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つれづれ旅日記

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2、国境の町、丹東(9月20日)前編
 
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瀋陽の高速バスターミナル(遼寧省快速汽車客運站)

 
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瀋陽(シェンヤン)から丹東(ダンドン)に行くバス。82元で約4時間かかった。
 
遼寧省瀋陽の高速バスターミナル(快速汽車客運站)で丹東行きのバスに乗り込んだ私は、約4時間バスに揺られたすえに丹東に到着した。
バスに乗り込んだのが3時だったので、今は7時前。あたりはすっかり暗くなってしまっていた。
バスから降りると、おじさんやおばさんがやたらに声をかけてきた。
おそらく宿屋の客引きだろう。
私はすでに宿を予約してあるので、客引きを完全に無視して宿の方へ向かう。
予約しておいた宿は、チェンシャンビジネスホテル(誠詳商務酒店)という所で、一泊148元。九緯路と江城大街の交差点にある。
色々と迷いながらもようやくホテルを見つけて、中に入った。
フロントのお姉さんが「予約はしましたか?」と言うので、予約内容をプリントアウトした紙を見せた。
するとお姉さんの顔がにわかに曇った。
「今は日本人は泊まれないんですよ」
ああ、ここも駄目なのかと思った。
実は私は瀋陽(シェンヤン。遼寧省の省都。私が丹東の前に滞在していた町)でも、宿の予約を入れたにもかかわらず断られてしまい、中国渡航前日に急遽宿を予約しなおしたことがあった。
だからこの宿でも断られる可能性があるな、と覚悟して来てみたのだが、案の定断られてしまった。
しかしここで断られたからといって「はい、そうですか」と言って引き下がるわけにはいかない。
初めて来たばかりの異国の町で、旅行荷物を抱えながら当ても無く宿を探し歩くほどしんどいことはない。夜道は危険なうえに、今は日本人に危害を及ぼしかねない輩がわんさかいるのだからなおさらだ。
「私は予約しましたよ!ここが駄目なら、別の宿を紹介してください!」
下手くそな中国語で、それでも強気で交渉してみた。
お姉さんもさすがに申し訳ないと思ったのか、別のホテルに色々と連絡してくれた。当てが見つかったのか、「一緒に行きましょう」と言うので、荷物を持ってそのお姉さんの後について歩いた。
しかし結果は散々だった。二、三軒まわってみたものの、すべて「日本人は無理だね」と断られてしまった。
中国のホテルは保安上の理由から、宿泊が制限されるものが数多くある。たとえば100元以下の安宿は、まず外国人は宿泊不可である(実際には非合法に宿泊させる宿もあるが)。私も以前に120元程度の宿を予約しようとして、「外国人は無理です」と断られてしまった経験がある。
今は連日の反日デモのおかげで保安上の理由から、安宿は軒並み「日本人お断り」になってしまっているのだろう。
私と宿のお姉さんは途方にくれた。このまま泊まるところが決まらなかったら、最悪野宿になってしまう。これほど危険なことはない。
 
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最初に泊まる予定だったチェンシャンビジネスホテル。ここのおじさんにはずいぶんお世話になり、丹東を発つ日には握手をして別れた。

もう一人いた宿のおじさんも宿を探して電話をかけてくれて、どうやら当てが見つかったらしい。彼はお金を握りしめると、私を連れてタクシーに乗り込んだ。
また断られるのじゃないか?と私は不安な気持ちのまま、ただおじさんの後について行った。
タクシーを降りると、おじさんは廃墟のようなオンボロビルの門前に行き、そこで暗証番号を入力して中に入った。
本当にこんなボロビルの中にホテルがあるのか?と私は半信半疑で彼のあとについていった。
 
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ハオユエンビジネスホテル(灝源商務旅館)の入り口。初めてここに来たときにはホテルとは思えなかった。
 
三階まで上がると、突然きれいなフロントが現れた。わりといいホテルのようだ。
私は何だか狐につままれたような気分のまま、お金を払わされて部屋に通された。
部屋はビルの外観とは似つかわしくなく、ずいぶんときれいだった。
 
