越えることが出来るのだろうか。もし越えて日本に来たとしても、そこで祖国ベトナムの後進性をまざまざと見せ付けられることになるのだろうか。
 トゥーが食事を運んできた。もう夕食の時間である。床の上に食事を盛った皿が並べられ、みんなが車座になってあぐらをかいた。私だけが正座をしていた。
 「その座り方は何なの?」とチャンが目を丸くした。これが日本のフォーマルな座り方なんだよ、と説明したら、「でも私にはできない」と悲しそうに足を組み替えていた。
 日本にあぐらは無いの、とチャンが言う。
 「あるにはあるけど・・・」どう説明したらいいのかわからない。私の下手な英語ではなおさらだ。
 食事が始まった。私は元来食べるのが遅い性質なので、なかなか箸が進まない。それを見かねたのかトゥーが口を出した。
 「このご飯はどれもおいしいんだから、遠慮せずにもっと食べなさいよ。」
 どうやら遠慮してると思われたらしい。
 「I know, I know.(わかってる)」と答えて再び箸を動かす。
 茶碗があくともう一杯食べるかと聞かれ、トゥーのお母さんがあんまりうれしそうにおかわりを出してくれるものだから、四杯も食べてついに音を上げた。
 食事が終わるとトゥーがホットレモンティーを出してくれた。やはりLiptonだった。
 ベトナムではLiptonが紅茶の代名詞のようになっている。喫茶店などでLipton印が無いことはまず無い。
 「ホアンキエム湖はどうして湖なんだろね。」と私が言った。
 「どういう意味?」とトゥーが答える。
 「あんなに小さいのにLake(湖)というのはおかしくない?せいぜいPond(池)じゃない?」
 「昔はもっと大きかったんだけどね。」フンの答え。「だんだん小さくなって今のようになったんだよ。」
 ホアンキエムとはハノイの中心部にある湖(大きさからいえば池)である。漢字で書くと「還剣」。
 ベトナムの英雄レー・ロイ(黎利)がこの湖の亀から剣を賜り、それを使って北からの侵略者を追い払った。
 このことを記念して、彼は湖に亀の塔を建て、それが今のハノイの顔になっている。
 「池と湖では、大きさだけじゃなくて用途が違うんじゃないかな。」という新説をトゥーが発表した。
 「池は飲み水を汲んだり洗濯したりする所だけど、湖は見るものなのよ。」彼女はふっと髪をかきあげた。
 それでも私が納得できない様子を見て、「昔の人が使い始めた呼び方を今の人たちがそのまま使ってるだけでしょ、きっと。」と結論づけた。
 チャンはトゥーほど英語が得意でないためか、湖の定義論争には加わらなかった。
 お母さんに至ってはおそらく英語が出来ないからなのだろう、ただ私たちのやり取りを微笑ましそうに見ているだけだった。
 「ハノイはどうですか?」とチャンから質問が出た。
 ベトナム人から何度この質問を受けたかわからない。その度に私は返答に窮するのであった。
 「日本と比べるとどう?」
 日本に比べると汚いし、うるさいし、排気ガスが多いし、所在無げに座ってるオッチャンが沢山いるし、・・・どれもマイナス評価ばかりだ。ただ、それがハノイの味であり、魅力でもあるのだが。
 「it’s very interesting・・・(とっても面白い)」と私は苦し紛れに答えた。
 何故?とチャンがさらに尋ねてくる。
 いよいよ返答に窮した私はこう言った。
 「ハノイには色々な人がいるから。シクロの人もいるし、パンを道端で焼いて売ってる人もいるし、靴磨きや物売りの人もいるし・・・」
 「日本にはそういう人がいないんですか?」
 「Yes,」と続けて、「日本はほとんどの人がサラリーマンで、とても画一的だから・・・」明らかに苦し紛れの発言である。
 「だからハノイはバラエティに富んでいて面白い。」
 「フーン、」気の無い返事の後、「西さんはベトナム料理で何が好きですか?」という質問が飛び出した。
 「えーと、フォー、ブン、チャオ、・・・それからバイン・ミー、ビッテット・・・」それ以上料理の名前が浮かんでこない。さっきの料理の名前すらわからない。
