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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

われ思う。ゆえにわれ書けり

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数年前から、表題にあるとおり、「人生は三十歳からが本番」だと思ってきた。
自分はあと少ししたら三十歳になるが、本番に向けて今少しずつ種をまいている。
本番になってから花を咲かせるための種をね。
 
何というのか、二十代なんていうのは大人としては若すぎて(青すぎて)まだまだ自分のやりたいようにはできないお年頃だと思う。
なかには二十代ですでに貫禄たっぷりの人もいるが、大抵の人にとっては二十代なんて若すぎるだろうと思う。
 
特に自分みたいに他の人より大人になるのに時間をかけてる人間にとっては、二十代なんてまだまだ子供だと思う。
やっぱり三十過ぎてからが本番だと思う。
 
今まで気付いていなかった大事なことが、この年になって初めてわかったという経験をつい最近した。
自分の人生にとってとっても大事なことなのに、そんなことに今まで気付いてこなかったことを恥ずかしく思った。
しかし、逆に考えてみれば、これは今でも自分が成長を続けているということだ。
自分の未熟さを恥じるよりは、成長の実感をかみしめる方が精神衛生上いいと思う。
 
いつまでも成長を続けていけば、たとえ他人より成長が遅かったとしても、いつかは皆と同じ水準まで成長できるだろうし、晩年には他人より成長できているかもしれない。
 
何にせよ自分はまだまだ成長の余地があると思う。
何歳になっても、「さあこれからだ」という気分でやっていくのがいいかなと思っている。
今日、喫茶店でケーキを食べながら30分ほどぼんやり考えたことをメモしておく。
ただケーキを食べながらの思いつきなので、参考文献とかそんなものは特にない。
全部自分の頭の中の思いつきである。
なので「間違っている」とか「それは誤解だ」というご指摘はしごくもっともだし、むしろ歓迎する。なにか異論でもあればコメント欄に書き込んでくださいな。
 
何の因果か男性として生まれて(べつに不満があるわけではないが)、男性社会の中で四半世紀以上暮らしていると、男性社会の特徴というものをある程度意識しないではいられなくなる。
その一つが「ホモ・フォービア」だと思う。(スペリングはよくわからないので、片仮名で書いときます。調べればいいんだけど、面倒くさくてね)
 
「ホモ・フォービア」というのは、同性愛(主に男性同士の)に対する拒否反応のことで、「あいつって男が好きらしいぜ〜」、「わ、キモ〜!」とか言うやりとりはホモ・フォービアの典型的な例である。
(あえて「ホモ・フォービア」なんていう外来語を使ってみたのは、単に格好よく見えるからだけで、他意はない。「同性愛に対する嫌悪感」と言い換えても同じである)
 
どうも男性同士は女性同士よりも同性愛を嫌う(というより恐れている)ようだ。
女性同士が手をつないで歩いていてもおかしなことだと思わない人が、男性同士が手をつないで歩いているのを見ると、「あいつってホモなの?」とか言い出したりする。
そして男性たち自身が、自分が同性愛者だと思われることや、同性愛者に好かれることを過剰に恐れていたりする。
これほどまでの強固なタブー意識というのはどうして生まれたのだろう?
 
江戸時代まで日本では男性同士の同性愛はタブー視されていなかったと言われている。
それはおそらく女犯を禁じる仏教的価値観が強かったせいもあるのだろう。
それが明治時代以降男性同士の同性愛がタブー視されるようになった。
その決定的原因はどこにあるのだろう?
 
同性愛を禁じるキリスト教的価値観の流入のせいだと説明することもできよう。
ただし、日本人のキリスト教徒なんて人口全体でみれば大して多くはない。
それにキリスト教の教義のほとんどが日本社会に広く受け入れられていないというのに、同性愛禁止だけが日本社会にこれほど根づよく普及したのは不自然である。
キリスト教の流入よりももっと直接的な原因があったはずだろうと思う。
(キリスト教が日本社会に与えた最大の影響は、クリスマスを国民行事化させたことだろう。キリスト教なんて一言半句も知らない人が、「12月24日はクリスマス・イブだ」ということはよく知ってるんだから面白い)
 
