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この書は、東方・ギリシア教父、ビザンティンの思想潮流の中心的位相を、その代表者の一人、証聖者マクシモス(七世紀)の文脈に即して、かなわぬまでも問い抜こうとしたものである。それは、とにかくも学的体裁を取ってはいるが、筆者の気持としては殊更に専門的な学問ないし研究などというよりは、むしろ、縁あって出会った魂の導師に付き従い、その差し示すところに少しく与ってゆこうとした拙い道行きの記録にほかならない(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、v)。
最近、カッパドキアの三教父を中心に、ギリシャ教父を読む予定だが、この本の書名を聞き、正直、躊躇してしまった。 しかし、少し調べてみると、ラッツィンガーはマクシモス(580-662)を「偉大な東方教父」としていた。 聖マクシモスはキリスト教の伝統でふさわしくも「証聖者」の称号を有します。それは彼が、苦難の中にあっても、恐れを知らない勇気をもって、イエス・キリストへの完全な信仰をあかしする──すなわち「告白する」──ことができたからです。イエス・キリストは真の神にして真の人であり、世の救い主であると(ベネディクト16世『教父』ペトロ文庫、385頁)。 マクシモスは「キリスト単意説」(キリストの人間性と人間的意思の否定)と戦った。マルティヌス1世が招集したラテラノ公会議は「両意説」を擁護しているが、その後、マルティヌス1世も、「両意説」を主張したマクシモスも殉教してしまう。 この辺りの歴史的経緯は、アリスター・マクグラスによって確認しよう。 カルケドンはキリスト教世界全体における合意を確立するのに失敗したのである。六世紀に不賛成の立場が確立されることになるが、これは一般に「単性論(monophysitism)」として知られるものである。文字通りには、これはキリストには「ただ一つの本性」(ギリシア語のμονο??〔「ただ一つ」〕とφησι??〔「本性」〕)のみが存在するという見解である。問題になっている本性は、人性ではなく神性である(マクグラス著『キリスト教神学入門』教文館、503頁)。 だが、プロテスタントの私たちは、神学的な結論を、歴史的な変遷抜きに教えられることが多いのではないか。 神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けます(『ウェストミンスター小教理問答』問二一・答)。 キリスト論において確かに、神性と人間性の一致は、基本中の基本であることに間違いはない。 しかしながら、神学的な結論から霊性は生じず、得られるのは、自己満足な知識の累積に過ぎない。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。 (伝道の書 1:18 JA1955) 西方教会のローマ・カトリック、プロテスタントの私たちにとって、東方教会、ギリシャ教父、ビザンティン神学の系譜は「大きく異なる思想伝統」である。 この点、証聖者マクシモスにあって、たとえば西欧近代そして自然科学の抱えているような、人間と対立した対象的自然という把握は根底から突破され、また他方、古代ギリシア的なピュシス(自然・本性)把握、人間把握は、無限性へと開かれたより動的な構造のもとに捉え直され、何らか超克されている。そしてそこに、人間(人間的自然・本性)とあらゆる自然、万物が、無限なるもの(善性ないし神性)へと結合され、多様にして一なる交わりへと形成されゆく道が望見されていた。「自然・本性のダイナミズム」、「人間と宇宙的神化(神的生命への与り)」といった言葉は、そうした基本的な主題を示したものである(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、齬-齪)。 ビザンティン神学における「神化」の思想は、キリスト抜きの直接的な合一という印象がある。しかし、実際に学んでみなければ、印象と疑問以上の収穫があるはずだ。神秘主義は逆に、西方教会の系譜に存在し続けている。 キリスト論におけるマクシモスの貢献を、初めて考え抜いていきたい。 |
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