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私たちは次のことをいつも心に留めておかなければならない。すなわち、イエス・キリストは私たちを癒しかつ救うことに関わるすべてにおいて、私たちを人格とし人間とする活動に専心しているのであって、断じて私たちを非人格的にし非人間的にする活動に携わっているのではない。その結果、私たちは、キリストとの関わりのすべてにおいて、信仰をもって人格的に応答することにより、以前には決してありえなかったほどに真実で完全な人間とされるのである(トーランス著『キリストの仲保』キリスト新聞社、8頁)。
『バルト初期神学の展開』で有名なトーランスの著作である。 冒頭、「この一連の講義の目的は、神学生、説教者、牧会者、そのほか教会の指導者や奉仕者が福音について神学的に考えることができるように助けることにあり、その結果、その多様な務めを果たすための福音の内容について、もっとしっかりした理解を持てるようにすることにある」(同書3頁)と、トーランスは書いている。 逆説的に言うと「神学的に考えること」と「多様な務めを果たすための理解」こそ、〈福音〉に不可欠だと述べている。もっとしっかりした理解を……!という風に。 キリスト教信仰は断じて「知性の犠牲」ではない。三位一体論や、キリスト論における両性論等、言語化することが難解な〈神秘〉は確かに存在するし、存在しなければならない。そして、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫、)。 しかしながら、「知性の犠牲」、若しくは「思考停止」は、キリストを信じる信仰の出来事と正反対である。 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 (マルコによる福音書 12:28-31 JA1955) τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?. 「思いを尽くし」の「思い」は「διανοια??」が使われており、「理解力」「思考力」等の「考える能力としての心」を意味している。 キリストは「理解力」「思考力」を尽くして、神を愛することを強調している。 もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 (コリント人への第一の手紙 14:14, 15 JA1955) ??ν γ?ρ προσε?χωμαι γλ?σσ?, τ? πνε?μ? μου προσε?χεται, ? δ? νο??? μου ?καρπ??? ?στι. τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?. 両方の節において、「知性」という言葉は「νου??」であり、「〈ψυχη〉の知性面」だが、「διανοια??」と殆ど同じ意味である。 神に対して、「霊性」に対置された「知性」で祈らなければならない。即ち、神との祈りは、私たちには「霊性」的と同時に「知性」的な関係なのだ。 霊性と知性の回復は、キリスト教信仰の人間観において、「人格的な応答」を可能にさせるものである。 但し、トーランスにおいては「人格的な応答」は、人間の応答責任でなく、「キリストの無条件の恵み」(同書9頁)に基礎付けられている。 その人間性におけるイエス・キリストは、「恵みのすべて」が「人間の無」を意味するのではないという事実を象徴している。まさにその逆であって、神の愛に対する人間の応答の自発性と自由においてこそ、十分で真正なる人間存在の回復が起こる(同書199頁)。 神を愛し、神に祈るために、「キリストはすべての人のために死なれた」という〈普遍的贖罪〉の教理を推奨し、〈限定的贖罪〉の教理に反対するもの、そのようにトーランスは批判されたらしい。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 (コリント人への第二の手紙 5:14 JA1955) 「キリストが全世界を同等に愛して世のためにご自分をお与えになったとすることが正しいなら、夫の花嫁とキリストの花嫁との相似関係は壊れてしまう」(パーマー著『カルヴィニズムの五特質』つのぶえ社、72頁)としながら、カルヴィニズムは〈限定的贖罪〉を以下のように主張する。 というのは、キリストが教会だけでなく──花嫁だけでなく──それ以外の人々のためにもご自身をささげるように、夫は自分の妻以外のものを愛し自分をささげなければならないという命令になるからである。これは聖書に反することである。聖書は夫が一人の妻を持つべきであると教えている(同書72頁)。 他方、古典的カルヴィニズムは、神の愛は様々に変容するという考え方が土台にあると思われる。神の選びという条件下でのみ、神の愛の変容は説明され得るという(エサウとヤコブのように)。 アルミニアンとカルヴィニズムとの対立は、どのように把握すれば良いのだろうか。 贖罪についてのこのような合理主義者の思考法はたいへん嘆かわしい。なぜなら、それが実際に行っていることは、キリストの血の効果を値踏みすることで、聖霊の活動を論理的な関係に置き換えようとするものだからである。キリストの贖罪死は、究極的に神の無限の存在に根拠を持つ聖なる秘儀(holy mystery)として、最大の崇敬と畏敬の念をもって探究されるべきである。贖罪の理由、その「なぜ」と「いかに」は、神の聖なる愛の中に隠されており、この聖なる愛の前では天使たちですら顔を覆い、私たちの詮索好きの理性からこの秘儀を保護するのである(同書10頁)。 そのような「説明不可能」の「奇跡」として、トーランスは以下の聖句を引用している。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 (ガラテヤ人への手紙 2:20 JA1955) |
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