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店主の西貢が日々考えたことや体験したことをつづるブログです!

つれづれ旅日記

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(写真1枚目)ソンシン荘の外観。まさかこの宿に4泊もすることになろうとは・・・。

(写真2枚目)宿の部屋にあったなぜかやけに色っぽい灰皿。日本のマンガ(80年代くらいの絵柄だと思う)を真似して描かれたものか?

(写真3枚目)杆城バスターミナル(コンビニとKODAKの間にある灰色部分)

(写真4枚目)バスターミナル内部。待合席はこれだけしか無いのです。

(写真5枚目)杆城の中心市街地。1時間あれば端から端まで全部見て回れるくらいの大きさです。

11月21日 日曜日(2)


市外バスターミナルの近くにあるソンシン荘(성신장)という旅館がわりと大きめで、設備もしっかりしていそうだったので、そこに入ることにした。
(杆城市街地は観光客があまり来ないためか、大きくて新しいモーテルや旅館は一軒も見つけられなかった。宿泊施設は市街地よりもむしろ郊外の海水浴場や国道沿いに分布しているようだ)
宿泊費は3万ウォンだというので、そのまま値切りもせずに支払う。

昨夜シャワーを浴びられなかった身としては、一刻も早くチェックインを済ませてシャワーを浴びたかった。
部屋に入ってシャワーを浴びようとしたのだが、温かい水が出たのはほんの少しだけで、あとは冷たい水しか出ない。
また宿のシャワーに問題ありか?今回の旅はシャワーの神(何だそれ)にでもたたられているのだろうか?と暗い気分になった。
杆城市街地で一番大きいソンシン荘でさえシャワーがろくに出ないとは思わなかった。

職員のおばちゃんに「温かいお湯が出ないんだけど」と抗議したところ、おばちゃんは「社長(사장님)に話してみるからちょっと待ってくれ」と答えた。
そういうことなので30分から1時間くらい部屋で待ってみたのだけど、一向にシャワーが復旧するきざしは無い。
いい加減しびれをきらして「社長には話したのか」と聞くと、「社長がまだ来ていないので、話していない。いつ来るかわからないけど、来たら話しておくから」と答えた。

今すぐシャワーを浴びたい私としては、いつ来るかわからない社長を待っていられるわけがない。
宿でシャワーを浴びる望みは捨てて、サウナや銭湯(목욕탕)で汗を流そうと思い、おばちゃんから銭湯の場所を聞いて、銭湯に向かった。

杆城は宿も少ないが、サウナや銭湯も少なかった。
おばちゃんに教えてもらった銭湯は、現代荘(ヒョンデジャン)旅館という小さくてボロい旅館の一階にあった。

まだ昼間の2時過ぎだったのでガラガラだろうと予想していたのだが、意外に客は多かった。
浴槽内では子供が水をかけ合ったり、飛び込んだりして遊んでいた。
日本ならばこういう時は親が「他の人の迷惑になるからやめなさい」と止めるものなのだが、韓国の親はそんな注意はしない(少なくとも私が今まで見た限りは)。
むしろ子供と一緒になってはしゃぐ親もいる。

そんな騒がしい親子を横目で見つつも、私はようやく湯に入れたことでほっと安心していた。
浴室には足が不自由な人もいた。どうやって浴室から出るのだろうかと思っていたら、その人の家族とおぼしき女性が入ってきて、その人をおぶって出て行った。

湯を出た後、とりあえず何も考えずにブラブラと散歩した。
MP3プレイヤーでラジオを聴きながら歩いた。
束草でもそうだったが、杆城では私が持っているMP3プレイヤーではほとんどラジオ放送を聴けなかった。
一番よく聞ける時でも2種類か3種類くらいの放送しか聞けない。
さらに電波状況が悪いのか、ノイズがあまりにも多く、聞き苦しい。

それでも何とかラジオを聴いていたら、北朝鮮に関するニュースが聞こえてきた。
電波状況がかなり悪くてほとんど聞き取れなかったが、注意して聞いてみると、北朝鮮の支配層を批判する内容であることがわかった。

「北朝鮮人民には60歳以上がほとんどいないのに、幹部達には80歳以上がたくさんいて、平均寿命は年々伸びている」とか「金正日が太れば太るほど国民は飢え死にする」とか「われわれは金王朝による独裁を絶対に許しはしない」といった内容が聞こえてきた。

