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仮眠後(ショーペンハウエルやニーチェに怒られそうだが)、内田樹氏の『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)の第二章・非-観想的現象学を読み終えた。内田氏は、他の著作では非常に読みやすい日常語を使う。だが、レヴィナス論は難解だが、レヴィナスの著作自体が超難解なので仕方ない。
第二章では、フッサール現象学批判が展開されている。「志向性」(意識は対象に対する意識である)と「明証性」(対象の了解=包含、汲み尽くし)を観想的だとレヴィナスは指摘した後、フッサールの対象=事物に対して(全体性)、「書物」と「愛する人」(無限)を対置させる。 確かに、モノとコトガラと違い、聖書だとか、大好きな本、愛する恋人、愛する家族を理解し尽くしたとは誰も言えない。 フッサールの事物を自我に還元可能とする全体主義的な「自我」や「自我の類似性」としての「他我」は、間主観性の地平で、自然を世界に変容させている。しかし、レヴィナスは「他者」を、主体にとっての無限の「意味」(フランス語では、方向という意味もある)だと考えた。 レヴィナス「神の現象学」がありうるし、あるべきだと考えていた。「未知のものである絶対的なもの」を既知に還元することのない、「知の思惟」、「同化吸収でも統合でもない思惟」がありうると考えていた(同書145頁)。 この辺りに、神学と倫理学、公共哲学に加えて、他我→他者→隣人の基本線と変容の痕跡を、トレース可能とさせる接触点が存在している。現在、他者から隣人への移動を、私は思索中である。 文庫とはいえ、読むには思考の鍛錬となる。第一章は「師弟論」だったが、学ぶ者から教える者になった者は、「師」を求めると書いていた。確かにその通りで、教えることに注意するためには、師との関係において出現する特殊な、以前とは異なる主体が不可欠となる。 神の呼びかけは「私」をまっすぐに「他の人間」へと差し向ける。「神の声を聴く」というのは、神秘主義者が考えているような法悦的、幻覚的な経験ではない。それは私を人間の世界に、私以外の誰によっても代替しえぬものとして、具体的に位置づける。 ちょうど師にとってすべての弟子がその学知の完成にとって必要な「かけがえのないもの」であるように、神にとって私は、人間たちの中にあってかけがえのないものとして指名されるのである。それゆえ神の召命は私をまっすぐに「他の人間」のもとへと差し向ける(同書167-168頁)。 しかしながら、「模倣の欲望」(ルネ・ジラール)には警戒しなければならない。そのためには、主体・媒介・対象の三角形的欲望の構造を認識する必要がある。何故なら、レヴィナス的な「他者」が、「媒介」への模倣になった場合(他者=神々・偶像・言いなり・類似性等)、神と隣人への接近可能性は捨象されてしまうからだ。 未だに、レヴィナスの著作を読解する力はないが、神学的思考を強靭にし、聖書を解釈し、何よりも、神の愛によって生きるための「糧」としたい。 |
哲学
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