 軽く説明しておくと、フォーはうどんより細い米麺で、ブンは米で出来たそうめん、チャオはお粥、バイン・ミーはフランスパン、ビッテットは肉と野菜の鉄板焼き。
 「私は日本料理では天ぷらが好きです。」とチャンは言う。
 でも天ぷらは新しい料理なんだよ、と私が説明した。昔は天ぷらで油が悪くて死ぬ人もいたんだよ、と言うと彼女は驚いていた。あ、でも安心してね。今はもう大丈夫だから、と念のため付け加えた。
 「日本語は漢字がとても難しいんです。」
 へえ、そうなの?と聞くと、頷いて、「一番難しい」と言う。
 そうかな、でもね、と私が口を開く。
 「ベトナムにも漢字がたくさんあるじゃない。」
 これは事実である。実際ベトナムの寺院やお守りには漢字がたくさん書いてある。また、普段使っている皿にも、中国風の女性像と共に「麻姑献寿」の四文字がよく書いてある。かつてのベトナムは日本以上の漢字大国だったのだ。
 しかしクォック・グー(国語)の普及と共に漢字が駆逐され、嘆かわしい事に漢字の読めるベトナム人は今ではほとんどいない。
 「日本語を勉強する、しないに関係なく、漢字は勉強しておいたほうがいいよ。漢字を勉強することでベトナムの文化を知ることにもなるからね。」と英語で言ったものの、誤解を与えてしまったようだ。
 「漢字」を英訳するとChinese characterだが、この言葉はまことに都合が悪い。まるで漢字が「中国の文字」という印象を与えてしまうからだ。
 ベトナム人の対中意識はあまり良くないのではないかと思う。
 ベトナムの歴史は中国王朝の支配と侵略を抜きにしては語れない。ベトナム最初の王朝と言われるのは10世紀の呉朝であるが、それまでハノイを含むベトナム北部(これが狭い意味でのベトナム)は中国王朝の長い支配下にあった。つい25年まえには中越戦争が起こっているし、後漢と戦ったハイバー・チュン(徴姉妹)が民族的英雄としてもてはやされている国である。対中感情が悪いとしても何の不思議もない。最近では中国の経済躍進のためベトナムは圧迫感を感じていると言う。
 フンが思い出したように口を開いた。「今中国がどんどん経済成長してるだろ。そのうちアジアは日本陣営と中国陣営に分かれるような気がするよ。」そうなったらベトナムはどうなるんだろう、と言いたげな口ぶりだった。
 「それはない。」と私は何の根拠もなしに言った。そうなってほしくない、と思った。
 軽はずみにChineseという単語を繰り返していたことを悔いた。もう少し慎重に使うべきだったかもしれない。
 「そろそろ時間も遅くなったから・・・」とフンが立ち上がった。トゥーも明日テストがあるから、と二階に上がっていた。
 そろそろ立ち去るべき時が来たと感じた。
 「Cám ơn(ありがとう)」や「Tạm biệt(さようなら)」と下手なベトナム語で連呼すると、「君がベトナム語を覚えるのが早いか、チャンが日本語を覚えるのが早いか競争だな。」とフンがからかった。
 見送りに出てきたトゥーが「西さんはバイクを運転しないの?」と尋ねた。
 「運転できないから・・・」と言うと、「やればできるから、やってみなさいよ。何事もチャレンジよ。」とやりこめられた。
 しかしいくら生命保険をかけているとはいえ、命は惜しい。おとなしくフンに運転してもらった。
 フンは私をバイクの後ろに乗せて夜のハノイを走った。
 ホアンキエムの亀の塔が見えてきたとき、もう少しで日本に帰らなければならないのだなと思った。ちょっぴり淋しい気がした。

                     (続く)

第三章、ハノイ歩き
 銀座をぶらつくのが「銀ブラ」なら、ハノイをぶらつくのは「はのブラ」だろうか。どうもしっくりこない。
 まずハノイについての豆知識を話そう。
 ベトナムは南北に細長い国であり、かつては三つの世界に別れていた。
 北部ベト族の世界、中部チャム人の世界、南部クメール人の世界である。
 10世紀に中国王朝の支配から独立したベト族が13世紀の元寇を耐え抜いて、15世紀に中部チャム人のチャンパ王国を滅ぼし、17世紀以降南部クメール人の土地を併合して、現在のベトナムの領土をつくりあげた。ベトナムの歴史は、北部ベト人による南進の歴史といえるかもしれない。