後で調べてみたところによると、この放送は「自由北朝鮮放送(자유북한방송)」といい、韓国に住む脱北者たちが北朝鮮の悲惨な実態を北朝鮮国民自身に知らせるため、北朝鮮に向けて流しているラジオ放送だという。
杆城は北朝鮮に近い地域であるため、偶然この放送を私のMP3プレイヤーが拾ってくれたということだろう。
そしてノイズがひどい原因は、おそらく北朝鮮が妨害電波を流しているためなのだろう。

私はラジオ放送を聞きながら、国道7号線を南の方に下り、香木里(ヒャンモンニ)の「香牛村(ヒャンウチョン)」という牛肉産地直売店付属の食堂で夕食を食べた(そういえば高城郡では牛を飼っている農家をよく見た)。
そこで店員と少し話をした。

私「私は歴史遺跡を訪ねるために来たんですが、もしかしてこの付近に仙遊潭(ソニュタム)という地名はありませんか?」
店員「仙遊潭なら知ってる。昔神仙が遊んだ所と伝えられている場所だ。」
私「ええ?今でもあるんですか!?どこに有るんです?」
店員「ここから2、3kmほど南に下った所にある。徳恩麺屋(トグンミョノク)という店の近くにある。仙遊潭モーテルの裏にある」

駄目もとで地図に載っていない地名を聞いてみたのだが、知っているという人がいた。
やはり現地の人に対する聞き込み調査は重要なのだと実感した。

その日はもう日が暮れていたので、そこで散策を打ち切り、バスで杆城市街に戻った。杆城のバスターミナルのところにあったPCバン(韓国のインターネットカフェみたいなもの。地方なら大体一時間1000ウォンくらいで利用できる)で久々にインターネットを使って調べ物をした。(この日記を書くための調べ物です)
その後宿に戻って洗濯をして日記を少し書いたが、旅の疲れがたまっていたので、早めに寝ることにした。

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(写真1枚目)霊琴亭から見た海の風景

(写真2枚目)霊琴亭から見た束草灯台

(写真3枚目)束草漁港の様子

(写真4枚目)束草港国際旅客ターミナル

(写真5枚目)フェトッパプ(白いのはイカの刺身)

11月21日 日曜日(1)

この日はまず宿の近くにある灯台に行った。灯台の近くには霊琴亭(ヨングムジョン)というあずまやがあったので、そこにも行ってみた。
それから束草(ソクチョ)灯台に登った。
束草灯台は朝鮮戦争後、北朝鮮の船がしばしばやって来たため、軍事上の目的で1956年に建設したものだという(1957年から稼動)。
ちなみに韓国最初の灯台は1903年に仁川の八尾島(パルミド)という島に作られたものだという。
日本の最初の灯台が1869年完成の観音埼灯台なので、韓国は日本より灯台建設が30年以上遅かったことになる。

灯台を降りて宿に戻る途中、「束草港国際旅客ターミナル」という建物があったので、どこに行く船が有るのだろうと中に入ってみた。
この日は休日のため誰もいなかったが、ターミナルには所々にロシア語が書かれていたことから、ロシア行きの船が出ることは確かそうだ。

その後、食堂でフェトッパプ(刺身と野菜とご飯とコチュジャンを一緒に入れて混ぜ合わせて食べる料理)を食べた。
束草は港町のため、当然刺身を出す店が多いが、日本とは食べ方が違う。

宿に戻って荷物をまとめた後、部屋の鍵を宿の主人(乾物屋の親父さん)に渡して宿をひきはらった。
どこに行こうかと少し考えたものの、束草を出て、北の杆城(高城郡)に行ってみることにした。

杆城(高城郡)と聞いてピンとくる人はほとんどいないだろう。ここは韓国の最北端に有り、朝鮮戦争によって南北に引き裂かれた町である。
朝鮮王朝時代、杆城と高城は南北に並ぶバラバラの行政区域(邑)であった。
それが日本の植民地統治時代である1914年に杆城と高城が合併して、杆城郡となった。
その後1919年に郡庁舎が高城に移され、高城郡と改名された。
独立後は北朝鮮側に入ったものの、朝鮮戦争の結果、北側の高城が北朝鮮、南側の杆城が韓国の領域に入った。
そのため、南北両方に高城郡が存在するという奇妙な状態が生まれた。
現在韓国は「高城郡」という行政区域名を使い続けているものの、高城という町そのものは北朝鮮にあるため、韓国側の郡庁舎は杆城に置かれている。

