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トマス──信仰と服従の使徒
神学的探究
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>とくに原理主義的な人は、釈義に幅を持ちません。
或る方々は「釈義に聖霊が働く」と言うそうです。まあ、確かにそう思います。でも極端になると、釈義のために聖霊を従属させる危険性があります。神学が霊性を潰してしまう。
ご存知かもしれませんが、私は説教をした時、「その釈義は間違っている!翻訳のままで良いのだ」と「口撃」されたことがあります。丁寧に様々な考え方を紹介し、気に入らなければ、取捨選択すれば良いのでは?と答えましたが、その方は譲らず「私は間違っていない。この翻訳だけが正しいのである」と顔を真っ赤にしていました。
「幅」は良い言葉だと感じますね。範囲を認めるとゆうか、神との関係の「幅」を「間違った解釈だ!」と限ることはできないし、信仰者の応答に釈義は仕えるべきで、「幅」を支配しちゃならないと思うのです。
トマス──信仰と服従の使徒
神学的探究
[ 中川 (研究所) ]
2014/2/14(金) 午前 10:56
トマス──信仰と服従の使徒
神学的探究
[ 中川 (研究所) ]
2014/2/14(金) 午前 10:52
>ところが、東京に戻って教会の方々に聖言をシェアすると、そのような解釈は間違っている、何故なら、トマスの決意は結果的に空回りだったから……という顏をされてしまった。
「解釈が違う!」といって、どれだけ大切な主への想いが踏みつぶされてきたでしょうか。
だから、私は人に自分の解釈を押し付ける人が嫌いになってしまいました。
とくに原理主義的な人は、釈義に幅を持ちません。
その御言葉に対する応答がどこから来ているのかを問うとき、「解釈が違う」ということでは片付けられないはずなのです。
ある神父さんが十字架のイエスが「私は渇く」と言った箇所から「イエスは十字架の上で『私はあなたに渇いている』と迫られ、修道への道に入った。」という証しをしたとき、プロテスタントの人が「それは間違った解釈だ!」と非難していました。
まったく間違っていません。
その神父さんは、神を愛するがゆえに、その箇所に見事に応答したのであって、それはキリスト教霊性からみるとき素晴らしい福音メッセージであるはず。
釈義が「正しい」としても、霊性を歪めたら意味がないです。
ラテン語の学び方 1
ラテン語基礎
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