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よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。 (ルカによる福音書 15:10 JA1955)
最近、地域の方と、食事会をしたり、カラオケで歌う機会があった。数年も関係作りをしているのだが、中々、主を信じて下さらない。とゆうか、それ以上に、その方が礼拝に参加したのは一度だけ。 改めて、宣教の難しさを覚え、時に意気消沈してしまう。 キリスト教神学は、教会の侍女に過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。目的は、神を愛し、隣人を愛することである。 キリストを信じて、罪から救われた方々を開拓以来、洗礼式の執行により、僅かに見せてもらっている。 一人の魂が救われるのは奇跡であり、最高の喜びである。 同時に、私たちは救いに関して、一切何もできず、神だけが主権的に働いて下さるのだ。私たちは最善と全力を尽くすが、本当に何もできない。 神学研究に多忙だったが、教会のことが気になって仕方なかった。特に、牧会と宣教である。 確かに、神学研究は霊性を変革し、説教に絶大な影響を与えている。 しかしながら、真剣に祈り、すべてを捨てても、一人の魂が救われたり、信仰者であっても、信仰の回復が起きるなら、私は幸せである。 そのような方々が集まる教会を、私は愛しているし、何らかの事情で教会がキズつけられると泣いてしまう。 ある意味、私は満身創痍なのだが、他方、時間、体、経済、飲食等を犠牲にしても、いつだって、誰かが救われることを望んでいる。 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。 (ヨハネによる福音書 19:28 JA1955) |
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