|
余に一生の志望があった。それは日本全国に向かってキリストの十字架の福音を説かんことであった。この志望は、余が明治の十一年、札幌において初めてキリストを信ぜし時に起こったものである(内村鑑三著『ロマ書の研究』教文館13頁)。
内村鑑三は冒頭、『ロマ書』の研究に付する序 において、自分自身の「希望」(志望)を明らかにしている。 「リバイバル」(Revival)という言葉が妥当するかどうか思案中だが、ロイドジョンズは「リバイバルとは、定義すれば、神の偉大なる働きであり、神の主権的なみわざなのである。したがって、何かに強制されて起こるものではない。人間は何もすることができない。神のみがそれを成すことができるのだ」(ロイドジョンズ『リバイバル』いのちのことば社、165頁)と述べている。 個人的には、私自身、キリストを信じて告白し、三位一体の神の御名によって洗礼を授けられて以来、キリストの福音による「リバイバル」を待望させられている。 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。 わたしはあなたを、異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく、イスラエルの家につかわすのである。 すなわちあなたがその言葉を知らない、異国語の舌の重い多くの民につかわすのではない。もしわたしがあなたをそのような民につかわしたら、彼らはあなたに聞いたであろう。 しかしイスラエルの家はあなたに聞くのを好まない。彼らはわたしに聞くのを好まないからである。イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情である。 見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。 また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」。 (エゼキエル書 3:4-11 JA1955) 言葉の問題は歴史的事象にリンクするが、「リバイバル」(信仰回復)と「リフォーメーション」(宗教改革)とは異なる。だが国内において、私たちは両方を必要としている。 ルターの宗教改革が、たんに教会の堕落を正すのを目的としていたなら、それは文字どおり「改革(リフォーム)」であり、「リフォーメーション」と呼ばれることはなかったであろう。それが「改革」を超えて、歴史を画するものにまでなったのは、人ひわとの信仰のあり方を根本的に変えるものだったからである。ルターが、あらゆる苦難と困難を乗り越えて成し遂げようとしていたのは、人びとの魂を支える「信仰の再形成」だったのである(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書、122頁)。 だから、ペテロは、信仰者の思考停止を諌めている。 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。 (ペテロの第一の手紙 3:15 JA1955) 「あなたがたのうちにある望み」の「望み」とは、ギリシャ語の「ελπιδο??」(エルピドス)が使われている。これは他に「希望」「待望」「期待」を意味している。 一般的印象と辞書的定義の「希望」は「そうしたい,そうありたいと思っている事柄」という意味であろう。 自分がそうしたい、自分がそうありたいと、私たちは絶えず自分自身の願望、即ち、内なる欲望を最優先にしてしまう。 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。 (出エジプト記 20:17 JA1955) 七十人訳ギリシャ語旧約聖書(LXX)では、第十戒が「ουκ επιθυμησει??」(ウク エピシミシス)という言葉で始まっており、「禁じられたものを切望してはならない」と、冒頭から原罪が書き出されている。 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 (創世記 3:1-7 JA1955) しかしながら、それらの人間的願望が私たちに生きる意味を与えることはない。何故なら、内なる欲望は「貪欲」(επιθημιαの単数形・対格)以上でも以下でもなく、私たちを裏切ってしまうからだ。 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 (コロサイ人への手紙 3:5 JA1955) では「貪欲」を処理する神の方法は何だろうか。言うまでもなく、自分自身の方法に関して、私たちは徹底的に砕かれ、破れ果てていなければならない。 神の方法は「貪欲を殺してしまいなさい」(口語訳)である。別訳は「むさぼりを殺してしまいなさい」(新改訳)、「貪欲を捨て去りなさい」(新共同訳)、「この地上に属する部分を死なせなさい」(フランシスコ会訳)となっている。 しかしながら、それらの訳は、誰が、何が「貪欲を殺し捨て去るのか」を明確にできていないという共通点がある。だから、私たちは自分自身の力で「貪欲」を捨て去ろうと頑張ってしまうが、罪を殺すことを果たせない。 実は、「殺してしまいなさい」は「νεκρω」(ネクロー)という言葉であり、「死んでいる現実を認める」「地上にあるこの五体が既に死んだものであることを見抜け」という意味。直訳は「地上にあるこの五体が既に死んだものであることを見抜け」となる。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 (ローマ人への手紙 8:13 JA1955) 自分自身で罪を、貪欲を、内なる偶像礼拝を捨て去ること、殺すことは絶対不可能だと「知ること」から、純粋な福音信仰へと、信仰者は覚醒していくのである。 キリストとの結合の真理を語る時に、残念なことには、自分自身が死んだと認める第二の段階を強調しすぎる場合がはなはだ多いので、あたかも、それが出発点であるかのような錯覚を与えます。しかし事実は、自分自身が死んだと知ることに強調点が置かれるべきです。……私たちは知った時に、自発的に認めるのです」(W.ニー『キリスト者の標準』いのちのことば社、60頁)。 W.ニーによれば、自分自身が死んだという「啓示」を「知ること」が、聖化の第一段階となっている。 では自分自身の磔殺(たくけい)に関する信仰は、いつ与えられるのでしょうか。それは、「神が可能にすることができる」とか、「可能にされるだろう」とか言ってる時ではなく、喜びに満ちて「御名を讃美します。私はキリストにあって、十字架につけられています」と言う時です(同書68頁)。 ロイドジョンズは、神の方法に関して、何を語っているだろうか。 では、何が真の方法なのだろうか。使徒はは明白に語っている。「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら」──「御霊によって」である!御霊がことさらに言及されているのは、もちろん、御霊の臨在とみわざこそ、真のキリスト教を示す格別で独特な目印であるためにほかならない。……すでに見てとった通り、聖霊はキリスト者である私たちのうちにおられる。キリスト者でありながら御霊を宿していないことはありえない。人がキリスト者であるとしたら神の聖霊はその人の中におり、その人の中で働いておられる。事を行えるようにし、強くし、力を与えてくださる。主イエス・キリストが私たちのために実現してくださった大いなる救いを「仲介」し、私たちがその救いを達成できるようにしてくださる。それゆえ、決してキリスト者は、自分にはできません、力がありませんと不平を言ってはならない。キリスト者が「私にはできません」と言うのは聖書の否定である。聖霊が常にうちに住んでおられる人は、決してそのような言い回しを口にしてはならない。それは自分自身について言える真理の否定である(ロイドジョンズ著『ローマ書講解8・5-17』いのちのことば社、272頁)。 聖書を確認しておこう。聖霊と信仰に満ちた人間として、信仰の回復と再形成を、神は必ず得させて下さる。 モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。 主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいにだれがするのか。主なるわたしではないか。 それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。 モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。 そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。 あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。 あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。 (出エジプト記 4:10-17 JA1955) それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 (マルコによる福音書 10:23-27 JA1955) |
全体表示
[ リスト ]




