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フリソストモス(Χρυσοστομο??)。「金の口」と言われたギリシャ教父(340/350-407)。主の祈りにおいて、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」を追加したことで有名。「クリュソストモス」は、古典式=エラスムス式の再建音である。ラテン語では「クリゾストモス」(Chrysostomus)。
クリゾストモは、召し出された人が従事していた仕事が語られるのは、いくつかの召命の物語の中でだけだといいます。ペトロは、アンデレ、ヤコブとヨハネは、漁をしているときに召し出されました。マタイが召し出されたのは、税金を集めているときでした。それらの仕事は、あまり重要なものではなかったと、クリゾストモは解説します。「徴税人よりも嫌われた仕事はなく、漁師よりもありふれた仕事はなかったからである」(ヨハネ・クリゾストモ『マタイ福音書講話』)。ベネディクト16世著『使徒──教会の起源』ペトロ文庫138頁。 現代の諸教会のごく一部において、資本主義の精神が浸透しており、例えば、献身する以前の仕事が世的に評価されるものであったり、聖徒として生きる方々に職業・収入の貴賎によって賞賛したり見下されたりする傾向が否定できない。 私たちは、1960年代の「ジーザス・レボリューション」(イエス革命)によって、既存の保守的な諸教会の賛美と礼拝が刷新され、人間観においても、チャック・スミスのカルバリー・チャペルの尽力により、上品で市民的な人々だけでなく、ヒッピーやホームレスのような人々にも福音を宣教し、差別せずに受容すべきことを学んだはずだ。 わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。 たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。 その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、 あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。 (ヤコブの手紙 2:1-4 JA1955) チャック・スミスは次のように「裸足問題」について書いている。 もし私たちの高価なカーペットのせいで、裸足でやってくる一人の若者に扉を閉ざさなければならないのなら、私個人的な意見ではカーペットを全部剥がしてしまってコンクリートの床にする方がいいと思います。 もしジーンズが汚れているために一人の若い人に『恐れ入りますが、今夜は教会にお入りいただけません。あなたのジーンズは、汚すぎですから』と言わなければいけないなら、備え付けの椅子を取り外した方がいいと思います。ベンチや鉄製の椅子など、洗えるものにしたらどうでしょうか。しかし、服装や外見でだれかに対し扉を閉ざすことなど、決してないようにしましょう」(チャック・スミス著『収穫の時代』プリズム社、51-52頁)。 現代の「資本主義的キリスト教」は、主の「貧しい者は幸いである」という教えの正反対ではないと、誰が断言できるだろうか。 ジャン・カルヴァンの言葉に、プロテスタントとして耳を傾けよう。 そのうえ、労働にはいろいろな種類がある。なぜなら、家政を行なうにせよ、公私の事業を管理するにせよ、助言を与えるにせよ、あるいはこのほかなにであれ、その勤労によって人間社会を助け、利益をもたらすものは、怠惰な──ひとのうちに数えられてはならない(ジャン・カルヴァン著『新約聖書註解此擔袈欺佝納辧280頁)。 私たちはひとかどの者になりたいと願っている。成功したいと考え、失敗者になることを極端に恐れている。自己破産や生活保護になってしまったら、キリスト者としても失格の烙印を押されてしまうと考え、その予想は残念ながら見事に的中する。 キリスト者同士の婚約・結婚でも、カルヴァンが言うような「その勤労によって人間社会を助け、利益をもたらすもの」は無視され、牧師や家族は二人が「賃金労働者」かどうかを厳しく観察する。カルヴァンはマックス・ウェーバーによって誤解されやすいが、非賃金労働である「家政」を「労働」と認めている。現代的には育児・家事は「怠惰な者」と見てはならないし、ましてや「あなたは専業主婦(主夫)」で甘えていると非難してはならない。 ですから、イエスの招きは、社会の低い階層の人にも、それも彼らがふだんの仕事をしているときに、訪れます(ベネディクト16世著『使徒──教会の起源』ペトロ文庫138頁)。 ローマ・カトリックを批判することは簡単であるし、ましてや、弱く無力な相手を裁くことは日常茶飯事の私たちである。 そのような時、主の言葉が私たちの心に響き渡りますように。 マタイの福音書。 5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 |
