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暖かい日ですが、今日は、持病(特定疾患)の診察となります。
私は先天性の身体障害があり、両腕を、自由に動かせる感覚を知りません。 なお、後天性の特定疾患のため、ある程度の健常を保てた状況から、一日一日が闘病生活である暮らしに慣れないでいます。 先天性の障害者、且つ、後天性の病気を発症した者として、先天性の障害は不治の病に等しく、後天性の障害には過去の健常と比べるので事故のようなものです。 このような平凡な日常生活と、神学的霊性は何の関与が存在するのか、それとも存在しないのか。 アタナシオスが古代教会のもっとも重要で、尊敬される教父であることは、間違いありません。しかし、何よりもまずこの偉大な聖人は、「ロゴス」、すなわち神のみことばの受肉を熱心に考察した神学者です。神のみことばは、第四福音書の序文が述べるように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)からです。そのためアタナシオスは、アレイオス(Areios 250-336年)派の異端のもっとも重要かつ最強の反対者でもあります(ベネディクト16世『教父』ペトロ文庫、90頁)。 キリストの受肉は、クリスマス・メッセージに限定不可能です。気候的にも、降誕日は、10-11月という有力説もあります。 私たちが注目したいのは、キリストの受肉こそ、苦痛からの解放、──否、苦痛の只中の信仰であり、神との関係における霊的基礎であるという点です。 キリストの受肉は、両性論(キリストは神の御子であり、完全な人間である)では、完全な人間性に該当します。 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル人への手紙 2:14-18 JA1955) キリストの受肉は、決して思弁でなく、歴史的事象に還元できるものでもない。何故なら、主は試練を共にして下さる御方だからである。その唯一絶対の根源が、キリストの受肉なのである。 彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。 (イザヤ書 63:9 JA1955) |
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アーメン
2014/4/29(火) 午前 1:25 [ たぬきち ]