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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

われ思う。ゆえにわれ書けり

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君は韓国人が好きか?

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(上の写真)記事の内容に全く関係ないけど、最近買ったクリアファイル。綺麗でしょ?


どうも、西です。
昨日のサッカーですけど、アルゼンチン負けちゃいましたね。
ブラジルといい、アルゼンチンといい、調子の良かった南米勢が次々と敗退し、残るはウルグアイだけになってしまいました。
ひそかに南米勢を応援していた自分としてはショックです。
これは是非ともウルグアイに頑張ってもらわねば。
ウルグアイ、ファイティン!
(韓国では日本語の「ファイト」の代わりに「ファイティン(fighting)」を使います)

さて、サッカーの話はひとまずおいておいて、本題に入ります。

韓国語を勉強したり、韓国に足しげく通ったりしていると、よく「何で韓国なんかと関わっているんですか?」なんて質問を受けます。
そういう質問をする人は大抵韓国が嫌いな人です。
ただし彼らは韓国のことを良く知ったうえで嫌いになったのではなく、メディアや2ちゃんのような他人からの伝聞を通して嫌いになったという、いわば「食わず嫌い」が多いです。

この人たちがこんな質問をするのは、私がどう見ても韓流好きに見えないからでしょう。
「自分たちはこんなに韓国を嫌いなのに、どうして韓国を好きな日本人がいるのだろう。不可解だ」という思いで質問してくるのだろうと思います。

こういう質問を受けるたびに適当な答えを探して答えたりするのですが、どういう回答が一番いいのでしょうかね。まだ考えているところです。

また、「私は韓国人がどうしても好きになれないのだが・・・君は韓国人が好きか?」と聞かれたこともあります。
この質問に対する私の回答は明確です。
「好きな韓国人もいれば、嫌いな韓国人もいます。日本人の中にも好きな人と嫌いな人がいるようにね」
だって、そりゃあそうでしょう。
韓国人は決して判で押したように同じ性格で同じ思考をしているわけではありません。
っていうか、そんな社会はありえません。
社会というものは様々な人々が役割分担をしてはじめて成り立つものなのだから、多様性というものが当然あるのです。

韓国には4000万以上の人間がいて、それぞれ顔も違えば性格も違います。物の考え方やライフスタイルだって違います。
一人として同じ人はいないのです。
それなのに、そういう多様性を無視して、「韓国人」を「好き」か「嫌い」かと二者択一を迫られたって答えられるものではありません。
質問自体がまずナンセンスなのです。

そして大体において、そんな質問をしてくる人にかぎって韓国人の友達はいません。
つまり相手のことをろくに知りもしないでそんなことを言ってくるわけです。
(むしろ一人一人の韓国人を知らないからこそ、そんなナンセンスな質問を平気でできるのだろうと思います)
前で述べたのと同じように「食わず嫌い」って奴です。

日本人が一人一人違う顔をしているように、外国人にもまた多様性があります。
「○○人はこうだ」と一括りにできないものが実際にはあるのです。
少し考えてみれば当たり前のことなのですが、その当たり前のことを人は往々にして忘れてしまいます。
そしてそういう多様性を無視した決め付け(偏見)と外国人に対する恐怖感情が結びついた時、ジェノサイド的な悲劇が生まれることもあります。

日本では1923年の関東大震災の時にそのような悲劇がありました。
この事件は日本史上最も恥ずかしく、愚かしい事件の一つだと思います。
あのような悲劇を繰り返さないためにも、日本人ひとり一人が、外国人にも多様性があるのだということを忘れてはならないと思います。

ちなみに、「韓国人はみんな日本人のことが嫌いだ」という噂が都市伝説のようにネット上で流布されているみたいですが、答えは「ノー」です。
日本のことを好きな韓国人は沢山います。
だって韓国人がみんな日本のことを嫌いなら、日本の漫画や芸能情報が韓国にあふれている現状をどう説明します?
日本語を勉強する韓国人の多さをどうやって説明します?(公式の統計は知りませんが、韓国語を学ぶ日本人より日本語を学ぶ韓国人の方がはるかに多い気がします。韓国において日本語は、英語に次ぐメジャー外国語です)

