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自分自身を含めて、誰もが間違いやすいと思う。福音と律法の境界線を、曖昧にしてしまう私たちだ。
富める青年の話を引用するまでもなく、「戒めとは何か」という質問自体を、主は無効としながら、神の愛(αγαπη)の欠如を指摘しておられる。主は別に、富める青年の施し自体を問題視したわけではない。 富に支配されている人間が、己の中には、一切、善を願いながら、自分ではしたくない悪を実行している状況に対して、神の愛が唯一欠如していると、主は彼に教えられたのだ。 すべてを捨てて、施しをすることができません、主よ、助けて下さいと言っていたならば、神は喜んで彼を富の支配から解放し、キリストの十字架という神の愛を示したであろう。 聖書の「戒め」とは、言うまでもなく、十戒のことである(出エジプト記20章、レビ記19章参照)。 当時、ユダヤ人たちは、613の戒めを遵守しようとしていた。 しかし、はっきり言うと、自分自身の力で律法を守ろうとするならば、実行しようとするならば、破滅しかないであろう。 主は律法の行いによって、神から義を受けようと考えていた律法学者やパリサイ人たちに、「偽善者たちよ」(υποκριτ��)と糾弾している。 ルカの福音書(聖書口語訳)。 13:15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。 13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。 戒めと律法を改めて考えてみると、戒めと律法自体は「聖なるもの」「霊的なもの」「正しいもの」だと聖書は断言している(ローマ書7章参照)。 だから、戒めと律法に対して、極端に敏感で、質問しなくては気持ちが収まらないならば、以下の聖句が理解不能となる。 テモテ書第一1章。 1:8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。 1:9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、 1:10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。 1:11 これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。 即ち、福音信仰は、律法を包括しているのだ。主は、律法学者とパリサイ派の人々を「υποκριτ��」(偽善者)、即ち、「演技者」と呼んでいる。 神の愛を演技する、コレが「偽善者」の本質である。 マルティン・ルターの『ローマ書序文』を読むならば、「律法を実践すること」は不可能であって、「キリストを信じる信仰によって律法を満たすこと」が、聖霊による導きだと理解できる。 「満たす」という言葉は、ギリシア語の「πληλω」が使われており、戒めと律法の「実践」でなく、キリストに対する信頼によって実現していくものなのだ。 マタイの福音書(聖書口語訳)。 5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 キリストが完全に戒めと律法の要求を成就して下さった。 だからこそ、私たちは、自発的に、ひたすら、主を信じ抜いて、聖霊によって、神の言葉を満たしていく者に造り変えられたのである。 ローマ書(聖書口語訳)。 8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 このような道を、聖書は「律法」でなく「自由の律法」だと教えている。 キリストの十字架を信じる私たちは、律法廃棄論者でもなければ、律法主義者でもない。主義主張と廃棄の〈狭間〉に、神の愛は聖霊によって注がれるのだ。 ヤコブ書。 2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。 2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。 |
聖書釈義
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