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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

われ思う。ゆえにわれ書けり

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歴史とは何か

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千年以上の風雪に耐えてきた石仏は、首のないその姿で、人の世の移り変わりに何を思うのか?


歴史とは何か。

それは失われゆく過去に対する愛惜である。
過ぎし日の思い出の集合である。

失われたもの、死んでしまった人、二度と戻れない日々をなつかしみ、それを記録の形で残そうとする行為である。
それは本質的に過去への感傷(センチメンタリズム)であり、昔をなつかしむ懐古趣味(ノスタルジア)である。


時間は魔物である。
一秒たりとも静止せず、人々を常に未来へと向けて押し流す大河の如きものである。

人はすべてこの時間の横暴に抗うことはできない。
未来はいつの間にか現在となり、現在はすぐに過去へとなる。人は時間にせき立てられて、「現在」という一瞬にとどまることはできない。
いかにその場を離れたくなくとも、時間は暴力的に人を未来に向かってせきたてる。
過去の記憶は雪のように降り積もり、古い層から消えていく。
どんなに幸福な経験も、どんなにいとおしい人々も、やがては遠い過去の記憶となり、まるで初めからそんなものは無かったかのように忘れ去られていく。

歴史を記録するという行為は、時間という魔物に対するささやかな抵抗である。

忘れたくない過去を、忘れてはならない過去を、そのままのかたちでとどめておけないのならば、せめて記録として残そうとする代償行為である。

歴史とは、過去のできごとを忘れないようにするために書き残す備忘録である。
また、自分が死んだ後にも、誰かが自分のことを思い出してくれるようにと残す子孫たちへのメッセージである。

人々は忘れたくないのだろう。過ぎし日の幸福やいとおしい人々を。

人々は忘れられたくないのだろう。自分がこの世界に刹那でも存在していたことを。

だから記録として書き残すのだ。忘れないように、忘れられないように。

歴史とは過去の思い出の集積である。
過去をふりかえり、思い出の中に生きることは後ろ向きで非生産的な行為かもしれない。
しかし、そうであるからこそ、歴史には意義がある。
人はいつだって前だけを向いて生きていけるほど強くはない。
時には過去をふりかえって思い出をなつかしむことで、今日一日、明日一日を生きていく力を得ることだってある。

思い出が、人を活かすこともあるのだから。


最近はこれでも少し落ち着いたような気がするけど、一時は「菅おろし」の風がすさまじかった。
自民党や民主党内部でも菅首相に対する批判がものすごく、「菅首相が日本をダメにする」のような記事が連日週刊誌やスポーツ新聞の一面を飾っていたような気がする。

でも少し落ち着いて考えてみれば、今回の事態の責任が菅直人という一人の人物の責任であるはずはない。
地震は自然災害だし、原発事故は津波による全電源喪失という事態を想定していなかった設計段階でのミスだ。
別に菅直人が首相でなくとも原発事故は起こっていただろう。

問題は事故への対処と、復興への取り組み方だろう。
事故への対処、特に「想定外」と言い、何の根拠もなく「ただちに影響はない」を繰り返した現政権のやり方には私も納得いってない。
今でも地下水の汚染調査や国民の被曝調査をろくにしていないのにはあきれるほかはない。

だが、それは菅直人が首相だから、こんなにうまくいかないのだろうか?
私はそうは思わない。

誰が首相になっていたって、結局は同じようにならざるを得なかったのではないだろうか?
特に過去半世紀以上にわたって原発政策を推進してきた自民党ならば、民主党以上に事故被害の隠蔽をやったかもしれない。
原発に関する隠蔽体質は自民党時代にできあがったものなのだから。

私は原発問題に関しては、現与党の民主党以上に、自民党に対して憤りをおぼえている。
原発問題で菅首相や民主党を批判するくせに、自分たちが原発政策を推進していったことに対しては全く反省の色を見せないからだ。
そもそも自民党が大量に原発を作らなければ今回の事故もなかったわけで、事故そのものの原因は自民党時代にすでに出来上がっていたのだ。

