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高校生の時から読んでいるニーチェの『ツァラトゥストラ』だが、改めて読み、綱渡りをする者を飛び越える道化師、兵卒でなく戦士であること等、読んでいて、言葉が腹に入ってくる。他に、現象学、ドゥルーズ、アリストテレスを読む予定(レヴィナスとアガンベン、ヴィルノ、デリダは例外)。
日本の作家や民族学者の中で、稀に、凄く不気味なテキストが存在する。市販されているものもあれば、入手不可能なものもある。私は弱虫なので、正直、怖い。昔、カニバリズムの研究をしようとして挫折した経緯あり。映画『生きてこそ』の「原作」を批評したのが精一杯だった。横断性と迂回。 自分が正しいと主張するより、不正を受け取っておくほうが高貴である。ことに自分が正しい場合にそうである。ただ、それができるのは、豊かな人間に限る(ニーチェ著『ツァラトゥストラ』)。ニーチェは本来、引用することが不可能な人間であろう。理論でなく、実践の書しか書いていない。 しかし、『ツァラトゥストラ』を読めば読むほど、キリスト教と国教会に対する苛烈な批判だらけで、キリストを直接、攻撃している言葉が殆ど見当たらない。あまりに奇妙な神学者、オーバーヴェックと友人だったのも摩訶不思議である。試練の後、僅かに、久しぶりのニーチェの著作を味わい楽しんでいる。 同一化の巧妙な罠。別の言葉を使っていても、結局、同じことを喋っている。そこ-ここには、まるで批判が存在しない。観察してみると、鵜呑みばかりで、読書行為に複数性と唯一性があっても、多様性が見当たらない。「似ている」という不気味さ。 既に「語られたもの」、過去に表現されたという「恐怖感」は、否定の道である。しかし、否定を否定する時、自分自身の嘘と偽りを、その功利主義を、利己性を打ち砕く準備はできているだろうか。 そうでなければ「似ている」ことの閉鎖構造=(まさに)収容所空間、即ち、極限的な同一化を生成する「異形のもの」に騙されてしまう。しかし、それらは他者でもなければ、テクストでもない。他なるもの=全体性であって、無限ではない。収容所空間に出現し、壊れてしまった〈私〉という別の仕方から。 提示されたものが、常に新しければそれで良い。ならば、問いたい。限界状況は、絶えず変化するものと、決して変化できないものの途上=綱渡りであると。知ったかぶりはいただけない。試練と地獄と自業自得は違うからだ。 レヴィナス的な「家」(οικος)の廃棄と欠如こそ、間主観的、且つ「類似的」(!)にさせる罠となる。他なるものは、超越論的自我が貪り喰らい続ける未知/既知の還元主義、オデュッセウス的自己(self)である。他者を語りながら、自己とコギトの無垢な関係性に没落させる他なるもの。 何故、気付かないフリをするのだろうか。気付いていない幻想に逃げ込むのか。読むことと書くことが引き裂かれているのに、実践では、現象学的類似性の境界に至ってしまう。超人は到来せず、主体性の終焉が叫ばれる。 そんな時、強い気概で改めて独立することに何の保証はない。利己的な自己は高貴という仮面を被った損得勘定に過ぎない。果たして、言葉は身体に響いただろうか。秘密主義は収容所空間そのものである。何故なら、他者を直視せず、逆に無関心と冷静を装い、非・状況倫理的な地下室の手記だから。 誰にでも開かれたテクストと愛する他者に、閉鎖的な言語構造と、関心事の存在しない他なるものへの志向性が対置されている。何とも滑稽な構図なのだが、誰もが互いに似てくると、訣別の時が既に到来している。女性の中には専制君主と奴隷があると、ツァラトゥストラは語ったが、男性は一体どうなのか。 正しいのであれば、暴力に対する抵抗は、恥ずべきことだ。支配と権力の圧政に閉じ込められ、打ち砕かれることは、最良の処方箋である。私はそれを試練、或いは存在することと呼ぶ。 教える者は自分自身をまず教え、周囲に他なるもの(人間=動物扱い)でなく、他者(異なる人間)を置くべきだ。そうでなければ、いずれ、自滅し破滅するであろうだからこそ、人間は克服され、飛び越えられるためでなく、ただ没落していき、絶対的不可能性に躓かなければならない。稲妻ではなく、稲妻を落とされた者として、辛うじて生き残るのは誰か。 |
哲学
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