私は束草の市外バスターミナルでバスに乗って杆城に行った。
杆城は北朝鮮との前線地帯にあたる韓国最北端の都市である。
そのためか町中には軍人が多く、軍用トラックが走っている姿も多く見られた。
この町は前線地帯であるためか、統一展望台を除いてあまり観光客が来ないらしい。
バスターミナルで観光案内用のパンフレットをくれと言ったら、「ありません」と言われた。
じゃあ観光案内所はどこにあるのか?と聞くと、「そういうものもありません」という答えが返ってきた。
後で調べたところ、高城郡内には何ヶ所か観光案内所はあるみたいだったが、少なくとも杆城には無いみたいだ。
とんでもないところに来てしまったかもしれないと考えたが、「まあ、珍しい体験ができたと思えばいい」と気を取り直して、とりあえず本日泊まる宿を探した。

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(写真1)ハン・スンジュンさんの仕事机

(写真2)「漫画家ハン・スンジュンのコーヒー倉庫」の風景。背中を向けている男性がハン・スンジュンさん

(写真3)ハン・スンジュンさんが描いた似顔絵

(写真4)ハン・スンジュンさんの漫画のイラスト

(写真5)夕食のムルフェ。この赤い汁の中にご飯を入れて食べる

(写真6)真ん中のビルが温かいお湯の出ない民泊。一階は乾物屋。

11月20日 土曜日(3)

郷校を出た後、特にあてもなく襄陽の中心市街地に向かって歩き始めた。
時間はすでに5時を過ぎ、西の空に夕焼けが赤く色づいていた。
何気なく道を歩いていると、コーヒーショップがあった。
「漫画家ハン・スンジュンのコーヒー倉庫」という名前のお店だった。
漫画家さんがやっているお店なのか?と不思議に思い、ちょうど温かいコーヒーでも飲みたかったところなので、入ってみることにした。

店に入るとパーマ頭のおじさんがメニューを出してくれた。この人がハン・スンジュン(한승준)さんだった。
メニューは全てコーヒーで、グアテマラ、コロンビアなど六種類か七種類くらいあった。
私はコーヒーにはうといので、ハン・スンジュンさんのオススメを頼むことにした。
「どこから来ました?」と聞かれたので、「日本から来ました」と答えると、ハン・スンジュンさんは驚いたように「ちょっと言葉が不自然な気がしたけど、韓国人かと思いましたよ」と言った。
あまり自覚はなかったけど、韓国語の実力はそれなりにあがっていたのかもしれない。

ハン・スンジュンさんは私に関心を持ってくれたのか、「韓国のどこに住んでます?」から始まって「韓国の女の子と付き合ったことはありますか?」など様々な質問をぶつけてきた。
スンジュンさんの話は多種多様で面白いのだが、早口なうえに次々と話題が変わるので、半分理解するのがやっとだった。
とりあえず理解できた話を箇条書きにしてみると以下のようになる。短い時間内にたくさん話題が変わったことがわかるだろう。

・自分(=ハン・スンジュン氏本人)は1957年に浦項(ポハン)で生まれて、3歳か4歳くらいの頃にソウルに移り住んで40年くらいソウルで暮らしていた。だからほとんどソウル出身のようなもの。ソウル暮らしをやめて地方を転々として、最近襄陽にやって来た。ここに来たのは安く店を開けたから。

・自分は高校2年で学校をやめた。漫画賞に受かったので、漫画家になるためにほとんど家出同然で家を出た。その後数年して家に戻ったが、その間兵役に関する手続きをきちんとやっていなかったために「兵役忌避」扱いとなり、罰として他の人より兵役期間が長くなった。

・漫画家としては、成人向けの劇画や新聞の風刺漫画を描いていた。最近はコーヒーに関する本を書くため(文章なのか漫画なのかは不明)コーヒー店をやっている。12月1日から1ヶ月間、この店で自分が書いた似顔絵漫画の展示会をやる。準備のためにたくさん絵を描かなければいけないので大変。

・自分は日本に興味はあるものの、日本に行ったことはない。中国には仕事のため何度も行ったが、中国人は信用できない。いい人もいるけど、自尊心が高くて根本的に物の考え方が違う。ソウルの街角で酒飲んで騒いでいるのは、韓国人より中国人が多い。(筆者注:「中国人は信用できない」という意見を私はこれまでに複数の韓国人から聞いている。韓国人の中国人に対する不信感は相当根深いものがあるようだ)

・日本人観光客は束草(ソクチョ)や江陵(カンヌン)には来るけど、襄陽(ヤンヤン)には来ない。今日初めて日本人のお客さんに会った。韓国語で日本人と会話したのも今日が初めてだ。

・日本のドラマで親が子供に対して敬語を使うシーンを見たけど、日本では親が子供に対して敬語を使うのか?