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ハオユエンビジネスホテルの部屋。トイレの電気はつかなかったが、温水がきちんと出たのでわりと便利だった。

宿の名前はハオユエンビジネスホテル(灝源商務旅館)といって、江城大街と九江路の交差点にある林江名城というビル群の中にあった。
チェンシャンホテルのおじさんがここを紹介してくれたのは、保安上の理由だろう。ハオユエンホテルは他のホテルと違って、一見するとホテルに見えない。
さらにフロントに行くにはまず門のところで暗証番号を入力したうえ、三階まで登らなければいけない。
さらにはそのフロントを通過しなければ客室には行けないのだから、デモ隊が集団で客室まで襲撃しに来ることはかなり困難である。
さらに客室自体がかなり少ないようで(このビルの3階だけがホテルになっている)、宿の従業員が客の顔を把握しやすい。
これらの点を考慮して、ここなら日本人客を泊めても大丈夫だと判断したのだと思う。
「夕飯は食べたか?」とチェンシャンホテルのおじさんに聞かれたので、「まだだ」と答えたら、「カップラーメンでも食べるか?」と言われた。
その口ぶりから、私が外出するのをあまり好まないようだった。
私が彼の話を理解してなさそうだったためか(実際によく理解できてなかったのだが)、彼は筆談で説明してくれた。
いわく、
「なるべく人と話すな」
「日本人は今は危険だ」
「これは釣魚島(尖閣諸島)問題のためで、君のせいではなくて、君の政府のせいだ」
「もし国籍を聞かれたら韓国人だと答えろ」
中国人自身がここまで反日デモを重く受け止めているとは思っていなかったので、正直言って驚いた。いつもどおりの平穏そうな日常の裏で、かなり大きな問題が進行中なのだということをあらためて感じた。
その一方で、そこまで心配してくれるこのおじさんの心遣いがうれしかった。
「私は韓国語ができますから、韓国人のふりはできますよ」と言ったら、彼は「それは良かった!ここでは君は日本人ではなく、韓国人だ」と安堵していた。
まさか、韓国経験がこんなところで活きることになるとは思いも寄らなかった。
中国で韓国人になりすますために韓国語を学んでいたわけではないのだが、今は背に腹は変えられない。自衛のために韓国人を名乗らせてもらうことにしよう(この時、私は自分の韓国名も考えていた。いざ名前を聞かれた時に答えに窮しないためにである)。
「夕飯は何が食べたいんだ?」と聞かれたので、「朝鮮料理が食べたい」と答えたら、チェンシャンホテルのおじさんは、私を連れてタクシーに乗り、店の前まで連れて行ってくれた。
そして「これをタクシー運転手に渡しなさい」と言ってハオユエンホテルの住所を書いた紙を渡してくれた。
朝鮮料理店の前でチェンシャンホテルのおじさんとはお別れになったが、彼はチェンシャンホテルからハオユエンホテルまでのタクシー代とハオユエンホテルから朝鮮料理店までのタクシー代を全て払ってくれた。
その心遣いには本当に頭がさがる思いで、これだけで私は中国人に恩義を感じずにはいられない。
(つづく)
このブログも一カ月以上放置していたが、いい加減更新したい。
なので、書きためていた旅行記を順次アップしていくつもり。
 
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中国国旗を付けた日本製自動車。デモ隊に壊されないための自衛策であろう。(遼寧省・丹東にて)
 
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「このレストランは100%香港資本で作られた企業です。」という横断幕が付けられた「吉野家」(遼寧省・瀋陽駅前にて)
 
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釣魚島(尖閣)を守るための署名運動。女性ばかりの平和そうな雰囲気だったが、「駆除倭寇 振興中華!(倭寇を追い払って中華を発展させよう!)」というスローガンはなかなか激しい。(遼寧省・瀋陽の懐遠門近辺にて)
 
