堅い話(小難しい話とも言う)

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基本的には皮肉屋なので,世事に対する批判や中傷などを,自己中心的に述べております・・・。否定・反論がある方,心の中で叫んで戴けると本人は傷つかずにすみます・・・( ̄▽ ̄)(←この論点がすでに自己中(−−メ )
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 今更こんな記事で恐縮ですが(^^;









 2016年開催のオリンピックの候補地に東京が立候補しているのは,みなさんご承知の通り。

 こういう「オリンピック招致合戦」って,毎回繰り広げられていますが。
(以前,大阪も立候補していましたね。)








 この話を聞く度に,思うことがあります。

 それは,「結局,お金をかけたところが有利なんだろうなぁ。」ということ。



 立候補したところは,盛んにIOCにアピールをしますよね。
 自分のところは安全に開催できる。自分のところで開催すれば,これだけのメリットがある。などなど・・・。






 要は,それだけ自分のところに既に揃っているものがある,ということをアピールするわけですね。

 逆に言えば,何もないところは立候補することすらできないわけです。









 オリンピックはスポーツの祭典。
 平和の象徴。
 政治の思惑に預からないところにある。





 なんて言いながら,最近の様子を見ると,どうしても政治的意志が絡んでいるし,災いを招いているような場面も多々見られたりします。
 メダルを獲ることが(言い方を変えると,他国に勝つことが),最優先にされ,本来の意味が失われてきているような。そのために,政府が懸賞金を出したり。
 テロリストに一般常識は通じないとは思いますが・・・。(自分達が正義だと思っていますし,彼らにとっては,そんな遊び事よりもっと大事なものがあるのでしょう。)











 もっと,平和的に,中立的に開催できないものだろうか?と思います。

 いえ,もっと言えば,せっかくの「平和の祭典」を,世界平和に役立てないか,と思っています。





 たとえば,発展途上国(という言い方は最早失礼なのかもしれませんが・・・)のどこかに開催地を決め,参加する国々がお金を出し合って開催施設を建設する。収益は,お金を出し合った国で配分し,一部は開催地に落とす。
 開催後は,残されたインフラとお金を利用して,開催地となった国が発展の一助としていく。







 言うのは簡単だということはわかりますし,お金が絡むことに多くの国が協力して当たれるか,という不安はありますが,やろうとすれば不可能ではないと思います。
 問題は,その方法を模索しようとする意思を統一できるか,ではないかと思います。











 今の世界のあり方を考えた時,一番の問題はやはり先進国と発展途上国の格差だと思います。
 先進国が今まで散々甘い汁を吸ってきた上で,今まさに発展してきている国が,やれ地球温暖化がどうだとか言われて発展を抑えられても,納得できるはずがありません。
 だからと言って,無条件で先進国が発展途上国に資金援助と言っても,なかなかうまくはいかないでしょう。(ODAというのもありますが,それだけでは追いついていないのも現状でしょう。)





 なので,せっかく各国が注目する世界的イベントが4年に1回も開催されているのですから,これを利用しない手はないのではないかと思うのですが・・・。












 名の知れた大都市が,莫大な宣伝費を使って,生じる利益のために招致しようとする動きを見ると,いつもこんなことを考えてしまいます。
 甘い考えだとは重々承知しているのですが・・・(^^;




 みなさんは,どうお考えでしょうか?

赤ちゃんポスト?!

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 さっき,テレビを回していたら,目に留まりました。

 途中からだったので,半分も判っていませんが。

 ドイツで実施している制度で,親が赤ちゃんを育てられなくなったとき,緊急避難的に手放して,病院に預ける制度らしいです。












 国会議員が十何人か出て,討論しています。

 こういう番組(議員が複数出る番組)を見る度に思うのですが。



 この人たちは,ほんとに国を良くしようという気があるのか?