・韓国の若者は昔はきちんと目上の人に対しての礼をわきまえていたけど、最近の若者はそうでもない。目上の人を罵ったり、タメ口を使う若者もいる。これはインターネットの普及によるものだと思う。ただし、目上の人たちの方にも非が無いとはいえない。

・襄陽に来ている外国人は西洋系と東南アジア系が多い。西洋系は白人も黒人もいるが、彼等は英語の先生としてやって来ている。東南アジア系はお嫁に来ている人が多いので、ほとんどが女性だ。

・江陵では先月コーヒーフェスティバル(커피축제)が開かれたが、日本にも似たような祭りがあるのか?日本ではコーヒーをよく飲むと聞いているから、あってもおかしくなさそうなものだが。

・自分は漫画家だから、基本的に仕事は夜する。だからコーヒーは必需品なのだが、韓国の粉コーヒー(ミルクと砂糖も一緒に入った甘いやつ)は十杯飲むとお腹の調子が悪くなる。でも原豆コーヒーは十杯飲んでも調子が悪くならない。それを知った時から原豆コーヒーの魅力にとりつかれて、店を開くまでになった。

・日本の帝国大学というのは、何大学のことを言うのか?自分の友人で、日本の帝国大学を卒業してコロッケ屋になった奴がいる。うまいコロッケを作っている。

・韓国の地方はソウルに人を取られて荒廃している。日本も同じような状況だろうが、韓国は特にひどい。政治家たちは「国土の均衡ある発展を」と唱えているが、実際には真剣に考えていない。

・韓国の離婚率は先進国最高だ。最近は結婚するときも両家の親がきちんと顔合わせをした後で結婚するような伝統がすたれている。だから離婚しやすいのだと思う。それから、結婚したら何をそろえなければいけない、というような考えが無くなったため、結婚が手軽にできるようになった。そのために離婚もお手軽にできてしまうのだと思う。

・自分は十年位前に結構年齢の離れた女性と結婚した。最初の子供は流産してしまったが、その後で娘が生まれた。娘は今6歳だ。

・店を開いてみて世の中には色々めずらしい人がいるのだとわかった。以前に店に来た人の中にはソウルからここまで歩いてきた人もいる。これからコーヒーにこめられた人間ドラマのような話を作りたいと考えているので、とても参考になる。

・インターネット上で匿名で他人を批判をすることが韓国では盛んだが、日本ではどうか?韓国では有名人がそのためによく自殺している。自分も昔ネット上で批判された経験があるが、大変だった。

・この店の内装は床の張替えから全部自分の手でやった。そのせいで手がおかしくなって、仕事にも支障が出たこともある。

実際にはこの倍くらいの話をしてくださったのだが、私が理解できなかったのと、記憶できなかったために、このくらいしか復元できなかった。
ハン・スンジュンさんは私が店に来たことを奇縁だと考え、「あなたの似顔絵も描いて展示しますから」と言って、私の顔を写真に撮った。
コーヒー一杯分しか頼んでいないのに、パンを食べさせてくれたり、コーヒーをもう一杯サービスしてくれたりと、歓待を受けてしまった。

しばらくおしゃべりをしていたところ、ハン・スンジュンさんの奥さんと娘さんが店にやって来たので、奥さんに私とハン・スンジュンさんのツーショットを撮ってもらった。
娘さんはそれを見て、「わたしもとる〜」と言って、携帯電話で写真を撮ってくれた。(でも娘さんは写真の保存の仕方を知らなかったため、撮った写真はすぐに消えてしまったようだ)
奥さんと娘さんも加えてしばし楽しい歓談の時間を過ごしたが、私も束草の宿に帰らなければいけない身なので、あまり長居するわけにもいかない。

「それではお元気で」と言って店を出た。
不思議な出会いもあるものだ、と思うと、私の顔から自然に笑みがこぼれた。
奇妙な偶然によって予想もしなかった収穫がある。だから旅は面白いのだ、と思う。
束草に向かうバスの中で、ソウルに戻ったらハン・スンジュンさんにお礼のメールを送らなければいけないな、と思った。