 
1、私が中国に行ったわけ
2012年9月、日中国交回復四十周年を目前として、これまでにない規模の反日デモが中国全土で繰り広げられた。
私はちょうどその時に中国旅行を計画していた。
「今中国は危険だぞ」「渡航はまた別の機会にした方がいいのでは?」という知人たちの忠告を受け、また自分でも中国ニュースを調べながら、渡航すべきか延期すべきかを思い悩んだ。
たしかにデモ隊が日本大使館・領事館や日本料理店を襲撃しているのは事実らしい。
また在中邦人たちもなかなか「日本人だ」と名乗れないような事態になっているとも聞く。
しかしそんな話を見聞きしても、中国行きを取りやめようという考えはわいてこなかった。
それは、一つには今まで準備してきたことを無駄にしたくないという思いによるものであり、もう一つは「こういう情勢だからこそ」見られるものがあるだろうという好奇心のためである。
私が中国に渡るのは単に楽しく快適な旅がしたいからではない。中国、ひいては東北アジアという地域についての理解を深めたいからだ。安全で快適な旅をしたいのなら、他の地域に行けばいい。
中国に行くからには、そこでしか見られないもの、そこでしか得られない経験をしたい。多少の不便や危険はもとより覚悟のうえだ。
今の中国が危険だというならどれほど危険なのか、自分の目で確かめてみたかった。
自分の目で確認もせずに、他人からの又聞きで知ったかぶりをする人間にはなりたくない。
10年前に「東アジアとともに生きていこう」と誓いを立ててからというもの、何らかの形で常に東アジアとの関係を保ちながら今まで生きてきた。
「反日」や「尖閣」をキーワードにして東アジアがにわかに騒然としてきた今、現地で何が起こっているのかを確かめるために中国に渡るのは決して意味の無いことではなかろう。
そういう思いから、周囲の反対にもかかわらず、私は中国に渡ることにした。
この文章はその中国旅行の行程の一部、中国と北朝鮮の国境の町丹東(ダンドン)を訪れた際の日記である。
荒削りで読みにくい部分も多い文章ではあるが、書いた当時の旅先の雰囲気を残すため、推敲は最小限に抑えた。
反日デモが吹き荒れているという報道ばかりが流されていた中国の、ちょっと変わった旅行記としてお読みいただければ幸いである。
(つづく)
中国の上海と杭州に行ってきました。
なので、それに関する記録を少し残しておきます。
日記形式の記録もあるのですが、それはまたの機会として、今回はメモ的に旅をしながら考えたことを書いてみたいと思います。
今回は上海と杭州なんていう有名な都市に行ってきたものの、あまり観光地らしいところには行きませんでした。
上海に行ったというのに外灘(バンド)も見ていないし、杭州に行ったのに六和塔にも登っていない。
それで「アンタ、何しに行ったの?」と中国の知人からもお叱りを受けております。
では私が観光地めぐりをしないで何をしていたかと言いますと、あまり観光客の行かない宗教施設を見に行ってたのです。
それがタイトルにもある孔子廟と城隍廟(じょうこうびょう)です。
孔子についてはもう説明の必要はありませんね。中国の昔の偉い人です。
・・・という説明はあまりにも端折りすぎだと思うので、少しだけ説明しておきます。
孔子は本名を孔丘と言い、春秋時代(紀元前770年〜403年)の魯(ろ)の国の人で、儒教の開祖として知られています。
儒教は漢代以降中国の官学となったため、孔子は文宣王(ぶんせんおう)と呼ばれ、畏敬の対象となりました。
そのため中国の各都市には孔子廟が造られ、それに併設される形で公立の学校も建てられ、地方における儒教教育の拠点となりました。
孔子廟は、「文宣王(=孔子)の廟」ということで、略して「文廟」とも言います。
また、城隍廟というのは都市の守り神(城隍神)を祀る廟です。
その土地の守り神という点では日本の産土神(うぶすながみ)に近いものと言えるかもしれません。
昔の中国の都市にはたいてい孔子廟と城隍廟がセットで設けられ、都市の統合の象徴的役割を荷っていました。
そのような孔子廟と城隍廟が、辛亥革命、日中戦争、文化大革命を経た現代にどれほど現役で残っているのかを知りたくて、あえて観光客があまり行かないであろう孔子廟と城隍廟を見て回ったというわけです。
見てきたのは、旧上海県城の孔子廟と城隍廟、それから旧杭州府城の孔子廟と城隍廟です。
 