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中川さんは悩んでいる……(°_°)
2014/2/5(水) 午後 9:58
すみません。自論を展開しました。そのつづきですが、「独学」を成功させ決してそれが意味のない個人の代物にさせず、公益性を持つためには「見る」必要があります。たとえば、私はルター研究所に派遣されました。そこで見たものはたくさんあったのですが、一つ決定的にルター研究において欠けているものを見つけることができました。日本におけるルター研究の現場の限界です。ルター研究の地平はまるで開けていないのに、いかにもルター研究が成立しているかのように一般には思われています。現場を見ればその長所と短所、利点と欠点、満たしと欠如が分かります。限界を見極めなければなりません。そのためには「見る」ことです。「見る」ことは力です。ワトソンとクリックはDNAの二重らせん構造を理論ではなく実は盗み「見た」から描けたというのが彼らの虚像にかくれた真実です。それでですね、いいことを思いついたのですよ。それをやろうじゃないかと。リラさんの悩みを解消する術を思いついたのです。これについては内緒コメントにします。お楽しみに。
2014/2/5(水) 午後 11:14 [ 中川 (研究所) ]
悩みに悩んでいたのですが、閃きました。
内緒コメントをしようと思ったのですが、夕飯の時間になりました。
食べないとなりません。
あと一時間ほと後になりると思いますが・・・ご感想をくださいね。
2014/2/5(水) 午後 11:19 [ 中川 (研究所) ]
こ、言葉だと、中川さんの思考は、時々、かなりの深淵とゆうか、私に全く存在しない視点があるので、色々と位置を変えなきゃいけませんね!
「独学を個人のものに限定させず公益性を持つための〈見る〉」。
友人牧師が里親をしていますが、乳児院はともかく、子どもの姿を〈見る〉ことで、関係を結ぶことができました、否、そのような他者との幻想的な象徴を見たのであって、中身を見ていないので、それこそ、力と見ることが結合することはなかった過去があります。
ちょっと違うかな?f^_^;
と、とにかく、
食べることも力です(・・;)
2014/2/5(水) 午後 11:49
内緒コメントを入れた途端に地震が起きましたよ!
主かもね(^−^)本当に。
2014/2/6(木) 午前 0:47 [ 中川 (研究所) ]
!!
な、なるほど、そ〜ゆうことですか…。具体的な方法論は直接、更に話し合いたいな〜って思いますが、構想と方向性はすばらしいと思いました(マジ)。
まさに、自分自身が最大の問題点。かなりそっちから離れていましたからね。まあ、習うより慣れよが本当かもですけど。
詳しい話はリアルで確認をしたいです。教えて下さいね。
あ、そうそう、グレゴリウスの伝記、ラテン語テキストなどを入手できました。聖ベネディクト関連やネメシェギなどの著作も、注文住みです。
2014/2/6(木) 午前 4:05
今はひたすら、理由不明ですが、ラッツィンガーの著作と対話を繰り返しています。鵜呑みにはしていませんが、保守的であるはずなのに、随分、聖書の範囲内で抑制して語っているのがわかります。何より読みやすいので、ペトロ文庫シリーズを読み終えたら、「ナザレのイエス」「イエス・キリストの神」を批判的に読もうと思っています。
あとは、教会史ですね。ヨセフスやエウセビオス中心でしたが、ヤロスラフ・ペリカンに加えて、──鈴木先生の講義に刺激を受けたのですが、諸事情で避けていた「キリスト教史」シリーズに関心を持てました。
現在、症状的な問題で安静にしなければならないのですが、回復したら遅れを取り戻そうかな…と。
中川さんからは紹介された本は、すべて蔵書にして読む努力をしています。これからも紹介をよろしくお願いします。
中川さんと、ゆっくり話せる機会があると良いのですけどね。
2014/2/6(木) 午前 4:19
乗ったね!