 ベトナムは南部と北部に大河があり、その河口にデルタが発達した。北の河が紅河(ホン河)であり、ハノイ市を貫流している。南の河はメコン川であり、サイゴン(現在のホーチミン)がそのデルタの中にある。このメコンを遡れば、アンコール・ワットで有名なカンボジアである。
 河を流れる土が黄色いから黄河というように、流れる土の色が紅いから紅河である、・・・というのは私の友人が言っていた説なので、真偽のほどは定かでないが、そう言われてみると本当に紅く見えるのだから不思議だ。
 ハノイは漢字で書くと「河内」であり、紅河とは切っても切れない関係にある。ハノイの他にもハタイ(河西)やハナム(河南)といった、紅河にまつわる地名は数多くある。
 ハノイの中心部にあるホアンキエム湖は、紅河の一部が埋め立てによって本流から切り離され、池となったものである。私はその周辺のホテルに泊まって毎日ホアンキエム周辺を歩き回っていた。
 ハノイの話をあと少しだけさせてもらう。ハノイという地名は割合新しく、19世紀以降の名前である。それ以前にはここはタンロン(昇竜)といった。
 唐の滅亡(907年)によって中国勢力のベトナム支配が弱まると、ベトナムでは独立の気運が盛り上がり、939年、ベトナム最初の王朝である呉朝が誕生する。その後いくつかの王朝が興廃を繰り返し、1010年初の長期王朝である李朝が誕生する。この王朝が都としたのがタンロン(今のハノイ)であった。
 その後陳朝(1225〜1400)、黎朝(1428〜1789)の都であり続けた。 
 しかし、ベトナム最後の王朝である阮朝(1802〜1945)は都を中部のフエに移し、タンロンは単なる地方都市となり、その時ハノイ(河内)と改称された。
 しかしホーチミンに率いられたベトナム共産党政府が再びここを首都とし、現在に至っている。
 ハノイはフランスの植民地支配を受けたためか、洋風の建物が多い。専門家によれば南仏プロヴァンス様式だという。壁の黄色い建物が多く、日本には無い異国情緒を感じる。

 ハノイを歩いてまず感じるのはバイクの多さである。気をつけながら歩かないとバイクに轢かれて病院送りなんてことにもなりかねない。信号はところによってはあるものの、青信号が極端に短く、あまり意味をなしていない。
 私が主に歩き回ったのはハノイ旧市街と言われるところで、3階4階建ての建物が所狭しと並ぶ、空の狭い地域である。外国人観光客が最も多いところなので、お土産屋さんも多く、何かと声をかけられることの多い地域である。
 街を歩いていると必ず声をかけてくるのがバイクタクシーとシクロだ。
 バイクタクシーとはその名のとおり、バイクの後ろに乗って目的地に連れて行ってもらう交通手段である。シクロとは自転車つきの人力車であり、遥かに体格のいい白人を小柄なベトナム人が乗せている光景などを見ると、植民地時代に戻ったかのような錯覚を受ける。どちらもベトナム語ができないかぎり、トラブルになることが多く、私はベトナム人と一緒の時しか乗らなかった。
 「Hello!」こんな声をかけられても乗る気がないのなら無視するに限る。向こうも悪い人ではないから、無視していればあきらめてくれる。
 東南アジアはどこでもそうなのかもしれないが、物売りの子供をよく見かける。私は日本では絶滅したと思われる靴磨きの子供がいることに感動していた。宮城まり子の「ガード下の靴磨き」の世界がここではまだ健在なのである。
 そういえばベトナムはテレビドラマ「おしん」が大ヒットした国である。しかも「おしん」は「子守りをする女性」という意味のベトナム語になっている。私が話したベトナム人も「おしん」に関する熱い思いを語ってくれた。
 ベトナムで物を買うときほとんどの商品には値札がついていない。あまり定価という概念が無いためらしい。客を見ながら値段をつけるというやり方がここでは生きている。
