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するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。 (ヨハネによる福音書 11:16 JA1955)
「デドモ」は、ギリシャ語の「Δυμο??」(ディディモス)で「双子」という意味だが、その由来は不明である。 師であるかたに従おうとするトマスの決意はまことに模範的です。それはわたしたちに貴重な教訓を与えます。すなわち、トマスの決意は、心から進んでイエスと一致しようとする態度を表します。トマスは、イエスと運命をともにし、イエスとともに最高の死の試練にあずかることまでも望みました(ベネディクト16世『使徒──教会の起源』ペトロ文庫、150頁)。 再度、ラッツィンガーの記事となったが、意図的なまとめとしての投稿となる。 使徒トマスは個人的に、非常に大切な存在である。上記の聖句によって、私はそれまでの入院生活に終止符を打ったのだ。 持病と障害により、当時の私は治療のため、地元で長期入院していた。 一人の時、何の希望もなかったはずの私に「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」と語られたのである。早速、私は退院して、東京に戻ることを決意していた。 ところが、東京に戻って教会の方々に聖言をシェアすると、そのような解釈は間違っている、何故なら、トマスの決意は結果的に空回りだったから……という顏をされてしまった。折角の再会が台無しになったが、そうか、自分の聖書解釈は間違いであり、そのような間違った選択も、神は祝福して下さる御方だと信じ続けていた。 ところが、次の一文を読み、聖書解釈に対する疑惑が確信に変えられた。 実際、もっとも大事なことは、イエスから決して離れないことです。福音書が「従う」という動詞を用いるのは、イエスが向かうどんなところにも、弟子は行かなければならないことを表すためです。こうして、キリスト信者として生きるとは、イエス・キリストとともに生きることだと定義されます。それは、イエスとともに過ごす生き方にほかなりません(同書150頁)。 福音書の「従う」とは「ακολουθω」(アコルソー)という言葉である。他に「同行する」「〜の仲間となる」という意味を持つ。 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 (ヨハネによる福音書 21:19 JA1955) トマスは自分の言っていることが何なのか十分に理解していなかったはずだ。「双子」というあだ名なのだから、もしかすると彼自身の中に「死をも厭わない熱狂的なトマス」と「疑惑と不信仰のトマス」が、二重人格的に共存していたかもしれない。 だが、パウロはコリントのキリスト者を同じように励ましている。 前にも言ったように、あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである。 (コリント人への第二の手紙 7:3 JA1955) 使徒とキリスト者の間に見られることは、何よりもまず、キリスト者とイエス自身の間の関係にいえることです。両者は生死をともにします。キリストがわたしたちの心の中におられるように、わたしたちもキリストの心の中にいます(同書151頁)。 トマスの言葉から絶えず疑惑と不信仰が、神の愛に包まれていることを、私たちはこれからも学ぶであろう。 同時に、トマスは最初の、見ずして信じる者の幸いを経験した。 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 (ヨハネによる福音書 20:26-29 JA1955) アウグスティヌスもそのように解釈している。私たちも同じ者になりたいと願う。 彼は人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者により、もはや疑いを離れて後者を信じたのである」(アウグスティヌス『ヨハネによる福音書講解説教』教文館、408頁)。 |
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>ところが、東京に戻って教会の方々に聖言をシェアすると、そのような解釈は間違っている、何故なら、トマスの決意は結果的に空回りだったから……という顏をされてしまった。
「解釈が違う!」といって、どれだけ大切な主への想いが踏みつぶされてきたでしょうか。
だから、私は人に自分の解釈を押し付ける人が嫌いになってしまいました。
とくに原理主義的な人は、釈義に幅を持ちません。
その御言葉に対する応答がどこから来ているのかを問うとき、「解釈が違う」ということでは片付けられないはずなのです。
ある神父さんが十字架のイエスが「私は渇く」と言った箇所から「イエスは十字架の上で『私はあなたに渇いている』と迫られ、修道への道に入った。」という証しをしたとき、プロテスタントの人が「それは間違った解釈だ!」と非難していました。
まったく間違っていません。
その神父さんは、神を愛するがゆえに、その箇所に見事に応答したのであって、それはキリスト教霊性からみるとき素晴らしい福音メッセージであるはず。
釈義が「正しい」としても、霊性を歪めたら意味がないです。
2014/2/14(金) 午前 10:52 [ 中川 (研究所) ]
昨日、あるアカデミーの理事長と食事をさせていただいたのですが、理事長さんがいうのです。
「自分はトマスがイエスの脇腹にゆびを入れているところ浮き彫りを見た時、動けなくなって、光に包まれた体験がある。」と。
まさに、この記事の通りです。
どうやら、この箇所は私たちに与えられたメッセージのようですね。