日本社会に男性同士の同性愛タブーをもたらしたより直接的な原因は、近代軍隊制度だったと思う。
近代軍隊制度は、日本国民の約半数が何らかの形でかかわる制度であり(実際に入隊するかしないかにかかわらず)、その影響力はきわめて大きかったと思われるからである。
 
近代軍隊の中で最も嫌われるのは同性愛である。
(嘘か本当か知らないが、韓国では入隊する時に尻の穴まで見られるという。同性愛の象徴ともいえるアナル・セックスの痕跡が無いかを確かめるためらしい)
何故近代軍隊の中で同性愛が嫌われるのか、私にはまだはっきりとした理由がわからないが、きっと軍隊の中で痴情のもつれとか起こったりすると統制がとれなくなるためだろうと思う。(知っている人がいたら教えてほしい)
 
しかしもし、近代軍隊制度がホモ・フォービアが普及した原因だとするなら、前近代軍隊ではどうして同性愛を禁止しなかったのだろう?
そこに前近代の軍隊と近代の軍隊の決定的な違いがあったといえるのではないか。
 
前近代の軍隊は兵員個々人の独自性を評価する部分が多分にあるが、近代軍隊は兵員を単なる駒として扱っているような印象がある。
宇治川の先陣争いは中世においては評価されたが、あれが近代軍隊なら上官の許可なしに隊列を乱した行為として処罰の対象になると思う。
それほどに近代軍隊は人間を、より局限して言えば男性を、単なるモノのように扱っていると思う。
 
そこでは兵士は自分の意志で武勇を誇示する武者ではなく、上官の命令に黙々と従う戦争用マシーンのようなものとされる。
チャップリンは「人間の機械化」というモチーフで近代社会を諷刺したが、近代軍隊こそ最も人間を機械化させるものといえるかもしれない。
 
軍隊というのは(一部例外はあるが)男性だけの世界である。
軍隊というのは男性という性のモノ化、商品化の極致ではないかと思う。
そこでは兵士個々人の人間性などは無視され、単に戦争のために役立つかどうかという男性性のモノとしての側面だけが評価されている。
そして死んだり負傷したりすれば、いくらでも替わりがきくもののようにして、欠員が補充される。
兵士というのは、(本人たち同士ではまぎれもなく人間だろうけど)為政者・指揮官たちにとってみれば単なる戦うための手駒でしかない。
しかも将棋の駒よりひどいことに、替わりはきくのである。
 
そういう男性性をモノ化するシステムが軍隊であるならば、女性性をモノ化(商品化)するものとしてすぐに思い浮かぶのは売春制度である。
男性性をモノ化させる極致としての軍隊と、女性性をモノ化させる極致としての売春制度は対をなして存在していると考えられる。
そうやって考えてみると、明治時代に徴兵制度を施行した日本政府が、ほぼ同じころに公娼制を敷いたのは、単なる偶然ではなく、かなり意図的におこなったものだったといえるのかもしれない。
そして、1945年の敗戦によって徴兵制のなくなった日本で、公娼制度が廃止されていったのは、ある意味必然の流れだったのかもしれない。
 
なんてことを考えながらケーキを食べていた。
考えたのは30分くらいだったはずなのに、それをパソコンに打ち込むのに1時間かかった。思考より手の動きの方が遅いのは、いかんともしがたい。
前回の記事で宣言していたとおり、新しいメガネを作りました。
新しいメガネになって色々なものが鮮明に見えるようになって、自分の顔の汚さに気付き、ちょっと凹んでいます。(笑)
 
最近モンゴル語を勉強してるんですが、モンゴル語の先生が面白い話をしてくれました。
 
「モンゴルではチンギス・カンは人気あるが、クビライ・カアンは人気がない。チンギスはあくまでもモンゴル人のやり方を貫きとおしたが、クビライは中国側に拠点を置いて、中国式のやり方を取り入れたからだ。モンゴル人から見ればそれは裏切りに見えるのだろう」
 