 よって値段を下げるためには交渉する他なく、交渉次第ではかなり安くすることも可能である。(ただしそれでも現地の人間が買うよりは高いかもしれないのだが)
 ベトナムの買い物で困るのは、お金の単位が大きいことである。ベトナムのお金の単位はドンであり、私が行った時の為替レートは1円=150ドンくらいであった。よって一回の食事で一万ドンくらいは出すし、高いものを買おうとすれば10万ドンを超える。
 この時いかに混乱せずに日本円に換算して考えられるかが勝負である。普通に一桁くらい勘違いすることがある。
 ぼったくられるのがいやな人はデパートか国営百貨店にでも行こう。安いかどうかは知らないが、きちんと値札はついているので安心である。
 私はホアンキエム湖の東南部にあるチャンティエンプラザというデパートによく行っていた。日本ではデパートなんて行きたいとも思わないが、ベトナムでは不思議と心が休まる気がした。現代っ子なのだなあ、と思う。
 しかしこのチャンティエンプラザもなかなかの曲者だった。見かけは日本にでもありそうな万国共通の(その反面、きわめて非ベトナム的な)デパートなのだが、困ったことにお釣りをきちんと出さない。毎回お釣りが200ドンほど少なく、代わりにガムが一枚付いてくる。サービスなのかぼったくりなのかよくわからないデパートである。
 意外に聞こえるかもしれないが、ハノイでは乞食をほとんど見なかった。それはこの国の政策なのかもしれない。帰国する前日の夜に傷病兵と盲目の老婆を見た他は、乞食らしい人にはついぞ出会わなかった。
 そういえばその夜に面白い事件が一つあった。私が歩きなれたホアンキエム沿いの道を歩いていたら突然女の子に話しかけられた。日本人でいえば中学生くらいの背格好である。
 少年のような声だった。「Hey, do you like postcards?(どうも、ポストカードはいかが?)」
 ポストカードを売りつけようとしているのだな、と思い、「Không cần(いらない、という意味のベトナム語)」と答えたものの、彼女はなおも食いついて離れない。頼んでもいないのにポストカードを取り出し始め、早口の英語で説明し始めた。
「OK. This is Ho Chi Minh Museum. This is Nha Trang where many people come during summer vacation. This is a very famous resort. OK, this is Hue which was the capital of Nguyen dynasty. Many court, many people, it’s fantastic! You like Halong Bay? It is not so far from Hanoi. You can enjoy watching beautiful rocks. There is a legend of Dragon! Many visitors come here every year・・・(これはホーチミン博物館。これは夏休みに沢山の人が来るニャチャン。とても有名なリゾート地だよ。これは阮朝の都だったフエ。沢山の宮殿に沢山の人、とてもすばらしいところ!ハロン湾は好き?ハノイからそんなに遠くないよ。美しい岩が沢山見られるよ。竜の伝説があって、毎年多くの観光客がここを訪れていて・・・)」
私はこの少女の英語の上手さに驚嘆していた。発音にくせはあるものの、泉のようにあふれ出す言葉。
 正規の英語教育を受けたとは思われない物売りの少女にこんな力があるとは。生きるためのひたむきさをそこに見たような気がした。
「How much?(いくら?)」
 私はこの子の英語力に感心して買う気になった。
「1dollar!」
 それは高い、1万ドンにまけて、と交渉したら案の定値下げした。この様子からすると原価はもっと安いのだろう。しかしそれ以上に値下げする気は起こらなかった。
 私は財布から一万ドンを取り出し、ポストカードと交換したが、その後が大変だった。
