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なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 (ローマ人への手紙 8:2, 15 JA1955)
ルターは、絶望の果てに、自分自身の信仰にさえ頼ることも不可能になった時、「私は洗礼を受けた。三位一体の主なる神の御名によって、私は洗礼を受けたのだ」と告白し続けたという。 聖霊と信仰の可視的な〈映し出し〉は、主の御名による洗礼と聖餐に与ることである。 そるゆえ、キリスト信者は、何かを行う前からすでに、深く豊かな内面性を備えていることが分かります。この内面性は、洗礼と堅信の秘跡によってキリスト信者に与えられます。この内面性によって、キリスト信者は、神に対して子であるという、本来の客観的な関係を与えられます。わたしたちの偉大な尊厳はここにあります。わたしたちは神の像であるだけでなく、神の子なのです。わたしたちは、偉大な神の家族に子として受け入れられたことをますます自覚しなければなりません(ベネディクト16世『使徒──教会の起源』ペトロ文庫、198頁)。 ラッツィンガーは「神の像」以上に、「神の子」として「神の家族」に受け入れられた点を強調している。 私たちの何らかの行動以前の「内面性」、即ち、聖霊の内住こそ、神の子としてのアイデンティティーであり、同時に、真の意味で「神の子」であるならば、私たちは「神の家族」となる。言うまでもなく、子どもは一人で生きることは不可能だし、家族によって養育されなければならないからだ。 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 (ペテロの第一の手紙 2:1, 2 JA1955) 逆に言えば、神の家族である教会の外部には「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口」の支配下にある世が広がっている。 無論、水の洗礼自体に、神秘的な力はないし、洗礼を受けているから「絶対に救われている」わけではない。 他方、主の御名による水の洗礼は、邪悪な世に対して、ノアの箱舟という防御壁を語るものである。 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。 (ペテロの第一の手紙 3:21 JA1955) だから、聖霊と信仰による「内面性」が壊れてしまいそうな時、神に願い求めることは正しい事柄なのである。ましてや、キリスト者として未成熟だと強烈に意識するしかないなら、聖餐に何度も与っていけば良い。これらは決して、聖礼典主義ではない。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 (マタイによる福音書 3:15-17 JA1955) |
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