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わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 (ローマ人への手紙 3:28 JA1955)
一般的に「義認」に言及される場合、ローマ書3:21-31が引用される。「義認」は「義化」「義認化」と言われることもあり、複数の用語が乱立しているようだが、〈信仰による義〉という言葉が代表的、且つ、普遍的に妥当すると思われる。 〈信仰による義〉は、宗教改革期のローマ・カトリック教会における「功利主義的思想」と激しく衝突した。その結果、同じ西方教会であるカトリックとプロテスタントに大分裂した歴史的経緯は誰でも知っている。 詳細に検討すると「信仰と行為」「福音と律法」「義認と完成」という三つの対立があると思うが、ラッツィンガーは恐らく、第二バチカン公会議の神学的な成果を踏まえて、次のように述べている(公会議資料を持っていないため引用できないが)。 「義とされる」とは、正しい者とされること、すなわち、神のあわれみ深い義によって受け入れられ、神との交わりに入ることを意味します。したがって、それは、わたしたちのすべての兄弟といっそう本来の関係を結ぶことができることを意味します。そして、このことが行われるのは、わたしたちの罪が完全にゆるされることによってです。 そこでパウロは、このような状態で生きることは、わたしたちが行いうるよいわざによるのではなく、ただ神の恵みのみによることを、はっきりと述べます(ベネディクト16世著『使徒──教会の起源』ペトロ文庫189-190頁)。 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 (ローマ人への手紙 3:24 JA1955) 〈信仰による義〉、即ち、義認論は、義なる神という神観とも結ばれている。だが果たして、義なる神は私たちに何を与えて下さるのだろうか。 自分自身の内なる罪を凌駕する、神の義の宣言、これである。 神の義は、ギリシャ語では「δικαιοσυνη θεου」であり、3:24の「認められる」は、「δικαιω」(義を実現する)の現在分詞が使われていることに注目したい。 ゆえに「常に」という意味を含んでいる。されば「常に義とせられつつ」と訳して初めて原意を充分に表明したことになるのである(内村鑑三著『ロマ書の研究』教文館163頁)。 そして、内村は義認は最後の日まで継続していることを強調する(義認化)。 対して、D.M.ロイドジョンズは義認の開放性を主張している。「私たちが今、現在このとき、信仰を行使する瞬間に、義と宣言される」(ロイドジョンズ著『ローマ書講解3:20-4:25』いのちのことば社、110頁)と述べながら、ルターのエピソードを紹介している。 このように現在に力点を置くことがきわめて重要である理由をはっきり示しているのが、あのマルティン・ルターの物語である。ローマカトリック教徒として育てられたルターは、現世で救いの確信を持つことなどできないと教えられてきた。人は、《教会》とその様々な活動に依存しなくてはならなかった。しかしルターは、あの大きな光に突如照らし出され、この信仰による義認という教理について理解させられたとき、はっと悟ったのである。これは現在、今すぐ可能なことなのだ、と。その結果、ルターは喜びの霊に満たされ、自分の救いを確信した(同書111頁)。 |
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こんばんは〜はじめまして^^
ロイド・ジョーンズの義認は秀でていますよね!
Amenです!
2014/2/6(木) 午後 5:57
タイムラグがありましたが、改めまして、よろしくお願いします。
ナイス機能だなんて、Yahoo! Blog も便利になりましたね…… ←
2014/2/6(木) 午後 6:45
こんにちわ。贖いの説教をアップしたらこちらが紹介されました。内村とロイドジョーンズの義認論に、刺激を与えられました。持っておりますので、ロイドジョーンズ読んでみます。感謝!
2014/2/8(土) 午後 1:46 [ パスターハリーの「聖書」その他 ]
ナーハルトーブさん、ご訪問ありがとうございます(^_^) 贖罪に関しては、語りに語り尽くせないところがありますよね!内村とロイドジョンズ、両者が福音主義なので、調べるまでかなり油断していました(笑)よろしくお願いします。
2014/2/8(土) 午後 2:23