 自分の意見を言うことだけに終始し,相手の言葉を遮り,場合によっては怒鳴り声をあげる。

 まるで,子どものけんかを見ているよう。

 見る度に,イライラしてしまいます(−−メ
(見なきゃいいんですが,一応,そういう情報も知っておきたいとも思うので。良い事を言うときもありますしね。気持ちがこもっているかどうかはわかり

ませんが。)


 自分の考えを主張する場所としてしか捉えてないのでしょう。(だから出演するんでしょうけれど。)
 私にとっては,逆効果ですね。
 人の意見を聞こうともしない,相手をやり込めることしか考えてない議員には,何の魅力も感じませんし,そんな議員に税金が払われていると思うと,腹

立たしく思えてきさえします。


 愛国心を子どもたちに持たせるべき,ということで,教育基本法が改正されましたが,その前に,その法律を作った国会議員たちがまず愛国心を持つべき

だと思います。
 衆議院480人全員が真っ当な愛国心を持っていれば,絶対にもっと有効な手立てが打てるはず。
 頭の良い方々なのですから。
 そのために,選ばれた方々なのですから。















 で,赤ちゃんポストの話ですが。

 どうやら,熊本の病院の方が,実際にドイツに視察に行って取り入れて厚生労働省に認可申請を申し出たものらしいです。


 赤ちゃんをポストに入れて,親は立ち去り,それを病院が後から受け取る,という感じみたいですが。






 どうでしょう?




 私はまず始めに,そこまで行ったら世も末だな,と思いました。

 確かに,今目の前の赤ちゃんのことを第一に考えれば,まずは命の保護,と考えられなくもない。

 しかし,その方法が,ポスト,という形でいいのか?






 親は,自分は赤ちゃんを育てられません,っていうことを誰にも言うことなく,責任を放棄するわけですよね。

 その親にとっては,捨てるのと同じじゃないですか?

 それを,許すことになるような気がします。








 何か,命が大事,ということばかりに目をとられて,失くしていっているものがある気がします。
 
 命が大事ではない,というわけではありません。



 もっと,大きな視点も同時進行で持たないといけないのですが,その視点は誰が持っているのでしょうか?

 その視点を最低限持つべき国会議員たちまで,保身のために朝令暮改や喧々囂々(けんけんごうごう)のやり取りのみに終始してしまっている今の社会。


 目の前のことに右往左往するだけで,その場しのぎでやってきたツケがたまってきている感がぬぐえません。









 ポストなど作らなくても,もっと有効で人間的な方法が必ずあるはず。

 それを,ドイツで成果が上がっている方法だからと言って,たいして考えもせずにマネするだけでいいのでしょうか?
(この場合の成果とは,赤ちゃんを虐待から救えている,赤ちゃんの命を救えている,という意味でしょうか。)




 これだけ豊かな国で,教育が行き届いた国で,赤ちゃんをポストに捨てさせるしか,命を救う方法が考えられないとしたら,何のための文明なのでしょう

か?



 文明の根幹は,考えること,だと思います。
 少しでも,便利に,豊かに暮らすことを夢見て。

 確かに物質的には豊かに便利になりました。
 物質的に満たすことは簡単。モノを作ればいい。

 今度は,心の豊かさを求めるとき。
 言ってみれば,今が原始時代みたいなもの。
 ここから,「心の豊かさを満たす文明」を築いていかなければいけない,と思うのです。





 本来なら,その先陣を切っていかないといけないのが,霞ヶ関にいる方々でしょう。

 しかし,それは無理なのかもしれません。

 彼らは,既存のものを利用する術には長けていますが(その訓練を子どもの頃から叩き込まれているでしょうし。),全くの無から何かを生み出す訓練ま

では受けていないでしょうから。





 だから,国民一人一人がもっと声を出していく必要があるのではないでしょうか。

 地域や町,市レベルでもいいから,知恵を出し合っていくこと。
(そのための大事な軍資金が,無能な議員に流れていることは,ほんとに腹立たしい限りです(−−メ )



 自民党という名の独裁者が,強引に法律を作っているだけの社会システムをほおっておいて,良い方向に行くはずもないと思います。
 

 もっと真剣に,長期的なビジョンを持って国を運営していかないと,悪くなりこそすれ,良い方向に持っていくなど不可能ではないか,と危惧します。


 一体,霞ヶ関のうちの何人が,そういうビジョンを持っているのでしょうか。









 生まれてきた赤ちゃんに,胸を張ってようこそ!って言える社会にしたいですよね。







 ・・・相変わらず,文章力ないなぁ(_ _;