その日の夕食は宿の主人の推薦してくれたお店で「ムルフェ(물회)」という料理を食べた。刺身と野菜が入った赤くて辛いつゆの中に、ご飯を入れて食べるという不思議な料理である。
それを食べていたら、食堂の主人が「結婚記念日のお客さんからもらったんだけど、良かったら食べる?」と言って、ケーキを切って分けてくれた。
またもや奇妙な偶然だった。
シャワーが無いせいで苦労したとしても、私が旅をやめられないのは、時たまこういう偶然に出会うからなのだろう。

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(写真1枚目)郷校に行く途中に撮った民家の屋根。韓国の民家の屋根は青や緑や朱色などあざやかな色で塗られているものが多い。屋根の上で柿を干しているようだ。

(写真2枚目)郷校の入り口にあった「襄陽郷校」とかかれた石碑。その隣の小さな石碑が下馬碑。「大小人員下馬碑」と書かれていた。どれくらい古いものかは不明。

(写真3枚目)襄陽郷校。赤い鳥居みたいなのはホンサル門。郷校や廟、王墓などの入り口に立てる。この風景を見て、何となく日本の神社を連想した人、挙手!

(写真4枚目)襄陽郷校の明倫堂。明倫堂は学生が講義を受ける建物。ここの郷校では明倫堂の下が通り抜けられるようになっており、大成殿に向かう門の役割を果たしている。

(写真5枚目)大成殿の前の門。私が行った時には閉まっており、大成殿を見ることはできなかった。大成殿は孔子を祀る建物であり、一種の宗教施設であるため、観覧するためには許可が必要なのだろう。

11月20日 土曜日(2)

洛山寺を見終わった後、さらに南下して襄陽(ヤンヤン)の市街地に行くことにした。襄陽は朝鮮時代(1392〜1910年)には関東の重要な都市であり、それなりに有名な歴史的遺物が残っていそうなのだけど、何があるのか知らない。
まあ、現地に行けばそれなりに何かあるだろうと、何も考えずにバスに乗り込んで襄陽の市街地に行くことにした。

バスの中から襄陽の市街地をぼんやりながめているうちにいつの間にか繁華街を通り抜け、明らかに町外れの方にバスは向かっている。
しまった、降り遅れたかと思ってあわててバスを降りる。
襄陽は私が想像していたよりも小さな町のようで、繁華街といえる場所はそんなに大きくなかった。
降りた停留所はソムン里(서문리)という所で、漢字ではおそらく「西門里」と書くのだろう。いかにも邑城の西門が有ったような場所である。
邑城といわれてもこのブログを読んでくださっているほとんどの方には何のことだかわからないと思うので、(何を今さらではあるが)少しだけ説明する。

韓国(北朝鮮を含む)の地方都市はほとんどが朝鮮時代以来の邑を基礎としている。
邑は朝鮮語では「コウル(고을)」といい、日本の市町村のような地方行政区域である。(朝鮮時代には邑には、都護府、郡、縣などのランクがあった。なお、「コウル」という朝鮮語と日本語の「こおり(郡)」は語源が同じであるといわれている)
朝鮮時代には全国は300以上の邑に分けられ、邑ごとに地方官が派遣され、その邑の行政を行なった。
大抵の邑ではその邑の中心区域が城壁で囲まれており、その城壁で囲まれたところを「邑城」といった。
今はほとんどの邑城は壊されて無くなってしまっているが(私の記憶が確かなら高敞と楽安には残っていたはず)、地名にその名残が見られることもある。たとえば、市街地が「邑内(ウムネ)」という地名ならば、そこはかつて邑城の内部だったと推測できる。
 
あれ、何でこんなことを書いてるんだっけ?
そうそう、襄陽でソムン里という停留所で降りて、そこが襄陽都護府の西門があった所じゃないかと推測したという話だったね。
今回の旅行は関東地方の歴史遺跡を回る旅なので、いきおい歴史の話題が多くなるだろうけど、勘弁してね。
バスから降りた私は、さてどこに行こうかと考え、観光案内所でもらったパンフレットをながめた。
「めぼしい遺跡は無さそうだぞ。困ったなあ・・・」とため息をもらしていたら、パンフレットの地図にさりげなく「襄陽郷校」という文字が見えた。

ええ!マジで?
襄陽って郷校が残ってたの?