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(上海の城隍廟の様子。道士たちが祈祷を行っているようだ)

旧上海県城の城隍廟は思ったより観光地になっていて(豫園が近くにあるからですかね)道教式の儀式みたいなことをやっていて面白かったです。
一方、上海の孔子廟の方は中国人でも知らない人が多いらしく、知人の中国人に「上海の孔子廟を見てきた」と言ったところ、「上海には孔子廟は無いはずだ」と否定されてしまいました。あるんだけどなあ・・・。
 
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(旧上海県の孔子廟の大成殿。孔子を祀る建物)
 
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(旧上海県の孔子廟の明倫堂。勉強するところ)
 
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(旧杭州府城の孔子廟の孔子像。道教の神像みたい)
 
旧杭州府城の孔子廟はただで入れたので良かったです。
それから城隍廟の方は特に見どころがあるようにも見えなかったのに、わざわざ韓国語の表示まで有って驚きましたね。そんなに韓国人がこの廟を熱心に訪ねてくるのか?
 
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(旧杭州府城の城隍廟の功徳箱。何故か韓国語でも書いてある。「功徳箱」は日本なら「賽銭箱」、韓国なら「福田函」に当たるか)
 
・・・で、これらを見て思ったことは、「日本の神社みたい」ということです。
何がありがたいのかよくわからないけどとりあえず拝んどけばいいことあるだろう、という感じの現世利益的な祈り方をされているように思えるんですよね。
もちろん城隍廟は本来日本の産土神みたいなその土地の神を祀る廟ですから、神社みたいになるのは当然だと思うんですよ。(中国は道教、日本は神道ですけど)
でも孔子廟のような儒教的な施設までが、日本の神社みたいになっていたのは驚きました。
写真を見ていただければわかると思うんですけど、これは参拝者が孔子様へのお願いを書いた紙です。
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  (願いことを書いた紙がたくさんぶらさげてあった。杭州の孔子廟にて)
 
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(子供の受験合格と家族の健康を祈る母親の願い事。日本の絵馬みたいなものか)

