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闇に陥ること、しばしば。。。
言葉も乱れ、錯乱した思考に疲れ果てるが、何とも不思議なことに「終わり」はない。 キリスト教神学は私には、決して体系化されたものとして現前しなかった。何故なら、神学者の学説に過ぎないものを私は知らなかったし、これからも同じだから。 あえて言うならば、断片として残されている神学的思考の散乱こそ、自分自身の声なき声であった。 最近、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスという神学者に魅力を感じている。彼がどのような人物で、何を考えていたのかを、私は全然知らない。 表層的には、トマス・アクィナスとスコラ哲学の正統的な後継者であり、アリストテレス哲学を利用した、中世の神学者だ。 しかしながら、彼が探究した(と思われる)神の愛と、神の愛に至る過程を僅かに辿るうちに、ステレオタイプに教えられてきた「神の愛」という言葉が、自分自身の存在に受肉したような感覚に襲われた。 本当の意味で私は、神の愛を知っていただろうか?という不安は即座に打ち消される。 何も知らないまま、スコトゥスの、否、中世の神学的霊性にすっかり魅了されてしまった。 何故だろう? 一見、思弁に過ぎないように思っていたから、真剣に学ぼうとしたことはなかった。 それなのに今、難解な文章の中に、新鮮な風が吹きつけるような経験をしている、即ち、私は「知らなかった」のである。 カール・バルトは『ローマ書』の序文で同じようなことを書いているのではないか。神の言葉は彼にとって、未知のものとして啓示されたのであろう。 驚愕から何かが開始されるとすれば、それは哲学でなく、明らかに神学的霊性による探究である。 スコトゥス自体に関心があるかどうか、私は自分自身でもよくわからない。 だが、スコトゥスが祈り、考え抜き、聖書と世界から何かを味わったなら、是非、私もその「何か」を経験したいと望む。 新しい声を得ることが可能だろうか? |
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