今のような非常時にこそ、自民党は権力闘争をやめて復興のために協力すべきではないのか。
それが過去半世紀以上与党であった自民党の責務ではないのか。

危機の時の権力闘争ほどたちの悪いものはない。危機を打開するためのエネルギーが、不毛な権力闘争のために空費されてしまうからだ。

私は、別に菅首相がいいとは思わないけれど、事態がある程度収束するまでは彼を応援したい。
今菅おろしをやったら、無駄な権力闘争で事態はさらに混乱すると思うからだ。

ときおり、「これは科学的な研究の結果明らかになったことなのだから間違いないんだ」と言う人を見ることがあります。
 
こういう人を見るたびに、科学というものが誤解されているなあと思います。
 
「科学的」とは、間違いのないことでしょうか?「科学的」とは疑う余地の無いものでしょうか?
 
どちらも違います。
 
科学というのは、間違いを犯しうるものだし、大いに疑う余地のあるものなのです。
 
科学とは、実験や資料の分析を通して導き出される推論の体系です。その推論はもちろん蓋然性(確からしさ)の高いものではあるのですが、絶対に正しいとはいえません。
違う実験をやってみたり、違う資料が出てきたりすれば、容易に修正されうるものなのです。
 
そういうことを言うと、「じゃあ科学なんて不確実で大したものじゃないんだな」と考える人が出てくると思います。
 
そうです。科学とは不確実なものです。
しかし、だから「大したものじゃない」かといえば、それは違います。
 
科学とは、不確実で常に更新や修正を必要とするものであるからこそ、価値があるのです。
 
もし絶対不変の真理のようなものがあるとするならば、それは宗教や信仰といったたぐいのものでしょう。
 
科学とは異なる別物です。
最初の例で挙げた、「科学的だから正しい」なんていう言葉は、科学の信仰であって、本当の科学ではありません。
 
信仰の根幹にあるのは信じることです。
絶対的に正しい神や真理の存在を信じ、それに対する疑いをはさまないことです。
 
科学の根幹にあるのは疑うことです。
一般的に正しいと思われていることに疑問をはさみ、「実はこうなんじゃないか?」と別の考えを提示して、従来の通説などを書き換えていくことです。
 
科学と信仰は、その根底において正反対の性格を持っているのです。
 
科学は絶対に正しいものではなく、常に更新され続けるものです。
だからこそ人類の歴史の中で科学は進化し続けることができたのです。
 
たとえば根拠を示すことが科学的な論証の方法であることはみなさんもご存知でしょう。
これは、もちろん根拠を示すことによって自分の説を裏付けるという意味もあるのですが、実はもう一つの裏の意味があります。
 
それは、自分の説の根拠を示すことによって、その論証に対して他の人が反論できる余地を残すことです。
 
もし、「この説は正しいから正しいんだ」と強弁して根拠を示さなければ、他の人たちはその説を批判できないでしょう。何を根拠に正しいと主張しているのかわからないからです。
 
でも根拠を示したうえで「この説は正しい」と主張すれば、他の人たちは、「でもこういう別の実験結果がある」とか「資料の解釈に誤りがある」などという理由で反論ができます。
 
反論ができるからこそ、科学は発達するのです。
もし反論の余地がなくなれば、科学はそこで停滞し、いずれは衰退に向かうでしょう。
 
だから皆さんも、「これは科学的だから正しいんだ」という人を見たら、そのまま鵜呑みにしないようにしましょう。
そういう人は、科学がどういうものかわかっていない非科学的な人か、もしくは知っていながら嘘をついている人である可能性が高いからです。
(単に説明が面倒くさくて省いている人という可能性もありますけどね)
 

言葉を失うということ

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(写真)内容には全く関係ないけど、韓国慶州(キョンジュ)の仏国寺(プルグクサ)にある多宝塔。韓国の10ウォン硬貨に描かれているやつですね。日本でいえば平等院鳳凰堂みたいな扱いなのか?(十円硬貨なので)