写真の紙には子供の大学受験がうまくいくようにという願いと家族みんなが健康で安らかに暮らせますようにという願いが書かれています。
受験だけならともかく、家族の健康まで孔子様に祈れば何とかしてくれるのか?孔子様はそんなに万能か?
と私なぞは疑問に思いますね。
何というのか現在の中国の人にとって孔子というのは、日本人にとっての菅原道真ポジションの神様みたいになっているのではないかなと思います。
儒教の聖人というよりはむしろ関羽のような道教の神様という感じ。
孔子廟にびっしり吊るされている合格祈願の紙を見て、日本の合格祈願の絵馬を思い出したのは私だけじゃないはずだ。
孔子廟は韓国にもあるんですけど、いやむしろ保存状況は韓国の方がいいんじゃないかと思うくらいにたくさん残っているんですけど、中国とはずいぶん様子が違うんです。
まず韓国では中国みたいに入場料を取って参拝者を迎え入れたりしません。
それから韓国では孔子を祀る建物である大成殿を原則的に公開していません。
また、中国みたいにでっかい孔子像を造ったりしません。基本的には孔子の位牌があるだけです。
中国と韓国で同じ孔子廟でもこんな違いが出るのは、お互いのお国事情の違いによります。
中国ではもうすでに儒教が官学としての地位を失い、道教的な宗教施設となって参拝者を呼び込むことで生き残ろうとしているのだと思います(よく知らないけど)。
でも韓国ではまだ孔子廟が儒教施設として現役なんです。韓国では今でも全国的な儒教組織が勢力を保っており、孔子廟はその地域の儒教組織の拠点としての役割を果たしています。
そのような儒教組織は、昔からの伝統的な儒教式祭祀を守ろうとしています。
だから一般の参拝者を呼び込んで観光地化する気はなく、中国みたいに大成殿にでっかい孔子像を造って参拝者に公開したりはしないのです。
道教や仏教と異なる儒教式の純粋な信仰は中国よりも韓国で残っていると言えるのでしょうかね。
ちなみに日本にもわずかながら孔子廟はあります。
日本で一番有名な孔子廟といえば、JR御茶ノ水駅の近くにある湯島聖堂です。
これは江戸幕府が造った孔子廟で、江戸時代には昌平坂学問所という幕府直轄の学校が併設されていました。
私は一度この湯島聖堂の祭礼である釈奠(せきてん)を見に行ったことがあるのですが、祭官を務めていたのは神田明神の宮司さんでした。
日本の神道が仏教と融合していたのは有名な話ですが、儒教とまで融合していたとは知らなかったのでずいぶん驚いたものです。
日本のこの状況を見ると、中国の孔子廟の道教化を笑えませんね。
結局孔子廟の純儒教的性格を守り続けているのは韓国くらいのものなのだろうかと思います。(北朝鮮で孔子廟がきちんと残っているとは考えがたい。台湾やベトナムはどうだか知らないけど)
次に城隍廟ですが、韓国にも城隍廟がありました。
「ありました」と過去形で言うのは今は無くなってしまったからなのですが。
韓国も李朝時代には中国にならって地方都市に孔子廟と城隍廟をセットで造っていました。
しかし、城隍廟というのはあくまでも中国の模倣として政府が造らせたものであったため、中国のように民間に浸透せず、李朝の滅亡とともに消えていってしまったようです。
ただし、城隍廟とほぼ同義の「城隍堂」という言葉は韓国の土着信仰と結びついて現在でも残っています。
韓国の田舎を歩くと村の入り口などに石が積まれていることがあります。
それをソナンダン(서낭당)と言うのですが、これは城隍堂を意味する韓国語「ソンファンダン(성황당)」がなまったものです。
村の入り口に石を積む習慣はおそらく中国の城隍神信仰とは関係無いのでしょうけど、中国から城隍神信仰が入ってくると、この石積みを「城隍堂」の名前で呼ぶようになったのでしょう。
 
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(ソナンダンに祈りをささげる女性。写真はこちらのサイトからお借りしました。http://www.cbinews.co.kr/news/articleView.html?idxno=38810
 
 
 孔子廟が民間信仰化して儒教本来の姿を失いつつある中国と、未だに儒教本来の姿をかたくなに守り続けている韓国。
城隍廟が道教的な民間信仰として今でも残っている中国と、城隍廟そのものは消えてしまったけど在来の民間風習の中にその名前だけをとどめている韓国。
中国と韓国は共通する面も多くあれど、違う点もたくさんあります。
今回は孔子廟と城隍廟を見て回ることでそのような共通点と相違点に気付かされたような気がします。

ハノイ再び(3)

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(1枚目)日本の大阪で見た南仏プロヴァンス風ホテル(ラブホテルかと思われる)。ベトナムに多い洋風建築はまさにこんな感じ(笑)。壁は黄色く屋根は赤茶色に塗られ、やたらに縦に長く、各窓にバルコニーのような張り出し構造を持つ。
(2枚目)ベトナムエアラインのオフィスビル。ここから空港行きのエアポートバスが出ている。
(3枚目)空港に向かうエアポートバス。バスの前にも物売りがいるのがベトナムらしい(笑)。
(4枚目)空港で食べたミエン・サオ。どう見てもあんかけ堅焼きそば。



