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われわれはこの移りゆく世界に生を享け、人間として、言語的知性的存在者として生きているが、同時にまた、己れの在ることの根底においていわば無に接していると思われる。すなわち、とにかくも存在し生きていることは事実だとしても、われわれは今、ここにあって時々刻々と生成変化の波に晒されており、常に非存在への傾きを、そしてさらには無を抱え込んでいるのである(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、3頁)。
「存在と無」という主題は深淵であり、汲み尽くすことができない。だが、著者の問題意識は、〈存在〉を思弁的・固定的に把握せず、「時々刻々と生成変化の波に晒されて」いるものと考えている。 存在の生成変化と言えば、プロセス神学を即座に思い出す。 伝統的形而上学のむしろ静的な世界観(「実体」とか「本質」といった言葉で表現される)に対する反動として、ホワイトヘッドは過程(プロセス)としての実在を考える。有機的な全体としての世界は動的なものであって、静的なものではない。世界は生起する。実在は「行動的存在」あるいは「行動的機会」という構成物から成っており、それゆえに生成・変化・出来事という特徴を持つ(マクグラス著『キリスト教神学入門』教文館、194頁)。 存在すること = 無を抱え込むことは、自明的・日常的な出来事ではない。 してみれば、「わたし・自分の在ること」は、どこまでも有限で可変的なわれわれにとって決して解消されることのないアポリア(難問)であり、われわれはこの世において、いわば「存在と無との間」に置かれているのだ。ただし、後の論述をいささか先取りして言えば、そのことは、単に対象化された「存在」と「無」との間にわれわれがいるというよりは、むしろわれわれが、ほかならぬ自らの意志によって「真に存在するもの(神なら神)に聴従し、それに与ってゆくか」、それとも「意志的背反によって、在ることの欠如を自らに招来させてしまうか」、という分水嶺に立っていることを意味しよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、4頁)。 だからこそ、自分自身という存在の自明性を喪失し「非存在への傾き」に気付く時、私たちは自分自身と、他者との関係からの「疎外」を経験する。 いずれの場合にも、問題は、自明性のもつ自然さということに、つまり、間主観的に構成されたものとしての生活世界に根をおろす仕方にある。「自明な」ということばは、ともにその点を指しているが、重点のおかれ方が違っており、前者はどちらかといえば現存在の超越論的主観性にかかわる構成を、後者はむしろ、現存在の超越論的客観性にかかわる構成を強調している。したがって、自然さという概念の方が、より根本的だということになる。この概念は、人間が住まうということにかかわる自然な先験性を、つまりその本来の場所(シラジ)を示し、同時に、それと近縁の正常性という概念の超越論的客観性にかかわる規定への道を開いている(ブランケンブルク著『自明性の喪失』みすず書房、227頁)。 自分自身が存在するのは、神に対する信仰がなければ、曖昧な事柄に留まるに違いない。 この点、総じて言えば、それらが突きつけてくる難問は、ある意味では、与えられた自然・本性(ピュシス)の秘密に恐らくは何らか「自然・本性に反する仕方で」踏み込んだために、いわば自然そのものからの逆襲として人間が抱え込んでいる負荷だとも看做されよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、5頁)。 曖昧不明瞭が嫌で、明晰さを求めても、超越論的主観性の中、不自然な自明性に至ることもあるかもしれない。 患者・彼は絶対に私を愛しています。 医師・何故ですか? 患者・だって私が愛しているから。 自明性の自然さは、超越論的客観性、即ち、閉鎖的自己から、外部へと開かれていく過程で得られるものだ。 ともあれ、そうした事柄には、自己と他者との関わりがおのずと影を落としている。が、さらに言っておくとすれば、およそ問題の根底には、われわれの「自己自身との関わり」が、また同時に「超越的なもの、無限なものとの関わり」が、何らか重層的な仕方で現前しているであろう。言い換えれば、そこには、「自己」と「他者」と「絶対他者(神なら神)」という三者の微妙な関わりが存していると予想されよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、5頁)。 序章は、どのような本でも難解なものである。通常、本論を脱稿してから、内容をまとめるため、最後に執筆されるからだ。加えて、マクシモスの著作を殆ど読めない問題点もある。 だから、可能な限り、他の著作との連携の中で読んでいくつもりだ。 |
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