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ITジャーナリストの佐々木俊尚氏が、新たな論考テーマを見つけたことをツイッターで報告した。 同氏は8月29日、こうツイートした。 「ここに来て、以前私が言っていた『マスコミvsネット』論は撤回し、今後は『当事者性vs ないものねだり論者』の新しい対立軸の論考へと移行することを宣言したいと思っています」 こう書くに至ったのは、野田佳彦氏が民主党の新代表になったことを受け、「史上最低の宰相」 「菅の方がまだましだった」などと言い出す人が出てくると予想したことに端を発するという。 そのうえで、「政治が悪い」と「ないものねだり」する人には何も残らないと書き、 続けて「そういうないものねだりして愚図ってる人たちとはとうてい理解し得ないし、 そういう人たちとは別の圏域を社会の中に作り、その圏域だけでこれからの時代を生き延びるような 方向性しかないんじゃないかと最近思うようになった」 「どっちにしろ、当事者性を持たない人はもう生き残れないと思います。残酷ながら、それが現実」 とツイート。 まとめると、「生きていくには他人任せではいけない」といった主旨での発言が多く、 その点を理解しているユーザーもいる。ただ、ここでいう「当事者性を持たない人」には マスコミと一般人両方が含まれ、反発したユーザーからは過激なコメントも多かった。 佐々木氏はこれまでに『ウェブ2.0は夢か現実か? 〜テレビ・新聞を呑み込むネットの破壊力』 (宝島新書)、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書)、 『マスコミは、もはや政治を語れない 徹底検証:「民主党政権」で勃興する「ネット論壇」』 (現代プレミアブック)など、「マスコミvsネット」を対立軸にした著書が多く、 ツイッターでもこの対立軸で様々な事象を分析していた。 『ウェブ2.0は夢か現実か』ではフジテレビがライブドアを毛嫌いした理由を分析したうえで 放送業界を「恐竜」とし、IT企業を「小型ほ乳類」と表現し、こう予測した。 「恐竜はいずれ滅びることを運命づけられているとはいえ、いまだに栄光の大恐竜時代の 最後の残滓を謳歌している。いつ滅びの日が来るのかは、誰にもわからない。明日かも知れない。 でも恐竜には、それがいつやってくるのかは分からないのである」 そんな佐々木氏が、いよいよ今後は「当事者性vsないものねだり論者」を論考するという 新たなステージに突入したようだ。ネット上での影響力が強い識者だけに、今後の展開が注目される。 (R25編集部 9/2) ********************************************************************************* このお話、なかなか共感を持ちます。 「別の圏域を社会の中に作り、その圏域だけでこれからの時代を生き延びる」というのは、 私もずっと考えてます。 しかしその一方、私がそのように考えるのは、自分がこうあってほしいと思う世界と現実があまりにも かけ離れているからであって、「ないものねだり論者」にしたって、こうあって欲しいのに どこを探したって見つからないから、という点では同じ事と思うんですが。 例にある、「政治が悪い」と言ったって、悪いからといって政治を止めてしまう訳には行かない。 当事者性というなら、代議士に立候補するのか?よしんば当選したって、 党略に翻弄されて何もできない、ないないづくしの中で政治再建の「当事者」として行動するなら、 ないものねだりの絵空事にも一定の理解は持つべきであるとは思います。 「未曾有の国難」「明治以来の大改革」と言っても、明治維新は訳も分からん間に薩長がバタバタッと 王政復古なんぞ決めたものやし、桂小五郎も西郷隆盛も、当時はまだ30代の若者ですよ。 ないものをあるものにする行動とは、こういった若い奴が「よう分からんけどとにかくやってまえ!」 みたいな行動であり、それを行う覚悟がある奴がどれだけいるか?また一方で、そういった変革を 国民として、どこまで受け入れることができるのか?と言うのが「当事者性」を持った者として 考えることやと思います。 要は私から見れば「当事者性とないものねだり論」は必ずしもVSになるものでもないんちゃうのん? ということ。 それでも「対立」でなく「分類軸」として見るのであれば、現実からあまりにもかけ離れた あるべき姿に対するアプローチの見方として優れた分類であると思われます。 まあしかし、この佐々木氏が述べる「ないものねだり論」というのはおそらく そんなレベルの物ではないから、彼らには何も残らないし、生き残らないんでしょう。 その手の論調の方がメジャーである限り、当事者性を持った人は 別世界を思考せざるを得ないんでしょうかね。情けないが仕方ないです。 しかし私にすればもっと恐ろしいのは、あるべき姿が現実と離れているにも関わらず、 現実を見ないで強引に「あるべき姿や」と言い張ることです。 例としては、日本の技術力やものづくりの能力について、過分に言及する人達が これにあたると思います。 日本製品の優秀性自体は、まだしばらくは大丈夫に見えます。 しかしバブル崩壊以降、日本の目の前にある現実の危機は、基本的に技術力とは関係ありません。 「それでも日本企業は成功する!」なんてタイトルの本が何年間、本屋で並んでいたでしょう。 さすがにものづくりがエエから大丈夫!なんてのはほとんど見なくなりましたね。 技術屋してた私が「これはおかしい」とビジネスの勉強を始めたのもこういうことがきっかけです。 どっちゃにせよ、当事者として大きなものを考えたら、自分ひとりでできる事はあまりにも小さく、
自分が生き残ることで精一杯、というのがホンマの実感ですわねぇ。 |

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