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口語訳聖書・伝道の書。 3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 伝道の書3:1は有名な箇所だが、「There is a time for everything, 」の「a time」は「χρ??νο??」が使われており、一定の期間・季節を示す。すべての事柄には、時間を要することがある。 だが、「and a season for every activity under the heavens: 」の「a season」には「καιρ????」が使われている。新共同訳では両方、「時」としているが、口語訳は「季節」「時」、新改訳は「時期」「時」と厳密に訳出されている。 だから、事柄に関しては時間を要し、すべての実践は神の時に基づいている。では、神の時(καιρ????)とは、何を意味しているのだろうか。キリストの十字架の時と、キリストの再臨の時のことである。十字架は信仰の、再臨は希望の根源的な土台だ。 十字架(罪と律法からの救済)と再臨(神の時々の取り扱い)を引き裂いてはならないように、信仰と希望を別々に考えてはならない。神の愛は信仰と希望を結び合わせ包括する。 口語訳聖書・第一コリント書。 13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 信仰(πιστι??)、希望(ελπ????)、愛(αγ??πη)。神の愛は救済の出来事としては信仰義認だが、その後、頑張らなければならない、証を立てなければならない、奉仕すべし云々と、律法主義の罠により、初めの愛を忘却し燃え尽きてしまう場合も少なくない(むしろ、事例としては沢山だ)。 キリストに対する信仰は、神に対する望みに溢れていなければ、聖化されることを、即ち、神から時々に取り扱われることを拒絶してしまう。ちなみに、伝道の書3:2-11の「時」はすべて「καιρ????」が使われている。自分自身で〈時を移さず〉というワケではない。 それなのに私たちは、神の時を逃してしまった〜!とか焦燥感に襲われていないだろうか。信仰と希望が乖離すると、神の愛より、不安と恐怖に支配されてしまう。信仰・義認だけで満足していないか。希望・聖化だけで十分としていないか。キリストこそ、唯一、神の時を満たして下さったのである。 口語訳聖書・第二コリント書。 6:2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。 「恵みの時」(καιρ????)であり、「救いの日」(ημ??ρα=昼、主の日)だ。時の問題は、一般的な地上に流れる時間(??ρα)と違い、マルタのように、私たちがアレコレと動いても「良い方を選んだ」とは言えない。 時を有効利用し効率的に過ぎることで、主に対するマリヤの信仰(=キリストの言葉を聞き続ける)を奪ってはいないか?自分自身にとってのマリヤは、果たして、誰だろうと問いかけてみること。 口語訳聖書・ルカ福音書。 10:41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 10:42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 |
聖書釈義
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