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(写真1枚目)郷校に行く途中に撮った民家の屋根。韓国の民家の屋根は青や緑や朱色などあざやかな色で塗られているものが多い。屋根の上で柿を干しているようだ。
(写真2枚目)郷校の入り口にあった「襄陽郷校」とかかれた石碑。その隣の小さな石碑が下馬碑。「大小人員下馬碑」と書かれていた。どれくらい古いものかは不明。
(写真3枚目)襄陽郷校。赤い鳥居みたいなのはホンサル門。郷校や廟、王墓などの入り口に立てる。この風景を見て、何となく日本の神社を連想した人、挙手!
(写真4枚目)襄陽郷校の明倫堂。明倫堂は学生が講義を受ける建物。ここの郷校では明倫堂の下が通り抜けられるようになっており、大成殿に向かう門の役割を果たしている。
(写真5枚目)大成殿の前の門。私が行った時には閉まっており、大成殿を見ることはできなかった。大成殿は孔子を祀る建物であり、一種の宗教施設であるため、観覧するためには許可が必要なのだろう。
11月20日 土曜日(2)
洛山寺を見終わった後、さらに南下して襄陽(ヤンヤン)の市街地に行くことにした。襄陽は朝鮮時代(1392〜1910年)には関東の重要な都市であり、それなりに有名な歴史的遺物が残っていそうなのだけど、何があるのか知らない。
まあ、現地に行けばそれなりに何かあるだろうと、何も考えずにバスに乗り込んで襄陽の市街地に行くことにした。
バスの中から襄陽の市街地をぼんやりながめているうちにいつの間にか繁華街を通り抜け、明らかに町外れの方にバスは向かっている。
しまった、降り遅れたかと思ってあわててバスを降りる。
襄陽は私が想像していたよりも小さな町のようで、繁華街といえる場所はそんなに大きくなかった。
降りた停留所はソムン里(서문리)という所で、漢字ではおそらく「西門里」と書くのだろう。いかにも邑城の西門が有ったような場所である。
邑城といわれてもこのブログを読んでくださっているほとんどの方には何のことだかわからないと思うので、(何を今さらではあるが)少しだけ説明する。
韓国(北朝鮮を含む)の地方都市はほとんどが朝鮮時代以来の邑を基礎としている。
邑は朝鮮語では「コウル(고을)」といい、日本の市町村のような地方行政区域である。(朝鮮時代には邑には、都護府、郡、縣などのランクがあった。なお、「コウル」という朝鮮語と日本語の「こおり(郡)」は語源が同じであるといわれている)
朝鮮時代には全国は300以上の邑に分けられ、邑ごとに地方官が派遣され、その邑の行政を行なった。
大抵の邑ではその邑の中心区域が城壁で囲まれており、その城壁で囲まれたところを「邑城」といった。
今はほとんどの邑城は壊されて無くなってしまっているが(私の記憶が確かなら高敞と楽安には残っていたはず)、地名にその名残が見られることもある。たとえば、市街地が「邑内(ウムネ)」という地名ならば、そこはかつて邑城の内部だったと推測できる。
あれ、何でこんなことを書いてるんだっけ?
そうそう、襄陽でソムン里という停留所で降りて、そこが襄陽都護府の西門があった所じゃないかと推測したという話だったね。
今回の旅行は関東地方の歴史遺跡を回る旅なので、いきおい歴史の話題が多くなるだろうけど、勘弁してね。
バスから降りた私は、さてどこに行こうかと考え、観光案内所でもらったパンフレットをながめた。
「めぼしい遺跡は無さそうだぞ。困ったなあ・・・」とため息をもらしていたら、パンフレットの地図にさりげなく「襄陽郷校」という文字が見えた。
ええ!マジで?
襄陽って郷校が残ってたの?
「郷校」という言葉を見て、私の胸は高鳴ったわけだが、「郷校」についても少し説明が必要だろう。
「郷校(ヒャンギョ)」とは、各邑ごとに設置された国立の儒学教育機関であり、高麗時代(918年〜1392年)から朝鮮時代(1392年〜1910年)にかけて政府によって運営された。
朝鮮王朝滅亡以後は国立教育機関としての機能を失ったが、その地方ごとの儒者たちが保護・管理してきたおかげで、韓国には今でもかなりの数の郷校が残っている。
大抵邑の中心部にあるので、観光するにも便利。韓国の地方都市に旅行に行かれることがあったら、一度見ていかれたらどうですか?(繁華街周辺に「校洞(キョドン)」なんて地名があったら、昔郷校があった場所だと推測できます)
幸いなことに、私が下車したソムン里から襄陽郷校までは遠くない。十分歩いて行ける距離なので、行ってみることにした。
郷校まで行く道はどこにでもありそうな韓国の農村といった感じの風景で、あちこちに植わっている柿の木にはよく熟したおいしそうな柿が実っていた。
一つくらいもいで行きたい気分だったが、万一つかまりでもして、「日本人留学生、柿窃盗で逮捕」なんて記事が新聞に載ったりしたら嫌なので、やめておくことにした。
襄陽郷校は観光客がまず来なさそうな農村の丘の斜面にあった。
「こういう丘には日本だったら神社がありそうだなあ」なんて思ってみたが、たしかにそこは日本の神社に似ているような気がした。
郷校の外にある「下馬碑」は狛犬みたいなもので、郷校の石段の下にあるホンサル門は鳥居みたいで、明倫堂(学生が講義を受ける建物)と大成殿(孔子を祀る建物)はそれぞれ神社の拝殿(参拝者が拝んだり賽銭を入れたりする前の建物)と本殿(拝殿の後ろにつながっている奥の建物)みたいなものなのかなあ、なんてどうでもいいことを考えていた。
襄陽の郷校はそもそも14世紀に安軸(アン・チュク)という人物が地方官としてやって来た時に建てたのが最初であり、その後何度か移転を繰り返し、最終的に今の場所に落ち着いたものらしい。
現在の建物は1950年に朝鮮戦争で焼けたものを地元の儒者たちの手で再建したものだという。
郷校に入ってみると、「儒道会襄陽郡支部」とか「伝統的家族制護持」なんて書いてあって(もちろんハングルではなく漢字で)面食らった。
韓国ではやはりまだ儒教は健在なのだと思った。
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