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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

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モンゴル語の辞書をパラパラめくっているとたまに、「おや?」と思うことがある。
その「おや?」には色々な「おや?」があるが、一番多いのは朝鮮語と共通する語彙を見つけた時だ。

たとえばモンゴル語で「父親」は「ААВ(アーブ)」という。これは文語だと「abu(アブ)」もしくは「aba(アバ)」というらしい。
これを見てすぐ思い浮かぶのは「父親」を意味する「아버지(アボジ)」という朝鮮語である。
これは標準語だと「アボジ」だが、方言で「アブジ」と発音することがよくあり、モンゴル文語の「アブ」と極めてよく似た発音になるのである。

またモンゴル語で「月」を「САР(サル)」というが、朝鮮語では「달(タル)」という。
また、モンゴル語で右側(Баруун Зүг)、左側(Зүүн Зүг)という時の「側」は「Зүг(ズク)」というのだが、朝鮮語ではこれを「쪽(チョック)」という。

このように朝鮮語とモンゴル語には似たような語彙がしばしば見られる。
今ここで挙げた言葉がたがいに関連を持つのか、それとも単なる偶然の一致なのかはわからないが、両国の関係の歴史を考えると、単なる偶然としてすませてしまえないような気がする。

朝鮮とモンゴルが深い関係を結んだのは13世紀から14世紀までのいわゆるモンゴル帝国時代(最近は「イェケ・モンゴル・ウルス」という言葉が一般的になりつつあるが)である。
この時代にモンゴルはユーラシア大陸の大部分を征服し、東は高麗、沿海州、サハリンから西は南ロシア平原、アラビア半島まで勢力を伸ばした。
この時代高麗王朝と呼ばれた朝鮮もまたモンゴル帝国の勢力圏内に入り、日本遠征に協力させられたことは有名な話である。
こういう時代であるから、モンゴル文化が朝鮮に入り込むのは当然である。そんなことはモンゴルの勢力圏におさめられた地域では全て経験していることであろう。
しかし朝鮮の場合面白いのは、逆にモンゴルにも影響を与えていると思われることなのである。

モンゴル時代において、朝鮮はモンゴルに人を輸出していた。それは主に女性と宦官だった。
元代社会では高麗女性の人気が高く、元の上流階級では高麗女性を娶ることが社会的ステータスになっていた。
そのため元王朝は高麗に対して良家の少女たちを元に送るように要求し続けた。これを「貢女(こうじょ)」という。
韓国では「貢女」の歴史を民族の悲劇としてとらえ、まるで奴隷に売られたかのようなイメージで貢女をとらえているようだが、実際にはそんなみじめなものではなかったと思う。

貢女として元に連れて行かれた女性たちの多くは元の上流階級に嫁入りしている。
元王朝といえばマルコ・ポーロがその栄華を絶賛したように、間違いなく当時の世界のセンターだった。
元での生活水準は明らかに高麗よりも高かったはずであり、「貢女」のシステムは、女性やその家族たちにとって社会的ステータスを上げるための一種の「チャンス」にもなりえたのである。
もちろん元のような遠い異国に娘を行かせることは親心としては辛かったであろうし、娘もおそらく遠い異国の地で故郷を想って涙を流したことだろう。そういう意味での悲劇はたしかにあったであろう。
しかし、それでも「貢女」としての立場を逆手にとって出世していったたくましい高麗女性たちはたしかにいた。

その代表格が元朝最後の皇后である奇氏である。
彼女は高麗の武官奇子敖(キ・ジャオ)の末娘で、貢女として元の後宮に入り、そこで皇帝の寵愛を受けた。
元朝最後の皇帝は順帝トゴンテムルという人物であり、奇氏はその人の皇后として皇太子アユルシリダラ(元の滅亡後、北元の初代皇帝となった)を産んだのである。
この奇氏の時代、つまり元朝の最末期には元の宮廷では「高麗趣味」が流行していた。
宮中の女官や宦官は高麗人でかためられ、高麗風ファッションが流行していたのである。
ある意味モンゴル帝国の「韓流」といえようか。
もちろんこの流行の中心にいたのは皇后奇氏なのだが、実は順帝自身も高麗が好きだったのかもしれない。
というのは、順帝自身、1330年7月から翌年の12月までの間、高麗で暮らしていたことがあるからである。その時順帝はまだ11〜12歳程度の少年であった。
彼は元朝廷内部の政治的いざこざのために高麗の大青島に流配されていたのだが、育ち盛りの少年の心に高麗での生活はなつかしい経験として記憶されたのではないだろうか。
彼はその経験に味をしめたのか、晩年には高麗の済州島(チェジュド。いわずと知れた韓国の観光地)で隠遁生活を送ることを望み、自分用の離宮の建設工事まで行なわせていた。

結局その隠遁生活の夢はかなわず元朝は崩壊し、順帝と奇氏と二人の息子アユルシリダラは済州島ではなくモンゴル高原へと逃亡せざるを得なくなったわけなのだが。

このように、元の最末期には高麗趣味が流行していた。元朝の滅亡以降、モンゴルと朝鮮の直接的関係が希薄化していくとはいえ、この時にモンゴルに植え付けられた「高麗風」は、高麗に植え付けられた「モンゴル風」と同様にその文化形成に影響を与えたのではないだろうか?

さて、それにしても気になるのは、何故元朝で高麗女性がもてたかということだ。
元朝は世界中から人がやって来る所であったから、その気になればヨーロッパの金髪碧眼の美女だって、西アジアのエキゾチックな美女だっていただろうにと思う。それなのにモンゴル貴族たちはどうしてあえて高麗女性を選んだのだろう?

ここから先は単なる私の想像でしかないが、世界中の人間を見ているモンゴル貴族たちが一番好んだのはやっぱり自分たちと近い顔立ちの女性だったのではないだろうか?
高麗人はモンゴル人と顔がよく似ており、それでいてモンゴル人より綺麗だったから人気があったのだろうと思う。
宋代の中国人徐競が書いた『高麗図経』という本には、「高麗人はよく沐浴して清潔にしているため、中国人を見ると垢だらけだと馬鹿にする」と書かれており、高麗人が中国人より清潔にしていたことがわかる。
これはもちろんどこにでも湧水や小川があるという朝鮮半島の水資源の豊富さのおかげなのだが、水にとぼしくてろくに身体を洗うことができなかったモンゴル人たちにとって、高麗人は清潔で美しく見えたのではないか。
また、夫婦となり愛を育んでいくためには言葉が必要である。
外国人と結婚する際には言葉の壁が小さい方が望ましい。
その点モンゴル語と朝鮮語は文法が似通っており、習得するのは比較的簡単である。
きっと高麗女性は他国の女性よりうまくモンゴル語を習得できたために、いっそう人気が高かったのだろう。

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