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 いつも何かに不満を持っている人。人に文句ばかり言う人。
 あれって,どういう神経なのかを考えてみました。




 ひとくくりにはできないとは思いますが。


 人は意外なほど,現状に慣れるのが速い。それが心地よいものであればあるほど。
 現状に満足するだけですめばいいのですが,それに慣れてくると,少しずつ不満な部分が見えてくる。
 もう少し,ここが何とかなれば。もう少し,ここを何とかしてくれれば。
 慣れることで生じる退屈さが,新しい刺激を求めるのかもしれません。

 自分でも気づかないほど,少しずつ贅沢になっていく。
気づいた時には,最初の状況から見るとかなり贅沢になっているはずです。




 最初は三食食べられればいいと思っていたのに,いつの間にか三食違うものを食べ,しかも味がよくないと満足できなくなる。
 最初は雨露が凌げればいいと思っていたのに,いつの間にか暑かったり寒かったりすると我慢できなくなる。
 最初は顔が見られるだけでいいと思っていた人に,いつの間にかいつも一緒にいてくれないと満足できなくなる。





 もちろん,その欲望が文明を推し進める原動力になったのは評価できます。それが,何かを創造する力に繋がれば。
 しかし,それが私利私欲を満たす方向だけに進めば。





 今まで,1しか持ってなかったとすれば,3もあればとても贅沢。
 しかし,一度でも10を知ってしまえば,5でも不満。




 一度覚えた贅沢は,簡単には忘れられません。
 しかも,今は,情報化社会と言われるように,知識だけならどれだけでも手に入ります。
 100や1000などの,とても手に届かないような贅沢まで,知ることならできるわけです。

 そんな知識を持ってしまった頭で自分の現状を鑑みて,どう思うでしょうか。

 たいていの人は,不満を感じるのではないでしょうか。
(もちろん,ほとんどの人は,それでも一所懸命自分を生きているわけですが。)




 格差社会と言われますが,資本主義と民主主義を基本としてきた日本なら,こうなるのは当たり前です。もともと資本主義の原理には,「弱肉強食」の精神が内包されているのですから。
 今更,騒ぎ立てる方がおかしいというもの。
 これをどうにかしろ,と政府に言うのなら,日本は社会主義を採らなければいけない。
 もちろん,税金をとっている以上,やらなければいけないことはあると思いますが。


・・・話がそれました。




 問題は,その不満を自分の中でどこまでコントロールできるか,だと思います。
 自分の力を知り,自分の生活を振り返り,ここまでが今の自分に得られるもの,と自分を納得させられるか。




 「身の程を知れ」と言う言葉があります。この精神が大事だと思うのです。


ただし,この言葉はいつだって自分のためにしか使えません。
 人に使えば人権問題になりかねませんし,言われた方は反発心しか抱きません。無用な衝突が起こるだけです。



 そして,もう一つ。
 いつも,原点を忘れないこと。
 はじめは,1しか知らなかった。いつの間にか,100を知ってしまった。
 そこで,50で我慢できるか。
 それを為すためには,1しか知らなかったころの気持ちを忘れないこと。


 もちろん,それまでに築いてきたものもあるでしょう。
 それでも,置かれた状態に心を「合わせる」こと。
 これができなければ,一生不幸なままだと思うのです。


 人との関係であれば,1しかしてくれなかったことが,いつの間にか100もしてくれるようになった。
 それが50になったとき,その人に不満を抱くのか。
 最初の状態に比べれば,それでも49も余計にしてくれているわけですよね。
 そこに,「ありがとう」という気持ちを感じられるか。




 このコントロールができるかできないか,で,人は大きく変わるような気がします。




 「身の程を知る」こと。
 常に謙虚な気持ちを持つこと。

 そして,これを自発的にできること。



 これができれば,不満もかなり減るのではないでしょうか。

(「身の程を知る」ことと,現状に満足してしまうこととは別だということは気づいてほしいなと思います。常に何かを求めることは,人間に必要なことですから。)






 ありていに言えば,

  欲は必要だが,欲に溺れてはいけない。

というところでしょうか。






 うまく,伝わったかなぁ。
 みなさん,どう考えますか?

