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タイトルのまんまである。
キリスト教信仰は、神をただ信じるという一点に尽きるものではない。 神を信じる過程で、どうしたって祈り続けなければ挫折してしまう。 そして、祈りこそ、神との対話なのである。 でも、祈りが宗教的な頑張りとなってしまいがちなのも事実。祈りによって「神を動かす」などの表現は、非常に危険だと思う。 だから、私たちは「キリストを信じて祈る」「対話する」わけです。 信仰抜きの祈りは、どこにでもある宗教心。 祈り(対話)抜きの信仰は、別に「キリスト教信仰」じゃなくても可能です。 神との対話は、信仰者が試練に置かれた時に、火に油が注がれるように「祈られる」もの。 祈りながら、信じながら、そして、神の恩寵を受け取っていく。 言うまでもなく、聖書と教会共同体を土台にした「神との対話」です。 祈りは決して無味乾燥なものでなく、全身全霊の出来事となります。 何故なら、神の愛に満たされた対話なのですから。 |
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>キリスト教信仰は、神をただ信じるという一点に尽きるものではない。
祈りは神さまとの対話ですね。
モルトマンがいうには対話すれば互いに影響を受けるのだから、全能なる神も私たちとの対話において影響を受けるのだというのです。
そうでないと対話ではないらしい。
ちょっと恐いものを感じるのですが、うーんと是非もなく考え込んで保留です。
「対話」というのは考えれば考えるほど奥深いものがありますね。
神さまとの対話を通して、神の国へと扉が開かれて、今まで考えもしなかった可能性へと歩を進めたりしますから、「神との対話」はいろいろな世界へと私たちを誘う導きでもありますね。
信仰にあっての祈りと対話は一大テーマですね。
2014/1/3(金) 午後 8:14 [ 中川 (研究所) ]
>中川(研究所)さん
モルトマンの、「対話による影響」というのは「人格的関係」と言い換えることが可能でしょうか?神との対話ですから、決して「フラット」になり得ないと思いますが、神が「悔いた」とか、キリストが「深く憐れまれて」とか、影響は神が受けるものかも……云々。
私の能力外なのですか、量子力学を使った科学的神学が「影響」の言説になるかもと感じます。シュレーティンガーの猫などの「観測問題」とか。
もう少し、
色々と思案してみます(悩)
2014/1/3(金) 午後 10:07