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前回は歴史の中の2・26事件を俯瞰的に捉え、大まかな流れと、昭和維新に対する
戦後史観の払拭を促す説明をした。
そういった背景から沸き起こった「昭和維新」「国体明徴運動」「国家改造」の
プランを下記2項目4種類に分類してみたい。
第1は国家改造のための手段
1,首都占領によって政治機能を停止させ、自らの望む政権を樹立する。
2.君側の奸を排除し、自分達の望むリーダーをして政権を樹立せしむ。
第2は行動の主体
a.陸軍の兵力を動員する
b.個々の有志の結合によるグループで行動する。
思い当たる幾つかの事件を例にとると、
3月事件、10月事件 : 1-b(1-aを意図して失敗)
浜口首相狙撃事件、5・15事件等 : 2-b
2・26事件 : 2-a(1-aを意図して失敗)
終戦前日の近衛師団による宮城占拠事件 : 1-a
作家、三島由紀夫の東部方面総監部に
於けるクーデター勧誘事件 : 1-b(1-aを意図して失敗)
一般にテロは2-bである。有志による団結は硬いものの絶対数が少ない。
一方、昭和維新の意図は1-aであった。成功した明治維新には統一された国軍が存在しなかったため、
薩長軍と呼ばれたが、戊辰戦争にあっては官軍であることを示すため、
錦の御旗を押し立てて進んだ。
3月事件、10月事件は1-bである。戦後史観ではこれらも軍閥の陰謀、
とされるが、調子のいい中堅参謀連中が、芸者遊びの最中エエカッコして志士を気取ったような話、
そんなものに少しでも色気を見せる皇道派の将官が、本気で国家改造など考えていたとは思えない。
この時本気の変革を考えていたのは関東軍である。
1万人程の関東軍で、満洲の軍閥張学良軍20万人を蹴散らし、元の満洲族の頭領の末裔にして
最後の清朝皇帝である溥儀をトップに据えた。
政権樹立を目的とすると、1-aの成功サンプルかもしれない
余談だが今中共は満洲皇帝を偽帝と貶める。
しかし清朝は満州族によって漢、蒙、新疆、西蔵を征服された王朝である。
その王朝を転覆したからと言ってその版図を継承するのは征服者の交代、という意味である。
最近は西蔵や新疆の独立運動に同情する意見も多いが、
満州国の正統性が再評価されるにはもう少し時間が掛かるのであろうか。
さて、この満州事変の発端は柳条湖事件、「作戦の神様」石原莞爾中佐の青写真に沿って
実行された。東京の混乱振りに比して関東軍の手際の良さは際立っていた。
逆に言えば東京が混乱していたからこそこれだけのことができたのである。
東京の「不拡大方針」を現地が聞かない、という事態の原因はここにある。
この事実は、混乱した政局を打破してくれるのは軍人である!と国民に意識させることとなった。
鮮やかな手腕によって成立した満州国は失業者、凶作にあえぐ貧農を吸収し、
新国家建設に向かう莫大な需要を生み出した。日本が世界恐慌をいち早く脱したのはこのためだし、
私は戦後の高度成長の起点は満州事変にある、と考えている。
その一方、この事実は彼らが評価されればされるほど、軍人の独断専行は許される、
と軍人達に思い込ませる結果となった。
石原自身、盧溝橋事件の折には東京にあり、暴走する現地軍を止められなかった。
「閣下がしたことをしているまで」とまで言われた。彼はやはり免官されているべきではなかったか?