クビライというのは、「フビライ・ハン」のことです。
昔のモンゴル語ではK音が脱落していなかったので、「クビライ」と呼ぶのです。
ちなみにチンギス(いわゆる「ジンギスカン」)は「カアン」になっていないので、「チンギス・カアン」ではなく、「チンギス・カン」と呼ぶのが正しいそうです。
さらにその先生はこう続けます。
 
「それと同じで、モンゴルでは朝青龍は人気だが、白鵬は人気がない。朝青龍は横綱になってもモンゴル式のやり方を貫いたが、白鵬は日本人と結婚して日本人らしくなってしまったから」
だそうです。
 
なるほど。
そうなると、朝青龍=チンギス・カン、白鵬=クビライ・カアンになり、日本の相撲界は中国にあたるわけか。
 
朝青龍は横綱時代、「横綱としての品格が足りない」と相撲協会からずいぶん叩かれたものだが、彼がチンギス・カンだったと考えてみればその理由がよくわかる。
彼は日本の相撲部屋に入門したというより、日本の大相撲を征服しに来たのではないか?
大相撲の征服者である彼が、征服された相撲協会の言うことを聞くなんて思いつきもしなかったのではないだろうか。(笑)
中国の地を征服しても全く中国化せず、あくまでもモンゴル人を貫いたチンギス・カンの姿とたしかに重なる。
 
それに比べると白鵬はもっとしたたかだ。
あくまでも日本の大相撲の世界で生き続けようとするなら、日本式のやり方も身につけなければいけない。
だから生活の拠点を日本に移し、日本人になる努力をした。
それは中国に拠点を移し、表面上は「元」という中国王朝の装いをまとったクビライ・カアンの姿に似ている。
 
彼らモンゴル人力士たちは、日本の「国技」である相撲を征服することで、700年前に成し遂げることができなかった「日本征服」の夢をかなえようとしているのかもしれない。
なんてことをニヤニヤ考えながら、遥かチンギス・カンの時代のモンゴルに思いを馳せたりしている。

王から法へ


今朝バイト先に向かう道すがら「法とは何か?」と考えながら自転車をこいでいた。
ここでいう法というのは、仏教でいうところの法(ダルマ)ではなく、法律の法のことである。

法というのはある社会・共同体の中で共有される約束事・決まりごとの一種である。
社会というのはそれぞれ異なった意思を持った個人の寄せ集めである。
各個人が自分の意思に100パーセント従って行動したら、社会は一体性を保てずあっという間に空中分解してしまう。
だから社会は、分解してしまわないように決まりごとを作って構成員の行動をある程度規制しようとする。
たとえば学校という社会ならば校則というものを作るし、アイドルのファンクラブのような社会にですら会員規約なるものが存在したりする。
そのような社会の決まりごとのうち、特に公的権力によって制定され、守るように強制されるものを法という。
法というものがその効果を発揮するためには二つの条件が必要である。
一つ目は、個々人に法を守ろうという気を起こさせる動機づけである。たとえば、「法律を破るとおまわりさんに捕まるよ」というのは、「おまわりさんに捕まらないように法を守るようにしよう」という法令遵守のモチベーションを与えるものであり、負の方向性の動機づけである。(正の方向性の動機づけはあまり無いとは思うが)
二つ目は、その法が社会の構成員すべてに適用されるという平等性である。たとえば、他の人は法を犯してもお咎め無しなのに、私ばかりが法律を守るように強制されるという状況だと、人は真面目に法律を守るのが馬鹿らしくなるだろう。「誰も見てなきゃいいや」という感じで監視さえ無ければ誰もが法律破りを平然とやるようになる。

とはいえ、社会の中で全ての人間が法の適用を受けるという状況は、実は結構新しいものと言えるだろう。
たとえば前近代の君主制社会においては、法を作るのは君主の仕事であった。
君主は民衆を支配するために法を作って民衆に守らせ、その法を破った者には厳罰を与えた。
このような社会において法は君主には適用されない。君主はいつでも法を作る側であり、自分がその法によって裁かれることはなかった。
また、ひどい場合には君主の命令がそのまま法となり、君主の考え次第で法律が何度でも作りかえられることがあり得た。
前近代の君主制社会においては、万人に適用される客観的・非恣意的な法律運用は難しく、法治支配というよりは君主による人治支配という側面が強かった。
その後市民革命などによって君主制が次第に否定されていく中で、君主の恣意的支配から万人に法律が適用される法治支配へと体制が変わっていった。