どうも、西です。
最近運動不足のせいか、少し体を動かしただけで疲れてしまいます。
困ったものですね。

ところで、今一人で就寝前の晩酌をしているのですが、こういう時には何故だかとりとめもないことを書きたくなります。

あれはちょうど一年前、私が韓国にいた時のことです。

韓国にいた時の私は、(韓国生活自体はとても楽しかったのですが)些細なことでもすぐイライラする沸点の低い人間でした。
その理由はカルシウム不足・・・とかそういう問題じゃなくて、意思疎通がうまくいかないことからくるもどかしさのためだったと思います。

いくら韓国語を勉強して韓国人のようにしゃべろうとしても、日本語の中で産湯をつかい、日本語を空気のように吸いながら生きてきた人間ですので、なかなか日本人の癖から抜けられないのです。
韓国語を空気のように吸って生きてきた韓国人たちのようにはとてもじゃないけど流暢に話せないのです。

韓国に行って一カ月ほど経った頃でしたでしょうか。
人の数え方と動物の数え方の違いを習いました。
日本語では、人は「人(にん)」もしくは「名(めい)」、動物は「匹(ひき)」もしくは「頭(とう)」で数えますね。
韓国語でも同じように人は「명(ミョン)」、動物は「마리(マリ)」と数えるのです。
それを習って少ししたころ、4、5歳くらいの子供を見ました。
その子は犬を見て、「ねえお母さん!あそこに犬が2ミョンもいるよ!」と叫びました。
するとその子のそばにいたお母さんが、「犬はミョンじゃなくて、マリでしょ」とたしなめていました。
それを見て私は、「ああ、私の韓国語能力はこの子と同じレベルなのだな」と思いました。

でも今は同じくらいのレベルでも、その子は私より確実に韓国語がうまくなっていくでしょう。
語学は年齢が若いほど上達も早いものだからです。

結局外国語というのは、いくらやってみても流暢さ、イントネーションの正確さ、単語の引き出しの数、リスニング能力などではネイティブに決してかないません。

外国人はどこまでいっても外国人なのであり、一生かけてもネイティブ並みに自由に言葉を使いこなすのは至難のわざなのです。
これではほとんど言語障害のようなものです。

伝えたい内容があるのに、適切な表現がわからず、うまく伝えられなかった時にはとても悔しい思いをしました。
自分が一人の人間として認められていないようなそんな気持ちがしました。

しかし、植民地期の朝鮮では大部分の人がそのような経験を味わっていたのです。
自分たちが今まで当たり前のように使っていた朝鮮語が、ある日突然非公式の言語に変わったのです。
日本語ができなければ教育もろくに受けられず、いい就職口も見当たらないそういう時代に彼らは生きていたのです。
かつて聴覚障害者が手話を捨てて口話を学ばされたように、朝鮮人も日本語を学ばされたのです。
まだ若い人たちはどうにかなるでしょう。
うまく日本語を身につけてその時代の中をうまくわたりきった人たちもいたでしょう。
でも新たに外国語を習得するのが難しい年齢の人たちにとって、自分たちの言葉を奪われた気持ちはいかほどのものだったでしょうか。

社会の中でそれなりの地位を得ていた年配の人たちが、ある日を境に急に言語障害者のような地位に貶められたとしたら、彼らの怨みは相当なものがあったでしょう。

たとえば逆の場合を想定してみるといいでしょう。
もしある日を境に、日本の公用語が韓国語となり、韓国語ができなければ教育も受けられず、就職もできない時代が来たら・・・。
日本語は日本人同士が話す時にしか使われず、日本語を話すだけで不審者扱いされるような日が来るとしたら・・・。