罪と恥

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 よく,西洋は罪の文化,東洋(日本)は恥の文化と言われたりします。
 犯罪に対して,西洋は罪を課すことで押さえ込もうとし,日本ではそれを恥とすることで押さえ込もうとする。






 簡単に言えば,西洋では外圧によって犯罪を抑制しようとし,日本は個々の内面からそれを抑制しようとするということです。


 罰を受けるから悪いことをしない。
 自分が許せなくなるから,悪いことをしない。

 言い方を変えれば,罰を受けることがなければ何しても構わない,と,罰を受けることがなくても自分がしてはいけないと思えばやらない,という差です。




 「罪の意識」と,「恥の意識」。





 今の世の中,前者だけで暮らしてる人が多くなってきている気がします。
 これが問題なんですね。

 
 罰を与えるためには,法律を作る必要があります。特に日本の場合は「罪刑法定主義」をとっており,法律にないことは罰することができません。
 ですから,法律になりにくい「道徳的なこと」は罪を問いにくいということになります。





 例えば,「それはみんなの迷惑になるからやめて」と言ったとします。
 言われた側が「罪の意識」しかなければ「それが,何かの罪になるのか?」という答えしか返ってこないでしょう。
 これは極端な例えですが,これと同じようなことは,大なり小なり身近で起こっているでしょう。





 さらに,基本的人権が憲法で保障されているから,話はさらにややこしくなります。(悪いと言ってるわけではないんですよ)

 中途半端に知識を得た人は,これを振り回します。
 それが,「罪の意識」しかない人だったら,とてもタチが悪くなってしまいます。

 自分の権利ばかり主張し,他人のことは全く構わない。



 しかし,人権の保障には大きな義務があるのです。

 それは,「公共の福祉に反しない限り」という但し書きです。

 つまり,みんなが幸せに暮らすことを害することには人権は保障されないのです。
 では,どこまですれば害したことになるのか?

 それがはっきりしないから,とりあえず人権の保障を優先させてしまっているのだと思います。(はっきり明文化することができない限り使えない憲法を,日本は持っているのです。いや,せっかくの憲法を,そういう使い方しかしていないのです。ほんとにもったいない使い方です。今の政治家のお歴々は,そういうことに頭を回さずに,憲法が悪いと言って変えようとする。憲法が悪いという前に,自分の頭が悪いとは考えないのでしょうか?(←書いてるうちに,腹が立ってきた(−−メ ) 日本の国を動かしていこうというくらいの人ですから,それくらいの謙虚さは持ち合わせてほしいと思います。)









 ・・・何か,話がとりとめもなくなってきたので,戻しますm(_ _)m

 要は,「罪の意識」だけで,みんなが幸せな社会を作るのは難しいということを言いたかったのです。

 では,どうするか?

 結論から言えば,「恥の意識」をみんなが持つことが一番だと思います。



 恥=自律につながります。







 日本が持っていた恥の文化は,「武士道」から来ているものです。
 近年,この「武士道」が海外で注目を集めているそうです。

 己に恥ずべきところがあれば,命を絶ってでもそれを雪(すす)ごうとする。(もちろん,極端な例ですが)
 その精神が尊いのだと思います。




 この「恥」という概念,ともすれば,世間体がうんぬんと言う話になりがちですが,それとは全く違うものです。
 世間に対して抱く恥は,「罪」に近いものです。みんなから後ろ指をさされるという「罰」が怖いからなのです。それが,恥ずかしいからなのです。自分に対して恥ずかしいわけではありません。




 日本人は,昔からこういう「自分に対して恥ずかしい」という自己抑制の概念を持っていたのです。
 しかし,これも以前に記事にした「徳は教えられるか」と同じで,わが子にも伝えていくことは困難です。

 一旦,この概念を形成することができれば,自律できる人間に育っていくでしょう。



 しかし,最近では,これを伝えようとする人自体が減ってきているのかもしれません。(もしくは,伝えることが出来る人が減ってきているのかも)