 予想はしていたことであるが、その子の妹分と思われるもっと小さな女の子たち――中には幼稚園児のような子もいた――が私のそばに群がってきた。
 その子たちは英語が上手くはなく、何を言っているのかわからなかったが、それぞれ手にマリービスケットやガムを持って、値段を言っているようだった。
 私は無視して立ち去ろうとしたが、二人の子がついてきた。一人は小学生のような体格で、もう一人は幼稚園児のようだった。
私はふと興味がわいて、「Em bao nhiêu tuoi?(お嬢ちゃん、年いくつ?)」と慣れないベトナム語で聞いてみた。
 マリービスケットを持った大きな子の方が左手の指を一本、右手の指を三本立てて、「mươi ba(13)」と答えた。不思議なことに私のベトナム語が通じていた。少女は13歳にしては体が小さかった。発育のいい日本人とは大違いである。
ガムを持った小さな子もひょこひょこ歩いて私達にようやく追いついたので、私はまた同じ質問をしたところ、その子は「sáu(6)」と答えた。
少女たちは道端に座り込んで私を見ていた。買ってくれることを期待してるのだろう。でも私に買う気は無かった。
私は20歳だと言うと、少女たちは顔を見合わせて「hai mươi(20)」を反芻していた。
 買う気はなかったがこの子達が不憫に思え、何か買ってやろうと思った。
 そこを折りよくバナナの天秤棒をさげたおばさんが通りかかったので、呼び止めて料金交渉を始めた。
 おばさんはバナナ一房1ドルだと言ったが、明らかに不当な価格である。
 そこで「tám nghìn(8000ドン、日本円の五十円強くらい)」と主張したら、私の発音が悪いためかおばちゃんの耳が悪いためか「năm nghìn(5000ドン、日本円の三十三円くらい)」と聞き間違えたようで、5000ドンはできない、7000ドンならいいと言いだした。
 これ以上下げさせるのもわずらわしかったのでその額で買うことにした。
 おばちゃんはそこに子供がいるんだから子供たちのためにあと2房ほど買えと言い出した。この子たちとグルなのかもしれない。
 買ったバナナをその子達にあげようとしたら、あっけなく拒否された。13歳の子だけならともかく、6歳の子のほうも首を振って頑なに拒んだ。
 いらない、いらない、いらないから買え、と言っているようだった。
 私に買う気が無いことを知った13歳の子は、このままでは埒が明かないと悟ったのか、うわーんと声をあげた。泣き落としである。6歳の子も真似してワーと叫びだした。
 どうもこれはまずいと思いあわてて逃げ去ったので、その子たちがそれからどうなったのか知らない。今でもホアンキエム湖で道往く外人の袖を引いているのだろうか。
 バナナは食べ切れなかったのでホテルの人にあげることにした。 

                       (続く)

イメージ 1

(上)旅行中に使ったハノイ地図

第二章、再会
 他の東南アジア諸国はどうだか知らないが、ハノイはバイクの町である。
 自動車などは数えるほどしか無いのに比べ、バイクだけは数え切れないほどある。
 そのバイクがほとんどホンダであり、ヤマハであり、スズキであるのが面白い。
 ハノイでは老いも若きも男も女もみんなバイクに乗る。運転できない人はバイクタクシー(そういう物があるのだ)に乗る。バイクがハノイっ子の足になっている。
 しかしヘルメットをかぶっている人間は誰もいない。少なくとも見たことがない。フンも鼻歌を歌いながら、よそ見をしながら、片手を離しながら気楽に運転していたが、一緒に乗っている身からすればとても危なっかしい。せめて事故は私のいない時に起こしてほしいものだ。
 無数のバイクが光の川となって闇のハノイを流れてゆく。何だか不思議な気分になってぼんやりしていると、音を立ててバイクが止まった。小ぎれいな喫茶店の前だった。
 さあ入ろう、とフンが手招きした。二人の女の子も私に入るよう促した。
 喫茶店の中は薄暗くライトアップされ、しゃれた音楽が流れていた。こざっぱりした身なりの若者達が優雅に談笑していた。昨日までのビンザンとは随分違うな、と思った。