それは日本語の中だけで暮らしてきた大部分の日本人にとって耐えられない苦しみの日々になるだろうと思います。

植民地が恩恵だったと能天気なことをおっしゃる植民地近代化論者の方々には、言葉を失う苦しみについてもう少し真剣に考えていただければと思います。


「国難の今、わがままな教師たちを叱る」という産経新聞の記事を読んで、強い違和感を感じた。

産経新聞の右翼的傾向は今更言うまでもないことなのだが、「国難の今」と「わがままな」という語句に、太平洋戦争時の空気に似たものを感じたのだ。

記事の内容は以下に転載しておくが、国歌斉唱・国旗掲揚にかかわる思想的問題を、単なる「わがまま」という次元に矮小化しようとする魂胆がこの記事からは露骨にうかがえる。
こういういやらしさが産経の産経たるゆえんだと思うが、読んでいて背筋が冷たくなるような気がした。

国歌斉唱・国旗掲揚を拒否する教師たちは、国歌や国旗そのものを否定しているわけではない。
国歌としての「君が代」と国旗としての「日の丸」に対して疑問を持ち、上から与えられた国歌と国旗ではなく、全国民的な議論の結果としての国歌と国旗を作り上げるべきだと考えているのである。

国民が自らの国の国歌や国旗を作り上げていくのは民主主義国家の国民として当然の権利であるにもかかわらず、そういう過程を経ないまま、政府は国歌と国旗を国民に強要している。教師たちが国歌や国旗に対して「ノー」を突き付けるのは、そういう政府のやり口に対する抵抗なのである。

私個人は、国歌や国旗など所詮記号にすぎないと思う立場なので、この教師たちに同調するわけではないが、彼らの危機意識のようなものは理解できる。
それは、国のあり方は国民一人一人が決定していかなければならず、「長いものには巻かれろ」式の大勢順応方式では国は滅びるという危機感である。

現在のような非常時にはできるだけ多くの国民が声をあげて、よりよい日本の国のあり方をみんなで考えていかなければならない時だというのに、産経新聞はそういう動きを「わがまま」の一言で押しつぶそうとしている。

これでは戦時中の言論統制と何ら変わりない。あの時もそのような言論統制によって自滅したというのに、この国はまた同じ過ちを繰り返そうとしているのだろうか?


【産経抄】
国難の今、わがままな教師たちを叱る
2011.6.1 02:47
 早坂隆氏の『世界の日本人ジョーク集』に「スープに蠅が入っていたら?」というよくできた話がある。「問題なく蠅を食べる」という中国人など、各国の人々の反応をジョークとして取り上げている。中でも対比がおもしろいのが、米国人と日本人だ。

 ▼米国人は「ボーイを呼び、コックを呼び…あげくに裁判沙汰となる」。一方の日本人は「自分だけに蠅が入っているのを確認してから、そっとボーイを呼びつける」。訴訟大国の米国と、なるべくなら争いごとを避けたい日本との風土の違いを示しているように思える。

 ▼だが一昨日、最高裁で判決があった国歌斉唱時の起立をめぐる裁判を見ると、日本も訴訟大国になったのでは、と錯覚させる。東京だけでも国旗・国歌をめぐる同様の訴訟が24件も起きている。750人近い教職員がその当事者となっているというから、驚きである。

 ▼自分の思想信条と合わない職務命令には従いたくない。聞こえはいいかもしれないが、普通の企業や組織ではそれは「わがまま」という。「蠅一匹で」とはいわないが、処罰を受けたら裁判に持ち込むというのなら、世の中訴訟だらけになってしまう。

 ▼幸い、最高裁の判決では斉唱時の起立を求めた職務命令は思想、良心の自由を侵害せず、合憲と断じた。4年前、国歌のピアノ伴奏の命令も合憲となっている。司法としてこれ以上の判断はない。いいかげんに不毛な議論はやめ、命令に服したらいかがか。

 ▼国難といわれる今、日本人は心をひとつにすべきときだ。それなのに、何百人もの先生たちが国旗や国歌に背を向けて裁判闘争にうつつを抜かす。日本を応援している外国人たちの目にどう映っていることだろう。


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