さて、反論のある人はいくらでも書き込んでください。
最近この掲示板もコメントが少なくてとても寂しかったところです。
でも、つまんない書き込みは容赦なく消しますので、その辺はご理解ください。


日本でも韓国でも国際化ということが今しきりに叫ばれています。
そして自分もまた海外在住者として国際理解の前線に立っていると思います(一応)。
そういうわけで、国際理解というものについて、自分の考えるところを少し書いてみようと思います。

私は基本的に、外国の社会を理解するためには、その国に行って暮らしてみるのが一番だと思っています。
その国の人たちと同じところで暮らし、同じ言葉で話し、同じ目線で考えることができてはじめてその国の人たちやその国の社会を理解することができると思います。

何故なら、国民性なりその国の社会の性格などというものは、その国における人々の生活が基盤になって出来上がっているものであり、現地の人々の生活を知らなければ国民性や社会の性格を根本から理解することはできないと思うからです。

そういう意味では、外国人と結婚して異国で育児をしながら暮らしている日本人女性たち(逆の場合は少ない)こそ本当の意味で国際理解の最先端に立っている人たちだと思います。
(結構その手のブログを読むのが好きなんです。普通の本には載っていないような、その国の生活の一端を垣間見ることができるので。こういう人たちに比べると自分なんかまだまだだなあ、と手を合わせたくなります)

その逆に、その国での滞在経験も無ければその国の言葉も知らず、その国出身の友人もいない人が、ただ本やネットで聞きかじった知識をもとに講釈を垂れていても、私は話半分にしか聞かないでしょう。
というのも、本やネットで得た知識なんてものは、いわば又聞きの知識に過ぎないものであり、自分の目で見て自分の頭で考えて得た知識に比べれば価値が劣るものだと思うからです。

そしてさらに思うのは、現地の社会や生活に対する理解や共感も無いまま、ただ人から聞いた知識だけでその国のことを論じる人々の意見というのは、極端に走りやすいという危険性もはらんでいます。
そこに民族差別的要素が付け加わると、単なる理論武装したレイシズムにすぎないものとなってしまいます。
今のネット右翼なんかはまさにそれですね。



なんかまとまりのない文章になった気がするけど、風邪で熱にうなされながら書いた文章なんで多少は見逃してください。

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(一枚目)明るく乾いた韓国の松林(慶州にて撮影)
(二枚目)昼でも暗い日本の杉林(奥多摩にて撮影)


私は野山を歩くのが好きで、ソウルにいても足はつい野山のほうに向いてしまう人間なのですが、日本の山と韓国の山には大きな違いがあります。

とても感覚的な言葉でいいますと、日本の山は「暗くてじめじめしている」のに、韓国の山は「明るくて乾いている」のです。

どういうことかと言うと、韓国の山は日本より木が少ないうえに松が多いので、日照がさえぎられず、明るいのです。
さらに腐葉土も少なく、降水量も少ないため、足元もじめじめしないのです。

韓国の山に松が多いのにくらべ、日本の山に多いのは杉です。
杉はほぼ垂直に二、三十メートルも樹高が伸びるため、杉が密に生い茂った森はどうしても暗く、じめじめします。

私などは杉林の多い日本の山を見て育った人間なので、韓国の山を見るとどうしても「韓国は植生が貧しいなあ」と思ってしまいます。
私は日本のような鬱蒼とした山林が好きなのです。

そんなふうに思っていたら、ある韓国人にこんなことを言われました。

「松林は日差しがはいりこんで明るくて、足元がぬかるまないだろう。松が生えるところには他の木も育たないので、松ばかりの純粋な森ができるんだ。韓国人は松林の清潔さを好むんだよ」