明け方に目が覚めた。眠たい目をこすりながら時間を知るために携帯電話を起動させた。
携帯の画面に「7:16」という数字が浮かび上がる。
しまった、寝すごしたか!?
6時半にモーニングコールを頼んでいたのに電話をかけてくれた形跡がない。おかしいなあとぼんやり考えてから気がついた。ベトナムには2時間の時差があるのだ。
日本の携帯電話で「7時16分」なら、ベトナムでは「5時16分」。寝過ごしたのではなく、早く起き過ぎたのである。
もう一度寝なおして寝過ごしてしまうのも嫌だったので、少々早起きではあるが、起床することにした。
顔を洗ってパソコンを起動して昨日の日記を書いた。冷凍庫から凍りかけのコカ・コーラを取り出して飲みながらパソコンを打った。
コカ・コーラを冷凍庫に入れておいたのは、冷蔵庫だと全く冷えないからだ。

結局6時半に頼んだモーニングコールは6時50分くらいに来た。ベトナムの感覚では7時までは6時半なのだろう(笑)。
その後荷物をまとめて7時前にホテルを出た。
ロンビエンバスターミナルから路線バスに乗るか、それともベトナムエアラインのオフィス前からエアポートバスに乗るかで迷ったが、初めてエアポートバスに乗ってみるのも悪くないと思い、ベトナムエアラインのオフィスに向かった。
ベトナムエアラインのオフィスはホアンキエム湖の南西側にある。そこでエアポートバスに乗り込んだが(2ドル)、バスはなかなか出発しない。定員いっぱいまで客が集まらなければ出発しないのだ。
結局40分くらい待って、8時5分にバスは出発した。
バスはタンロン橋(ハノイ北部にある紅河を渡るための巨大橋)をわたってノイバイ国際空港へと向かう。空港に行く途中車窓の風景をずっと眺めていたのだが、タンロン橋北側に日本企業の工場が密集していた。パナソニック、キャノン、ヤマハ、ニッセイなど見なれた日本企業の名前が工場の白い壁に大きく書かれていた。
ハノイにはフランスの植民地支配の影響から洋風のビルが多い。そういうビルは大抵3〜5階建てで、ベランダのような張り出し構造をもっている。屋根は三角形の傾斜をもつものが多く、瓦葺きの場合大抵赤茶色である。傾斜をもつ屋根の場合、屋根のてっぺんには天を衝く小さな突起構造物(避雷針だとおもう)が付いている。たまに平屋根のビルもあるが、そういう屋根の上には大抵タンクが置かれている(雨水貯蔵用のタンクだろうか?)。
傾斜つきの屋根の上にもタンクが置かれていることがあるものの、その場合には大抵タンクを支えるための基台がある。また屋上付きのビルには屋上の上にさらに建物を建て増したものが多く、韓国の屋塔房(オクタッパン)を彷彿とさせる。

なんてことを観察していると、いつの間にかノイバイ空港に着いていた。
時刻は9時前。10時50分のモスクワ行きに乗る私としてはちょうど良いタイミングだ。
チェックインカウンターで荷物を預ける前に、預ける荷物をサランラップでくるんでおいた。ロシアでは預け入れ荷物が空港職員によって荒らされるケースが多く、こういう自衛策をとることが一般化している。
しかしサランラップは薄く、しかも素人が不慣れな手つきでくるんだものなので、私の荷物はひどく不格好なシロモノとなった。これでどの程度自衛効果があるかは神のみぞ知る。(追記:荒らされていませんでした。よかった!)
チェックインをすませてわかったことなのだが、飛行機の調整にとまどったためにモスクワ行きの飛行機の出発が遅れているという。もとの出発時間は10時50分であるが、変更後の出発予定時刻は13時10分という。2時間以上の遅延である。

モスクワの空港に友人(ロシア人)が迎えに来てくれることになっていたので、私はこの遅延をまずその友人に知らせる必要があると思った。
そこでモスクワまでの国際電話をかけられそうな電話機を探したのだが、空港中歩きまわっても公衆電話が見当たらない。
困り果ててインフォメーションカウンターで電話機はあるかと尋ねてみたところ、空港内に郵便局があるからそこで国際電話をかけられるとのこと(郵便局はベトナム語で「Buu dien」という。漢字では多分「郵電」)。
ようやく郵便局を見つけた私はカウンターのお姉さんにモスクワまで電話をかけたいと伝えたところ、お姉さんが電話をかけてくれた。
以下はその友人と私の会話。