 最近のモラルの無さを見ると,そう思えてなりません。


 しかも,それに対する対策が「罪」の強化では,あまりに芸がないというか,むなしいと思ってしまいます。







 もちろん,昔の日本の社会が100%良かったわけではありません。
 むしろ,差別が横行していて,権利も制限された閉鎖的な社会だったと思います。日本人の「恥」の概念も,そんな社会だから形成できたのかもしれません。(武士は,他の人々より上の身分だった分,手本となるような生き方をしなければならない,と自らを律していたとも言いますし。)
 だから,平等な社会になったときに,「恥」の概念もセットで消え去ってしまったのかもしれません。




 だとすれば,今度は,今の社会の中で,その概念をどう根付かせていくか(モラルを向上させる方法であれば,「恥」の概念でなくても構わないのですが)を考えていかなければいけないのではないでしょうか。

 それは,政府の後押しが必要なことだとは思いますが,今の政府にそのような期待は全く抱けません。(既得権益の確保に終始しているだけの人の集まりになっていますから。←やっぱり怒りモード)

 やはり,小さな集団(地域とか)から,または一人一人から,動いていかないといけないのかなぁ,と思います。







 個人的には,今の日本に閉塞感を感じていますけれど(−−;






 かなり長くなってしまいましたが(しかも,よくわからない説明(_ _; ),ここまで読んでくださった皆さん,どう思いますか?
(いつものことですが,文章にしたものを後から読み返すと,自分の考えがうまく表現できてないというか,表現しきれてない気がします・・・(←そんなものを記事にするなよ))

 これは,大学に在籍していたとき(と言っても,8年くらい前),「道徳教育の研究」という講義で出されたレポートの課題です。
 私は,「教えられない」と答えました。


 仁徳者の子どもが仁徳者になるとは限りません。
 なぜか?
 徳のある人は,常に置かれた状況の中で,自分が他人に対して最善だと思うことを行っていきますよね。
 常に,置かれた状況を分析して,また,相手の気持ちを汲み取って,考えて,自分の行動を決めるわけです。ですから,同じような場面でも,ちょっとした違いで,全く違った行動を採ることも十分ありえるわけです。
 そう言った,細かいことまですべて,教え切れるはずがありませんよね。


 教えられることは,抽象的なことがらになってしまいます。
 「相手の気持ちを常に考えなさい。」
 「よく考えて行動しなさい。」
 「自分に恥ずかしくない行動を採りなさい。」

などなど。
 それを,受け取った側(受信側)は,自分なりに解釈します。
 一旦,抽象的な言葉として変換されて伝わってしまったため,送信側の意図が全て伝わることはあり得ないでしょう。
 あとは,受信側が自分で考え,場合によっては送信側の行動を見ながら,自分なりの徳を構成していくしかないのです。
 もちろん,それが個性になっていくわけですが。



 一番重要なことは,やはり受信側の気持ちだと思うのです。
 受信側が,受け取る気持ちがなければ,いくら送信側が教えても伝わるはずがない。(例えは悪いですが,「馬を水のみ場まで連れていくことはできるが,馬に水を飲ませることはできない」ということわざがありますよね。)

 今の学校教育でも同じことだと思うのです。
 道徳教育に限りませんが,要は,子どもたちをどれだけ学ぼうとする気持ちにさせるか,だと思います。
学び方も学ぶ必要があるでしょう。どうやったら,効率よく学べるのかを知ること。

 知識だけ教え込んでも,応用の利かない役立たずのものにしかなりません。
 それよりも,自分が興味を持ったときに,学び続けられる意思を持つこと,そのための技術なんかの方が,数倍大事だと思います。





 徳の話から随分それてしまった気がしますが,徳そのもの(知識も同じ)を教えるのではなく,それを受け入れる下地を作ることが大事なのではないか,と思うのです。



(今思い出しました。聞いた話ですが,「知識や技術は,それだけでは良くも悪くもない。使う人の心持ち一つで,良くも悪くもなる。」のです。ダイナマイトとか,飛行機なんかを思い浮かべると,それがよくわかります。何にしても,人間の心持ち次第なんですね。)





 ・・・何か,読み返してみると,言いたいことがうまく伝わってない気がする・・・(――; つくづく伝えるのが下手だな(><)

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