おそろしいほどの御霊の一致ですな。
「わが主。わが神」。
2014/2/14(金) 午前 10:56 [ 中川 (研究所) ]
>とくに原理主義的な人は、釈義に幅を持ちません。
或る方々は「釈義に聖霊が働く」と言うそうです。まあ、確かにそう思います。でも極端になると、釈義のために聖霊を従属させる危険性があります。神学が霊性を潰してしまう。
ご存知かもしれませんが、私は説教をした時、「その釈義は間違っている!翻訳のままで良いのだ」と「口撃」されたことがあります。丁寧に様々な考え方を紹介し、気に入らなければ、取捨選択すれば良いのでは?と答えましたが、その方は譲らず「私は間違っていない。この翻訳だけが正しいのである」と顔を真っ赤にしていました。
「幅」は良い言葉だと感じますね。範囲を認めるとゆうか、神との関係の「幅」を「間違った解釈だ!」と限ることはできないし、信仰者の応答に釈義は仕えるべきで、「幅」を支配しちゃならないと思うのです。
2014/2/14(金) 午前 11:18
まったく間違っていません。
その神父さんは、神を愛するがゆえに、その箇所に見事に応答したのであって、それはキリスト教霊性からみるとき素晴らしい福音メッセージであるはず。
釈義が「正しい」としても、霊性を歪めたら意味がないです。
基本、霊性が神学を生み出すのであって、その逆は結果論だと感じます。私たち現代人は、過去の神学から霊性を発掘しなきゃですからね。
私から考えても、その神父さんの応答と釈義の間に矛盾はないかと。
てことは、原理主義には、神との交わりが存在しないかもです。
2014/2/14(金) 午前 11:21
>「自分はトマスがイエスの脇腹にゆびを入れているところ浮き彫りを見た時、動けなくなって、光に包まれた体験がある。」と。
アカデミーの理事長さんと中川さんが会っていたのは、もちろん、私は知りませんでした。そのような体験が。。。すばらしいです。
>どうやら、この箇所は私たちに与えられたメッセージのようですね。
おそろしいほどの御霊の一致ですな。
「わが主。わが神」。
何も意図せず、証と重ね合わせた記事ですが、主から「少し待ちなさい」と示されて温存していたんですよね。
御霊の一致。主は凄いです。だから、自分の能力によらず、主の霊によって…ですね。
2014/2/14(金) 午前 11:31
>その方は譲らず「私は間違っていない。この翻訳だけが正しいのである」と顔を真っ赤にしていました。
聞き流すしかないですね。私もあります。その場合、聞いて「ああ、なるほど!」と言ってやり過ごすので、その場はとりつくろえるのですが、相手に対してはもっとも不誠実な態度です。相手が熱を込めて話すときは、何を言ってもダメだろうあなと諦めます。断固自分が「正しい」という相手の場合は無理。ちなみに、無教会には多いので、私は聞き手に回ります。感情を全面に出す人や信念を持っている人を相手に、釈義や解釈の問題は議論になりませんからね。
2014/2/14(金) 午後 10:23 [ 中川 (研究所) ]
>御霊の一致。主は凄いです。
実は、本日の聖書の学びも、「わが主、わが神」といったテーマでした。
アカデミーの理事長さんの話があったからです。
それで、この記事を見たら、そのままだったので、コメントを入れました。
不思議。
ちなみに、アカデミーの理事長というのは、研究会にきてくださっている方です。
リラさんの隣に前回座っていました。
あの方の講座は本当に面白いです。
ぜひ、今度一緒に。
2014/2/14(金) 午後 10:29 [ 中川 (研究所) ]
>ちなみに、アカデミーの理事長というのは、研究会にきてくださっている方です。
あの方ですか〜!わかります。神学研究所には本当に色々な方々が出席されていますね。はい、是非。
2014/2/14(金) 午後 10:35
>聞き流すしかないですね。私もあります。その場合、聞いて「ああ、なるほど!」と言ってやり過ごすので、その場はとりつくろえるのですが、相手に対してはもっとも不誠実な態度です。相手が熱を込めて話すときは、何を言ってもダメだろうあなと諦めます。断固自分が「正しい」という相手の場合は無理。
対人関係における既読スルーですね。私も当時は若かった……です。
2014/2/15(土) 午前 1:06
>対人関係における既読スルーですね。
私はいつもその手でいっています。だって、人の数だけ意見もあるし、そこまで熱を入れて語れる根拠なんてないはずなのに熱を入れているということは他の意見を入れる気なんてないのだろうし。
あとね、議論をしているとき、突然「負けを認めろよ。」と言ってくる人がいて、びっくりしたことが何度もあります。議論をしているのだから、意見を出し合っているのに「負けを認めろ」ということは、自分の言っていることが正しいと思い込んでいて、さらに自分の正しい主張を単に認めないだけだと思い込んでいるからで、「負けを認めろ」というような言葉が出て来た時には、すべて終了して撤収する準備をします。
言っても無理だと思う相手については、「あなたが正しい」ということにして、逃げの一手に限るかもしれない。
2014/2/16(日) 午前 0:46 [ 中川 (研究所) ]
議論中の「負けを認めろ」というのは驚きです。かなり乱暴ですね。
自分の思い通りにいかなくなると、暴れてしまう方々を思い出します。
私は弁論部にいたので、ディベートをさせられましたが「勝った、負けたよりも大事なのは思考過程と論理力。善悪の価値評価もせず、大事なものを大事にできるか否か」を問われました。
可否はともかく、対等な議論なら、共に建設的・建徳的になりますよ。議論に勝ったから自分が正しいし勝ちだもんて、どんだけ子ども。
逃走論は正解だった☆〜(ゝ。∂)
2014/2/16(日) 午前 2:18
弁論部?