かくして国民の期待を集めた軍人は、優柔不断な東京の国家改造をも考えるようになる。
このうち半分は成功する。巷間既に定着している1940年体制である。
私が「戦後の高度成長の起点は満州事変にある」と述べたのはこのことで、
日本はこの体制の下で31年から2・26事件までの混乱、日支事変、大東亜戦争の敗戦をへて、
実に70年代まで、ずっと右肩上がりの成長を続けたのである。
占領軍ですらこの機構は温存した。
この人々の中心はおそらく永田鉄山であろう。永田鉄山とは
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と称された帝国陸軍きっての逸材。
だが彼もまた後述する「もう一方の改造者」によって、日本刀で斬殺される。
昭和10年のことである。
「もう一方の改造者」は、上の分類で言う「2」の者達であり、2・26の決起将校もこの中に含まれる。
以下、次回とする(26日間に合わんかも)。
写真は2・26事件の出動将校中最先任の野中大尉(日本図書センター「図説二・二六事件」より)
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軍人の蜂起はいつの時代にもどんな理想を持とうとも、公正には評価されない。2・26もその例の一つには違いないですね。7月20日事件の評価が高いのは相手が悪すぎたのと、即日失敗しているからでしょうね〜。
2006/2/24(金) 午前 0:31
この時代を語るとき「軍人も役所の役人なんだよ」と言う考えが抜けているように思えます。決起趣意書にも「所謂…官僚政党等はこの国体破壊の元凶たり」って。あんたも官僚だよ、変えたいのなら自分の地位を返上してしなさいよ、って言いたいのが趣旨ですが、上見ると自分の文でもややこしいなあ!7月20日事件の評価、もう一つは戦時下、それもいよいよヤバイで!と言う頃である要素もあるかと。
2006/2/24(金) 午前 10:53 [ ケンジ ]
腕や足の一本くらいないだけでは退役させてくれなかった時代ですからね〜。あと裏切り者に即日処刑された大佐たちは運が良かったと言わねばならない状況。あとで芋蔓式に引っ張り出されたメンバーは裁判で晒し者のあげく、ピアノ線で絞首刑でしたから〜。その間、映写機回してて、その映像を見たヒムラーが気分が悪くなって最後まで見切れなかったというシロモノ〜。戦後の名誉復興がなければ、浮かばれませんよ〜。
2006/2/24(金) 午後 4:54
しかしさっきまで「同志」だったのがいきなりとっ捕まえて「死刑」っちゅうのも何とも…気分が悪いといや、週刊文春、この記事と同じ日に2・26事件のエグイ写真載せてます! 野中大尉の自決現場も!今更見せるのはもういいじゃん!って言いたい所ですね!
2006/2/24(金) 午後 6:27 [ ケンジ ]
石原さんに「あんたの真似しただけだよ」と言った武藤章は決して石原さんと同列人格では有りません。石原は進駐軍の調査で「私は多少の思想は持つが、東條は思想は無い。無いものと思想対立等有得ない」。 「満州事変の責任者は自分だ」。と言いきった人物です。やった事は一見同じに見えても、人間の格が違うのです。思い上がった無責任な出世主義、派閥主義官僚とは違うのです。石原さんはしっかりした哲学を持っていました。
2006/2/24(金) 午後 10:56
石原は満州事変後辞表を書いてはいますが、実際やめるべきだったでしょう。未来を見通す目が確かであったという点は評価できますが、軍の統制を乱した最初の例となったのも又、彼が天才であった故です。いくら正しいことをしてるからって、1人で戦争しちゃいかんのでは?
2006/2/24(金) 午後 11:56 [ ケンジ ]
野中大尉は決起将校達に「自決するなよ!」と言っていたそうなので、周りは野中大尉自身が自決するとは思いもしなかったようです。説としては歩兵第三連隊の上官に強要された為だそうです。やはり同じ三連隊の安藤大尉も自決未遂しています。三連隊は秩父宮様も在籍していたので荷が重かったのでしょう。
2006/2/25(土) 午前 7:21 [ 荒鷲 ]
荒鷲さん、ようこそ!野中大尉は最先任ということで同志筆頭とされてしまいましたが、実行の意思固き磯部、栗原や、最強の結束力を誇る安藤中隊の影になってしまった印象でしょうか。その一方で、宮城突入を睨んだ警視庁占拠部隊、それも500名もの部隊の指揮が彼に委ねられたのは謎です。今日か明日、そのことに触れたいですが、どこから手をつけていいか…天気がいいので、これから図書館に行ってきま〜す!
2006/2/25(土) 午前 11:21 [ ケンジ ]
すいません、訪問&コメントありがとうございました。
2006/2/26(日) 午後 10:31 [ obi*bi*73 ]
obiobiさん、こちらこそありがとうございます。歴史って、本から得た知識よりナマの資料を読んだ方が面白いですよね!
2006/2/26(日) 午後 11:06 [ ケンジ ]
石原さんがやったことは確かに「悪」です。でもそれは現時点からの評価で、我々がその状況に置かれた時、他にどのような選択が有ったでしょう。現状打開策として1.軍の撤退。遺留民はどうなる?2.成り行きにまかせる。結果に無責任。3.外交を進める。どこと? 彼は目途が有ったと思います。出世の為、派閥の為、関東軍の為では有りませんでした。 私は日蓮宗では有りませんが、彼は将来的ビジョンを持ち、極力現地被害を少なく、混乱状況の中で宗教的な民衆救済としてやったのです。
2006/2/27(月) 午後 5:28