なるほど。
私の目からうろこが一枚はがれ落ちました。

韓国人は松林を見て、植生の貧しさを嘆くのではなく、むしろ松林の純粋さ・清潔さを喜ぶらしいです。

日本人は鬱蒼とした森を見て自然美を感じますが、韓国人は逆に松ばかりの植生の少ない森を見て自然美を感じるという違いがあるみたいです。

そのような美意識の違いの背景には、杉が多く暗い森の多い日本と、松林ばかりの明るい森が多い韓国という、両国の自然環境の違いがあるのでしょう。
(といいつつ、逆の可能性もあるな、と考えてみたり。そういう美意識の違いが、両国の森の違いを生んだ可能性もありますね。まあこれはほとんど鶏が先か卵が先かという問題に過ぎないのかもしれませんが)

なんにせよこの話は、韓国人と日本人の自然に対する美意識の違いが垣間見える面白い例かもしれません。


最近テレビを見ていないのでよくわからないのですが、キム・ヨナが金メダルを取ったことで韓国は大喜びみたいです。(すっごい他人事みたいな言い方ですけど・・・、まあ実際に他人事ですからね)

私はフィギュアスケートって全然わからないんですけど、素人目から見て浅田真央がキム・ヨナに負けたとは思っていません。

というのも、得点はキム・ヨナが取ったかもしれないけど、アスリートとしての身体的能力をより発揮できたのは浅田真央の方だったと思うからです。

では何故真央が銀で、ヨナが金なのか?というと、フィギュアスケートが単なる運動競技とは異なり、表現力をも評価するパフォーマンス的スポーツだからだと思います。

誤解の無いように説明しておきますが、ここでいう「運動競技」とは、身体能力の高さのみで評価される競技のことを指します。たとえばマラソンのように、同じコースを誰が一番速く走るかというような、そういうものです。
それに対してフィギュアスケートは、身体能力が高い選手が勝つとは必ずしも限らない。
技術や能力だけでなく、表現力なども含めて総合得点の高さで勝敗が決まるからです。

では総合得点をどうやって算出するか?といえば、評価すべき項目にそれぞれ点を割り振って、それぞれの得点の合計を総合得点とします。

こういう評価方法をとると、一つの項目がずば抜けて高い選手より、全ての項目でまんべんなく高得点を取る選手の方が有利になります。

今回の浅田真央は前者で、キム・ヨナは後者だと思います。

たしかにオリンピックでメダルを取るという点では、真央はヨナに負けたでしょう。
ただアスリートの技術としてはむしろ勝っていたと思います。

だからキム・ヨナも金メダルを取れてほっとしているとは思いますが(祖国の期待を一身に受けていますから、そのプレッシャーは相当なものでしょう)、必ずしも浅田真央に勝てたとは思っていないでしょう。
たとえるならば、審査員の評価では勝ったけど演技力では北島マヤに負けたと思っている姫川亜弓さんの心境ではないでしょうか。

「真央・・・恐ろしい子!」(byキム・ヨナ)


昨晩はお酒を飲みすぎてあまり眠れなかった。
なので、ベッドの中で考え事をしていた。

考え事のテーマは「身の丈に合わせて生きること」だ。

私は頑固な性格で、他人からアドバイスされてもなかなか聞き入れない。
特に自分の生き方に関してはきわめて頑固だ。

「もっとこうした方が女の子にもてるよ」
なんていうアドバイスは何度言われたかわからない。

そう言われても私は、(自分がそうしたいと思った時を除いては)まずそのアドバイスをそのまま受け入れることはしない。
自分の生き方のスタイルを崩してまで得をしたいとは思わないし、そういうやり方は結局長続きしないと思うからだ。
たとえアドバイスどおりにやらずに失敗したとしても、それは私の責任だから、私が損をするのは当たり前である。
他人のアドバイスに従って失敗した時よりは納得できるというものだ。

さっきの例でいえば、自分のやり方を貫いて、女性にもてず、結局生涯結婚できなかったとしても、それはそれで仕方がないと思う。
それが私の身の丈に合った生き方なのだろう。

我ながら二十代のくせにやけに老けたことを言っていると思う。
でも、これが私なのだ。
今までずっとこのやり方で生きてきたのだから、これからもそうやって生きていこうと思う。
それが世間に受け入れられず、就職もできず、結婚もできず、結局どこかで野垂れ死にすることになるなら、それが私の身の丈に合った生き方だったということだろう。
(途中で軌道修正する可能性もゼロとはいえないが・・・)