さて、面白くなってきた。
そうすると・・・リラさんがこれまで培ってきた全てを出して頂いて。
これまでの記者経験も、蓄積された知識も、智恵も、苦しみも、痛みも、嘆きも、叫びも、すべて投入ですよ。
謙遜に頭を下げて門を叩いていきましょうね!
本当のことをしたいならば、砕かれて小さくされた者たちが神さまの用意した道で御霊の一致をもってスタートしないとならない。
刷新も成長もしていかないといけない。
どうしたらいいかと悩んでいて、どうもパズルが組み合わなくて、あれこれ悩んでいたのですが、見事解決しました。
長年の私の悩みは久しぶりに解決してモヤモヤが止まりました。
コメント書き終わった途端に地震が起きましたからね。
私もリラさんのおかげでやっと本当のことが始められます。
乗ってくれてありがとう(^−^)
まったくね、神さまは準備に時間をかけるんだから、たまったものじゃない。
けど今はただ神さまに感謝だ。
2014/2/6(木) 午前 7:05 [ 中川 (研究所) ]
あともう一つのパズルがあります。
ヒロさんや民さん。
おそらくこの先に彼らの力を必要とするのではないかなあ。
神さまに対する想いのある人には私には理解できない何かのご計画があるから。
2014/2/6(木) 午前 7:13 [ 中川 (研究所) ]
縦横無尽は、もし何かしらの団体に所属していたらできなかったということで。
ちゃんと読んでいないけど、浅田彰の『逃走論』の身軽さが必要だと思っていたんです。
権威によらず、かといって権威に争うのでなく、どこまでもスマートに。
私らは何もないからそのスタイルがとれる。
それから石井神父さんが先週の学びで言っていたんです。
「あそこにすごいのがいると聞けば、門を叩いてどこでも行って実践で鍛える。アウグスティヌスはそうだった。日本でそれをやったのは塚原卜伝や宮本武蔵。要は、武者修行だよ。武者修行で自分を鍛えていった。本当はそれしかないんだよ。」
石井神父さんはそう言って、かつての偉大な教父の力が「武者修行」にあったのだと教えてくれました。
それで私は「独学」が基本だと昨日コメントしたのですが、今思えば「独学」ではなく「武者修行」でした。
思えば、宮本武蔵は本当の意味でスマートだったように思えます。
2014/2/6(木) 午前 7:52 [ 中川 (研究所) ]
ま、まあw
これからの準備には時間も要するだろうし、練習もしなきゃですよ(^_^;)
地震は教会のしるしでも与えられているので、そうなのか〜とゆう気分です。
てゆうか、中川さんの本当にしたいことって何ですか?
2014/2/6(木) 午前 8:20
ヒロさんは多分わかりますが、民さんですか?!誰でしょう(._.) リラが知ってる方ですか?
2014/2/6(木) 午前 8:24
まさに「リゾーム」ですね(笑)だけど、それしかないかと。
「武者修行」ですか?(´・Д・)」
主にあって労苦するってこと……でしょうか?