 ビンザンはベトナムを語る上での一つのキーワードである。漢字では「平民」と書き、一般庶民の事を指す。
 ここで言うビンザンとは大衆食堂(クアンコム・ビンザン)のことである。似た意味の言葉としてニャンザン(人民)があるが、これは共産党政府が好んで使うため、一般のベトナム人にとってはビンザンのほうが馴染み深い。ちなみにベトナムの政府公認新聞の名前は「ニャンザン」である。
 店の中はたいして混んでいなかったので、空いてる席に適当に座ってみた。あとの3人も私が腰掛けた席のそばに座った。
 一つのテーブルに4人が顔を合わせたが、短い沈黙があった。それを破ったのがフンである。
 「西、よく来たな」そんなことを言ったと思う。それとも、「会えて良かった」だったかも。まあ、どちらでもいいことだが。
 「僕らは君を心から歓迎するよ。」
 本当にそんなことを言ってたのだろうか?英語で話していたので思い出せない。
 「明日から僕らが時間のあるかぎり君の案内をするからね。」とフンは言う。
 「明日は僕が案内しよう。」と、フン。「ホーチミン廟は行ったことがあるかい?」
 ない、と首を振ると、「よし、じゃあ決まりだ。明日はホーチミン廟!」呆気なく決まった。
 「じゃあ、明後日は私が案内するから・・・」と言って髪の長い女の子が言う。彼女は私の手帳に自分の名を書き込んだ。「ヴァン」それが彼女の名前だった。
 彼女がもう一人の娘を指して、「紹介するわ。これ私の妹のフック。」
 はじめまして、とフックが挨拶した。フックはあまり口を開かず終始控えめにしていた。
 「何を飲む?」と聞かれたものの、ベトナム語が読めないので何が出てくるのか見当もつかない。
 Lipton(紅茶)やCàphê (コーヒー)やtrà(茶)くらいはわかるものの、知らない飲み物を頼んでみたかった。結局選んだのは熱い生姜湯みたいなもので、とても飲み辛かった。
 「氷を入れればいい。」と彼らは主張するが、東南アジアで氷は大敵である。東南アジアに行った日本人が食中毒でやられる原因の多くは生水、氷、生野菜である。
(・・・でも結局このお店の衛生管理を信用して、氷を入れました。)
「ハァーイ」と女性の声がして、私の隣に座った。
 「久しぶりね、西」メガネをかけた丸顔の女性。顔に残る火傷の痕が生々しい。
 「久しぶり、ラン・フウン!」私は目を丸くした。
 彼女の名前はラン・フウン。熱帯的な顔立ちと火傷の痕を負った女性。連絡がとれなかったので、おそらく会えないだろうと予想していたのだが、誰かが彼女を呼んでくれたのだろう。
 「フウン、私が以前にあげた折り紙を覚えてる?」
 私は以前、ラン・フウンに折り紙を教えようとして、返り討ちにされた経験がある。私よりずっと早く鶴を折りあげて、「私は折り紙が好きなの」と気勢を上げていた。私はすぐさま白旗をあげ、彼女に折り紙をプレゼントしたのである。
 フウンは何の事だろうとしばらく考えてから、「ああ、あれね。」と言ったが、それ以上は語らなかった。
 彼女は一年半前に会った時に比べて遥かにおしゃれになっていた。かつての素朴な面影は見られなかった。
 「久しぶり〜」と、もう一人やって来た。
 「おー、マイチー」と歓声があがった。端正な顔立ちで、フンからは「僕らの仲間うちで一番きれいな娘」と言われているマイチーだった。以前より髪が伸びて記憶の中のイメージとうまく重ならなかったため、一瞬戸惑いを覚えた。
 「西、久しぶり。他の日本の友達は元気にしてる?」
 うん元気だよ、と答えて、胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
 これで私を迎えてくれる人が5人になった。私という一人の日本人のために、これだけの人数が集まってくれた事に私は素直に感謝していた。生来涙もろい私はついホロリとしてしまいそうで、あわてて目元をぬぐった。
                        (続く)

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