「王から法へ」

前近代君主制から近現代の民主主義社会への転換は、この一言で言い表せるのではないか。
もちろん民主主義社会における法といえども人間が作るものである以上、ある程度の恣意性が入り込むことは避けられない。
だからこそ、政治権力(行政)と法の作成者(立法)と法の執行者(司法)を分けて相互に牽制させ合うことで、恣意的な法律運用がなるべく行われないようなシステムが作られたのである。(三権分立というやつですね)
どうやら法の民主的な(非恣意的な)運用のためには権力の分立と相互牽制が不可欠なようである。

ほとんどの前近代君主制社会では、法は君主が作るものであり、君主が法によって縛られることはなかった。このような状況下では権力の分立と相互牽制にもとづいた法の概念は登場してこないだろう。
唯一例外があるとすれば、13世紀にジョン王の恣意的な権力乱用を規制しようとしたマグナ・カルタである。
これは最高権力者たる君主を法によって縛ろうとする画期的な試みであり、マグナ・カルタが近代法の起源のように見なされているのも当然といえるのかもしれない。

なんてことを考えているうちにバイト先にたどり着いた。


以前に権力の分立傾向と言う点で、日本の中世と西洋の中世に共通点があるということを述べた。
それでは逆に、この二つの社会の決定的相違点はどこにあったかについて考えてみたい。

決定的相違点はおそらくいくつもあるのだろうが、私はその一つに宗教のあり方があったと思う。
西洋中世も日本中世もともに権力分立による無秩序が横行した時代であり、その社会不安を穴埋めするかのように宗教が力をふるった。これは日欧ともに共通している。
しかし、西洋がローマカトリックのみを正統とし、それ以外の教説を異端として徹底的に弾圧したのに比べると、日本の場合はそれほど明確な対立軸が無かったように見える。

西洋の場合、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型のヒエラルキーが存在し、ローマカトリック以外の教会の存在が認められなかった。
ある意味でいえば「西洋(ここではヨーロッパから東方正教会圏を除いた地域)」という地域自体ローマカトリックによって作られたようなものであり、その地域内でカトリック以外の存在が認められないのもしごく当然であったといえようか。

これに対し日本の状況は全く異なる。
日本の場合、宗教としては仏教と神道が存在し、中世においてはその両者の融合が進んでいた。
さらに仏教においても様々な宗派が併存しており、西洋のようなただカトリックのみという状況とは大きく異なっていた。
そのため、「正統と異端」という西洋中世を象徴するキーワードを日本中世に適用することはかなり難しい。
比叡山はバチカンほど絶対的な宗教的権力を持っていたわけではないため、「正統」と呼ぶにはおこがましい。
また日本では鎌倉時代に様々な宗派が登場したものの、西洋の異端審問ほど厳しい弾圧を受けず社会に定着したため、「異端」と呼ぶのは言い過ぎかと思う。異端と呼ぶにふさわしいほどの宗派は「真言立川流」くらいしか思い浮かばない。

そのため日本中世史の立場から見ると西洋中世の異端審問の厳しさがなかなか理解できない。
日本には宗教改革で火刑に処されたヤン・フスをはじめとして、教会を通さず神の声を直接聞いたという事で殺されたジャンヌ・ダルクや地動説の正しさを主張して殺されたジョルダーノ・ブルーノのような異端迫害史が存在しない。
唯一挙げうるものとしては、切支丹迫害くらいのものだが、あれは世俗権力によるキリスト教迫害であって、正統的宗教権力による異端迫害とは異なる。
日本の切支丹迫害は、西洋中世の異端審問よりむしろローマ帝国のキリスト教弾圧の方に近いだろう。

日本中世には西洋中世のカトリックに当たるほどの絶対的な正統宗派が存在しなかった。
それゆえに鎌倉新仏教の登場が、西洋の宗教改革ほど根本的な社会的インパクトにはならなかったのである。


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