「郷校」という言葉を見て、私の胸は高鳴ったわけだが、「郷校」についても少し説明が必要だろう。
「郷校(ヒャンギョ)」とは、各邑ごとに設置された国立の儒学教育機関であり、高麗時代(918年〜1392年)から朝鮮時代(1392年〜1910年)にかけて政府によって運営された。
朝鮮王朝滅亡以後は国立教育機関としての機能を失ったが、その地方ごとの儒者たちが保護・管理してきたおかげで、韓国には今でもかなりの数の郷校が残っている。
大抵邑の中心部にあるので、観光するにも便利。韓国の地方都市に旅行に行かれることがあったら、一度見ていかれたらどうですか?(繁華街周辺に「校洞(キョドン)」なんて地名があったら、昔郷校があった場所だと推測できます)

幸いなことに、私が下車したソムン里から襄陽郷校までは遠くない。十分歩いて行ける距離なので、行ってみることにした。
郷校まで行く道はどこにでもありそうな韓国の農村といった感じの風景で、あちこちに植わっている柿の木にはよく熟したおいしそうな柿が実っていた。
一つくらいもいで行きたい気分だったが、万一つかまりでもして、「日本人留学生、柿窃盗で逮捕」なんて記事が新聞に載ったりしたら嫌なので、やめておくことにした。
襄陽郷校は観光客がまず来なさそうな農村の丘の斜面にあった。
「こういう丘には日本だったら神社がありそうだなあ」なんて思ってみたが、たしかにそこは日本の神社に似ているような気がした。

郷校の外にある「下馬碑」は狛犬みたいなもので、郷校の石段の下にあるホンサル門は鳥居みたいで、明倫堂(学生が講義を受ける建物)と大成殿(孔子を祀る建物)はそれぞれ神社の拝殿(参拝者が拝んだり賽銭を入れたりする前の建物)と本殿(拝殿の後ろにつながっている奥の建物)みたいなものなのかなあ、なんてどうでもいいことを考えていた。

襄陽の郷校はそもそも14世紀に安軸(アン・チュク)という人物が地方官としてやって来た時に建てたのが最初であり、その後何度か移転を繰り返し、最終的に今の場所に落ち着いたものらしい。
現在の建物は1950年に朝鮮戦争で焼けたものを地元の儒者たちの手で再建したものだという。
郷校に入ってみると、「儒道会襄陽郡支部」とか「伝統的家族制護持」なんて書いてあって(もちろんハングルではなく漢字で)面食らった。
韓国ではやはりまだ儒教は健在なのだと思った。

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(写真1)洛山寺(ナクサンサ)の一柱門
(写真2)2005年に焼失した洛山寺の状態を復元したもの。楼閣の石の基壇だけが残り、鐘が焼け爛れている。
(写真3)洛山寺の虹霓門(ホンエムン)。アーチの13個×2=26個は江原道の26邑から一つずつ集めたものという。
(写真4)海から見た洛山寺。この丘が五峰山だ
(写真5)洛山寺の本殿。この塔は高麗時代のもの

11月20日 土曜日(1)

前日は束草に着いて、宿を見つけて、夕食をすませて寝ただけだったので、この日から実質的に旅行の始まりとなる。
朝、前日に買っておいたパンを食べながら、どこに行こうか計画を練る。
テレビを点けたら「成均館スキャンダル」という、女性が男装して成均館(韓国の昔の最高学府。科挙に合格するための儒学教育を行なったところ)に通うという内容の時代劇がやっていた。それを横目で見ながら、計画を立てる。

結局、この日は束草観光ではなく、南の襄陽(ヤンヤン)に行くことにした。
荷物をまとめてチョヌ荘を出る。シャワーのお湯がぬるいとか部屋ごとに浄水器がついていないとかの不満点はあったものの、施設はそんなに悪くなかったため、もう一泊しても良かったのだけど、他の宿についても知りたかったので、結局宿を出ることにした。

襄陽に行く前に束草内で新たな宿を探すことにした。灯台の近くが面白そうだったのでその近くで宿を探そうとしたのだが、観光地価格のためか高めだった。(ちょっと良さげなモーテルで、最安値の部屋が5万ウォンだったのは驚いた)