上念司先生をご存知ですか?
2014/2/16(日) 午前 11:35 [ 中川 (研究所) ]
いや〜、名前だけは聞いたことがありますが、世代が違いますね(・・;) うちの大学の弁論部は当時、政治家の先輩たちしか認めてなかったので、質が悪かったかもですねー。
2014/2/16(日) 午後 1:12
名前、聞いたことがあるのですか。
私は上念先生に約2年ほどずっと指導を受けていました。
何の指導かは内緒ですけど。
彼は大学一年のときに弁論大会で優勝しています。
私が出会った人の中で最も頭の良い人です。
現在は経済評論家の勝間和代さんの会社の代表取締役をしています。
私が追いかけていた人なんですよ。
しゃべり方から何から、ずっと真似していました。
私が最も影響を受けた人といえば、良い悪いは別にして上念先生だったかもしれません。
いつかもう一度会いたいと思います。
ちなみに、上念先生は連絡を断って逃げるようにして私の元を去って行きました。
そうしたら、勝間さんと組んでいるとは、けしからん人です。
上念先生の本もお薦めですよ。
本質を見抜く目を持っています。
彼が「デフレが悪であることをしっている安倍さんが総理になれば経済政策をするので景気は良くなる」というので、安倍さんが首相になったときに私は少ない貯金をドルに替えておいたので、少しだけ儲けました。
2014/2/17(月) 午前 3:15 [ 中川 (研究所) ]
でも、上念先生の本は神学とは関係ない経済学の本ですけど、私は一番信用しています。
ただ、一点、陰謀論にながれるところがあって、そこは信用していません。
あの人は、人間が誰かを悪者にして叩くことを快楽とする性質があることを知っているので、誰かを必ず悪者にして血祭りにあげることをします。
それが陰謀論となっているように思えます。
上念先生から木田元著『反哲学史』、竹田青嗣著『現象学』を読むように言われたのですが、どちらも非常に分かりやすい良書です。
上念先生の動向は注目していてくださいね。
経済については最も本質をついた発言をするでしょうし、もっとも本質をにらんだところに立つはずです。
彼は必ず政界に出るでしょうね。
上念先生を見ると、私もがんばらなくちゃと思えるんです。
いつか、彼と会って対談するのが、ある意味で私の目標でもあるんです。
2014/2/17(月) 午前 3:31 [ 中川 (研究所) ]
なるほど、指導を受けた経緯があるんですね。弁論部OBとして名前を聞いたことがあるだけですが、中川さんと接点があったなんて驚きです。弁論優勝者との交流は、私はありませんでした。
中川さんは他の方々から学ぼうとする集中力が凄いと思います。
>上念先生から木田元著『反哲学史』、竹田青嗣著『現象学』を読むように言われたのですが、どちらも非常に分かりやすい良書です。
どちらも、大学時代に読みましたが、確かに分かりやすかったです!私は一時期、哲学会にも所属していましたが、最初は、フッサール現象学に一目惚れ。木田先生は当時、現役教授で、故・丸山教授の後任者でしたから、著作は生協で山積みでした(買うしかなかった)。
2014/2/17(月) 午前 4:23
>上念先生を見ると、私もがんばらなくちゃと思えるんです。
いつか、彼と会って対談するのが、ある意味で私の目標でもあるんです。
どのような指導だったのかによっても違うと思いますが、それだけの頑張りの動機を与える方だったんですね。
将来的に、その対談が取り上げられるかも?!
わたしも香港に心から尊敬する方がいますけど、もう会うことはできないのが残念。だけど、大切ですよね、目標って。
2014/2/17(月) 午前 4:32