こんな頑固な私の考え方は、おそらく世間一般の人々とは相当に温度差があると思う。
というのも、(私の周囲も含めて)多くの人々は、より良い生き方を求めて、あくせくしているからだ。
もちろん幸せを求めて努力することはとても大切なことだ。
しかし、疑問を感じることもしばしばある。
それは、周囲の言葉やマスメディアの文句に踊らされて、明らかに身の丈に合っていない夢を求めてしまっている人の場合だ。
身の丈に合っていない夢を見過ぎて、自分の現状を冷静に見つめられていない人や、現状に不満ばかりを述べている人などを見るにつけ、「身の丈に合った生き方を満喫する」ことが何よりも大切なのではないかと思う。

誰だってより良い生活を求めるものだとは思うけど、実際に思い通りになることなんてほとんど無い。
その時に、目の前にある自分の現状をどの程度肯定できるか、が重要になると思う。肯定できる人は幸せで、できない人は不幸せだと思う。(ただし、現状への不満をバネにして現状を好転できた場合は別だけど)

昔話の青い鳥の話は、単純に「幸せは身近なところにあった」というだけでなく、「身近なところに幸せを見出せる人こそが幸せになる」という教訓なのだと思う。
つまり現状を肯定できる人こそ、人生をエンジョイできるという話なのだ。

けれども現在の日本社会は、身近なところに幸せを見出して身の丈に合わせて生きることをあまり重視していないように見える。

よく大人たちは子供に向かって「大きな夢を持て」とか「君たちには無限の可能性がある」なんてことを言ったりするけど、私はそういう言葉が嫌いだった。
何だか身の丈に合わない夢を無責任に煽っているように見えたからだ。
「大きな夢を持って、結局叶わなかったらどうするのか?その子供は一生挫折感を抱えながら生きることになるんだよ?」とか「無限の可能性はあっても、実際に選べるのは一つだけなんだよ。どうしてあえて選択肢を増やして子供を迷わせるのかな?」なんてことを思っていた。

マスメディアも盛んに身の丈に合わない夢を煽っているように見える。
「これを買えばもっといい暮らしができる」とか「これを買えば人気者になれる」みたいなCMなどを見るたびに、「どうしてみんな自分を曲げてまでマスコミが提示する『良さ』を求めようとするのだろう?」と思っていた。

そういうものに振り回されているうちに自分が見えなくなってしまう人も多いのではないだろうか。

現在の日本社会は、身の丈に合わない夢をむやみに煽って、夢破れた失意の人を沢山作り出しているような気がする。
現状を肯定できれば楽になれるのにね。
情報が多すぎる時代だからこそ、自分の身の丈に合わせて生きていかないと、情報に惑わされるだけで人生が終わってしまう危険があると思う。

急いで書いたので、あまりまとまった文章になりませんでした。
このテーマについては今後も考えていくつもりなので、また書き改めるかもしれません。
ご批判などありましたら、是非お願いします。議論大好きなので。

そういえば、中島みゆきに「バラ色の未来」という歌があるのですが、その中でこんな歌詞がでてきます。
「誰もまだ見たことがない バラ色をまだ見たことがない これだと言われたら 「そうかな?」と思う 次第に「それじゃなきゃ嫌だ」と思い込むようになって それが無いのがつらくなる」

私が今回書いた内容ってまさにこれなんですね。
TVや雑誌なんかが「これが幸せなライフスタイルなんだ」っていう宣伝をすると、人々はそれが幸せの形なんだと思い込んでしまう。
そしてそんなライフスタイルが手に入らないと、「自分は不幸だ」って思い込んでしまうわけですよ。
(しかし実際に手に入れてみると、「期待はずれだった」と言ってやっぱり嘆くことになるんでしょうけど)

「幸せ」っていうのは心の状態であって、はっきりとした形では見えないものだと思うんです。


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