私「やあ」
友「・・・?(誰かわからないので沈黙している)」
私「私だよ、私。貢だよ」
友「ああ、貢!あんた今どこにいるの?」
私「うん、今ベトナムのハノイにいるよ。飛行機が遅れちゃってそれで連絡したんだよ」
友「ええ!?遅れたって・・・それじゃロシアに来れないじゃない!」
私「私が飛行機に乗り遅れたんじゃなくて、飛行機のフライトが遅れたの!2時間くらい遅れそうだからよろしくね」

という感じで1〜2分ほど会話をして料金は28,000ドン(約140円程度)くらい。思ったより安かった。
そんなわけで空港で2時間以上時間をつぶさなければならなくなったので、ブランチでも食べようかと思い(朝食べたのは凍りかけたコーラのみ)、空港の4階にあったLucky Cafe Restaurantに入った。
そこでミエン・サオ(堅焼きそばのあんかけのようなものが出てきた)と飲み物を頼んだ。
額は80,000ドンだったが、何故か会計の際に5%のサービス料と10%のVAT(何だろう?)を請求され、総額92,000ドンだった。
やはり空港内の飲食店は割高だ。

その後出国手続きと機内持ち込み荷物の検査を済ませて飛行機に乗り込んだ。
座席番号は46のE。
できれば窓側の席に座って中央アジアの沙漠や南ロシア平原を見下ろしたかったのに、座席は真ん中三列シートの真ん中。窓の外を見るどころかトイレにすら行きにくい最悪の座席。
何てついていないんだ・・・。
ともあれ2時間以上遅れたモスクワ行き飛行機は雲の中目がけて飛び立った。
行く先でどんな出来事が待ち構えているのやら・・・・。

(後記)
これはモスクワに行く前のトランジットとしてベトナムのハノイに一泊だけした際の体験記です。
この続きが、以前に「はじめてのロシア語実戦」で書いた厳しいロシアの入国検査になるわけです。

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<写真1枚目>ベトナム料理の定番、フォー(pho)。香草をたっぷりのせたフォーを食べながらタイガービールを飲むと、「ベトナムに来たなあ」としみじみ感じる。
<写真2枚目>pho24。フォー専門のチェーン店らしい。
<写真3枚目>闇の中を疾駆するバイクの群れ。ライトの明るさのせいでまるで光の川のように見える。
<写真4枚目>宵闇に浮かぶ玉山祠の門。
<写真5枚目>ホテルのテレビで見た韓国ドラマ。やっぱりベトナムでも韓国ドラマは人気らしい。ちなみにホテルのテレビも韓国製だった。
<写真6枚目>「日本生活の案内」・・・ベトナム人に日本の生活を紹介した本らしいのですが、何じゃこりゃ!表紙からしていきなりミスリードしてるのですけど。


どうにかホテルにたどり着き、予約していた旨を話すと、部屋のカギを渡された。
501号室。5階の部屋だ。
5階までは階段で登らなければならなかった。20kg程度の荷物を持ちながら5階まで上がるのは結構な重労働であり、体から汗がふきでるのを感じた。

ホテルでシャワーを浴びて小休止すると、いつの間にか夕暮れ時になっていた。
夕食を食べにまた外に出た。
外に出る前にホテルのフロントの青年が、「パスポートを出してくれ」と言うので、「滞在中パスポートをホテルで保管するのかな?」と思っていたが、パソコンにパスポート情報を打ち込んだら返してくれた。
以前にハノイで滞在した時は宿に滞在している間中パスポートを預けておかなければならなかったのに比べると、ずいぶんゆるくなったものである。

夕食を食べに外に出た。
やっぱりバイクの数はおびただしかった。ひっきりなしにクラクションを鳴らしながら疾走するバイクの群れは、夕暮れの空の下で巨大な光の洪水のように見えた。
その光の群れの中をどうにかして歩きわたるとホアンキエム湖にたどりついた。
7年前に私がハノイに滞在していたとき、何度も来た湖である。