部屋を探していると、乾物屋の親父さんが「部屋があるよ」と声をかけてきた。今思えば、これについて行ったのが間違いだったのだろう(ちなみにこの宿はモーテルではなくて民泊だった。民泊は日本の民宿のようなものと考えてもらいたい)。
部屋を見せてもらったが、それなりの広さで3万ウォンだという。悪くないなと思って、ちょっとまけてもらって2万7千ウォンでそこに泊まることにした。
オンドルはきちんと利くし、部屋の照明も暗くはなかったのだが、一つだけ致命的な欠陥があった。それはシャワーのお湯が出ないこと。

韓国の宿の中にはお湯が出ないところも多い。
私が2002年に初めて韓国で一人旅をしたときも、宿のお湯が出なくてずいぶん苦労した経験がある(その時は2月だった)。
それ以降、安宿に入るときはお湯が出るかどうかを必ず確認するようにしていたのだが、最近きちんとお湯が出る宿ばかりに泊まっていたせいで今回は確認を怠った。その油断の結果がこのざまだ。

今、シャワーを浴びることができなかった恨(ハン:欲求不満に近い精神状態をいう)を抱えながらこの文章を書いている(この文章は2010年11月20日の夜に書いたものです)。
昼間それなりに汗をかいたせいで、頭や体がかゆい。風呂に入りたくて体がうずうずしている。
夏なら水でも浴びていればいいが、冬に暖かいシャワーを浴びれないのは致命的である。
しかもこの宿は浄水器がそもそも無いため、お湯を飲むこともできない。
寒空の中から部屋に戻ってきた身としては不便で仕方が無い。
・・・宿の主人は気のいい人だったんだけどねえ。 
 
このまま宿の不満を書き続けてもしょうがないので、この話は一旦ここで強制終了することにする。
旅行の話に戻ろう。
関東に来て一番驚いたことはソウルに比べてずいぶん暖かいことだ。
「西海岸より東海岸の方が暖かい」ということは知識としては知っていたが、実際に体感してみると、新鮮な驚きだった。

民泊の部屋に荷物を置いた私は、東海岸の暖かさを楽しみつつ、襄陽に行くバス停を探した。
あんまり暖かいので外でアイスクリームを食べながら(本当にそれくらい暖かく感じたんです。ソウルから来た身としては)、襄陽行きのバスを待った。
襄陽でまず向かった観光地は洛山寺(ナクサンサ)だ。

洛山寺は日本海(韓国名:東海)の海辺ぎりぎりのところにある五峰山という山の上に建てられた華厳宗のお寺である。7世紀ごろに新羅の僧義相が創建したと伝えられている。
15世紀に朝鮮王朝7代目の世祖によって改修され、規模が拡大されたという。(朝鮮王朝は仏教を弾圧したと一般的に言われているが、王室が仏教を保護した例はたくさんあり、仏教を弾圧したという通説は本当なのか疑わしくなるときもある)

しかし2005年に起こった山火事によって、主要な建物の大部分が焼けてしまい、現在見ることができるのはその後に復元されたものだという。
この寺の感想を一言でまとめると、とても感じのいいお寺であったということ。
門楼の下が休憩所になっていて無料でコーヒーが飲めるようになっていたり、海の見える絶壁の上に喫茶所が有ったりと、参拝者の便宜をはかろうと努力している姿がうかがえた。

『新増東国輿地勝覧(しんぞうとうごくよちしょうらん)』という書物によると、この洛山寺には観音窟と呼ばれる洞穴があったそうな。
ここは昔から観音菩薩の住処として信仰されていた場所で、朝鮮王朝の太祖李成桂(イ・ソンゲ)の四代前のじいさんがここで子供ができることを祈ったという。(その結果生まれた子供が李成桂のひいじいさんというわけだ。つまりこの寺の観音窟が無ければ、李成桂は生まれていなかったというわけ。・・・もちろんただの伝説ですけどね)

ちなみに、『新増東国輿地勝覧』とは、16世紀に作られた官撰の地理書でして、その前の15世紀に作られた『東国輿地勝覧』をバージョンアップしたものです。『東国輿地勝覧』は無くなってしまったのですが、『新増東国輿地勝覧』は全部残っているので、韓国の昔の地理を知るためには必須の史料なのです。

そのいわくつきの洞穴を探して寺の中をウロウロしてみたのだけど(他の参拝客から見れば不審人物だったと思う)、結局見つけられなかった。一体どこにあるのだろう?
(追記:後で調べてみたところによりますと、洛山寺の中にある紅蓮庵という建物の下の岸壁にあったそうです。気付かなかった・・・)

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