2014/2/6(木) 午前 8:31
民さんというのは、かつて「匿名ネットチャーチ」で現在は「キリストの手紙」のブログ主です。
http://blogs.yahoo.co.jp/net_chapel
キリストへの思いがとてもある人で、さまざまな条件の中で神さまのために働きたいという思いを持っている人です。
一度会ってみたいと思いましたが、どうやら民さんは相当の美人のようで、信仰とは別のことで会いたがる人がたくさんいるようで、そういったことが茨となって会うには至っていません。
やはりこの世の「美」は、要らぬ誤解を生みますね。
神さまが「小さい」「貧しい」「低い」「弱い」人たちを選ぶには、ちゃんと理由があるのかと思ったり。
しかし、この民さん、なかなかの力量があります。
その力量は神学というよりも「キリストへの想い」に根っ子があるので私は今回のことでも、後々、何か一緒にやるときにはよき人材だと思っています。
2014/2/6(木) 午後 0:18 [ 中川 (研究所) ]
なるほど、なるほど。ブログは中断?しているようですが、きちんとした信仰者の方みたいですね。
で、中川さんが本当にしたいことって、何なんでしょう……(・・;)
2014/2/6(木) 午後 4:06
本当にしたいことは・・・って、そのまえに。
自分が居れる場所、組織、教団、仲間。
イエスさまへの想いをストレートに語って文句を言われない平安な場。
その内に純粋な福音が抱えられる城壁。
そして、その土台をえたら、本当にしたいことは、本当の意味でのリバイバルですよ。
「リバイバルだ!」とかいって他者の価値観を自分たちの都合よく変えるようなキリスト教の独善主義ではなく。
もっと純粋に誰の心にも届くもの。
本当にリバイバルを願ったら、まずキリスト者は互いに仲良くしないと。
それぞれの教団教派のあり方をそのままに、ノンクリスチャンであっても自然に神を見上げることのできる福音の輝き。
おそらく、自分が小さくなって、低くなって、最も小さい一匹の羊を大切に大切に守りぬく中で、神さまが証しして下さるような。
そんな証しをしてみせたのは、フランシスコかマザーテレサくらいかな。
おそらくそれができるためには、聖人ではなくて、今までに歴史上にまだない聖なるチームですよ。
これだけ時代が変わったのだから、歴史もルールを少し変えているはず。
2014/2/7(金) 午前 3:41 [ 中川 (研究所) ]
少林サッカーを見たことありますか?
主役の人は、カンフーを広めたかった。
でも、誰もカンフーなんて見向きもしない。
ところが、みんなでサッカーをやったらカンフーブームが起こったでしょ。
「福音宣教」をしたいと思っても、今の時代は肝心の慈善事業から宗教が阻害されています。
宗教が社会に対して採りうる最高のパフォーマンスを奪われています。
だから、私は「カンフー」を広めたいという願いを自らの魂に刻みこんで、あえて「サッカー」をしてやろうと思うのです。
その「サッカー」が何かです。
今、それを考えています。
サッカーでカンフーをしたように、何かで。
事と次第によっては、奇策を用いる他ないからね。
まずは徹底して一匹の羊に仕えて、小さくなって、キリストにあって苦しんで、のたうちまわったあげくに、奇策を生み出そうとしています。
2014/2/7(金) 午前 3:54 [ 中川 (研究所) ]
>自分が居れる場所、組織、教団、仲間。
イエスさまへの想いをストレートに語って文句を言われない平安な場。
その内に純粋な福音が抱えられる城壁。
「聖なるチーム」ですか……。中川さんの考えは本当に別次元で納得してしまいます。目的以前の「関係」です、仲良しの……というのは、とても大切なコトですよね。
価値観の押し付ける擬似リバイバルに関しては理解できます。
2014/2/7(金) 午前 9:16
>本当にリバイバルを願ったら、まずキリスト者は互いに仲良くしないと。
それぞれの教団教派のあり方をそのままに、ノンクリスチャンであっても自然に神を見上げることのできる福音の輝き。
おそらく、自分が小さくなって、低くなって、最も小さい一匹の羊を大切に大切に守りぬく中で、神さまが証しして下さるような。
この辺りは、中川さんの以前からのライフ・メッセージとゆうか、中心点ですよね。「仲良くする」というのも、個々の霊的な友情以上に、キリスト教自体の和解なんだと思います。
個人的には、中川さん周辺の方々は、とてもレベルが高く、強烈な賜物と召命を受けているので、圧倒されてしまいがちですが(^_^;)
2014/2/7(金) 午前 9:23
>まずは徹底して一匹の羊に仕えて、小さくなって、キリストにあって苦しんで、のたうちまわったあげくに、奇策を生み出そうとしています。
カンフーをサッカーで、とゆうのは何となくわかるような……ですが、「奇策」って何でしょう(°_°)
ただ、一人に命がけで仕えること抜きでは何もかも空しいですね、うん。
2014/2/7(金) 午前 9:28