肌にまとわりつくような生温かい風は7年前と変わらないが、あの時は3月、今は8月である。暑さの質が違う。
体から汗が吹き出すような感触を抱えながら、いい加減空腹に耐え切れなくなってPho24という小ぎれいな店に入った。
小汚くて安いクアンコム・ビンザン(平民食堂)を避けてあえて小ぎれいなチェーン店に入ったのは、明日のモスクワ行きを考慮しての事だ。ここで体調を崩してはならない。

Pho24には外国人の客が多かった。より正確に言えば私を含めて外国人の客しか見かけなかった。地元のベトナム人はフォーのような庶民料理を食べにわざわざ高い店に入らないためであろうか。
フォーとタイガービールを頼んだら9万ドンくらいだった。なるほど、この値段じゃわざわざベトナム人が来ないわけだと思った。
食事を終えてお勘定をしようと思ったところで突然店の電気が全て消えた。停電だろうか。
店員はいつものことで慣れているのか、誰も驚かずにのんびりおしゃべりしている。5分ほどで電気が復旧したので、お勘定を済ませて店を出た。
店を出てしばらく考えた。最近日本では「停電が起こるかもしれない」という不安が広がり、一度も停電が起こっていないのに(計画停電はあったが)人心は動揺している。
それに比べてベトナムはどうだろう。
日常的に停電が起こっても人々は「またか」というぐらいで誰も動揺していない。
日本とベトナム、余裕のある国は一体どちらなのだろうか?

ホアンキエム湖の南東にあるチャンティエンプラザ(国営百貨店らしい。今は何故か閉鎖中)の隣にタンロン書店がある。越日辞典を買おうと思い立ち寄って見たのだが、いい辞典が見当たらない。
その代わり韓国語辞典が以前に比べてずいぶん充実していた。隣にいた二人の若い男性客たちも韓国語辞典を手にとって何やら話していた。今ベトナムでは韓国語学習熱が高まっているらしい。

日本語学習コーナーも覗いて見たところ、思いがけないものを見つけた。
写真を見ていただければわかるのだが、本のタイトルは「日本の生活案内」なのに、表紙の写真は韓国なのである。
これは一体何なのか?著者は日本と韓国の区別がつかなかったのか?それともツッコミを期待してあえてボケをかまして見たのだろうか?
何にせよベトナミーズ・ジョークは難しすぎる。

結局辞書は買わずにベトナムの地図帳だけを買って店を出た。
その後ホテルに戻ったところ、ベトナムに長期滞在中の知人がフロントで私を待っていてくれていた。
私たちは再会を喜び合い、その人のおすすめの喫茶店でお茶を飲みながら色々と語り合った。
その会話のなかで特に印象的だったのは「最近ベトナム人がどんどん韓国人化しつつある」ということだ。
ベトナムでは今韓国ドラマが人気で、若者たちは韓国のファッションを真似し、(これは多分冗談だろうが)走り方まで韓国人に似てきたという。
私も今回ベトナムに来て同じ事を感じていたので、その説に共感した。

ベトナム人にとって学ぶべき対象としてのアジアの先進国が、日本から韓国にシフトしつつあるのかもしれない。

私は以前から韓国(北朝鮮を含む)とベトナムは似ていると思っていた。中国という超大国の圧力を常に受けながらも中国文化を取り入れつつ独立を守ってきたという歴史的経緯を共有している。そのために両国は心情的に近いものを持っており、韓国文化を愛好するベトナム人が増えているのもそのような歴史的経緯によるものではないだろうか。

そんなこんなで楽しい歓談のひとときは過ぎ去り、次回は字喃(チュノム。前近代においてベトナム語を表記するため漢字をもとにして作ったベトナムの国字)を教えてもらうという約束をして別れた。
私は宿に戻ってフロントにモーニングコールを頼むと、そのまま寝てしまった。

(続く)

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