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脱構築と言えば、デリダの代表的用語ですが、無と否定の思想でなく、責任を含む、無制限な肯定の思想と言われます。 脱構築的な肯定も責任も「決定不可能なもの」の経験における「決定」ということと深く関係している(高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫125頁)。 脱構築における「決定不可能なものの決定」は、プラトン主義のような「決定不可能なものを外部の悪として追放する暴力的決定」ではないとする(同上、125頁)。 プラトン主義が暴力的決定か否かは直接、著作を調べてみたいと思う。 脱構築における「決定」は「問いの可能性についての問いの共同体」を基礎づけるという。 ウェスレー的な意味で、信仰は決断であり決定である。 神という不可能性の中の「決定」は、キルケゴールやカミュから「飛躍」とされている。 そのような「飛躍」こそ、共同体を基礎づけるとしたら? 通常の意味での「教会」という現場はわかりやすい。 自由な「決定」を下し、最悪の場合、「決定」できない者を、共同体の内部にいながら、外部へと排除すれば良いのだから。 「決定」できない者には、信仰の決断だけでなく、貧しい者、障害と病気に苦しむ者、孤独な者たちなどが含まれている。 http://bible.com/423/1co.1.27-28.ntv 一致という観点から、最低限、教会共同体は、信仰義認、三位一体、キリストの十字架と復活を中心とした福音が不可欠であろう。 そして教会共同体に万一、何らかの暴力的な排除があるとしたら、教会共同体の「人間観」が問われている。 教会共同体の、脱構築的な「決定」は「否定」や「排除」によって実現されるものではない。 むしろ、徹底的な「無」を人間観に導入すること。 第一コリント1:28の「εξουθενω」は「無視する」「軽視する」「軽蔑する」「蔑む」「辱める」という意味。 「εξουθενω」は名詞の「ουδει??」「ουδεν」に基づいており、「無」「無に等しいもの」「全く価値のないもの」を意味している。ラテン語では「nihil」。 「神は〜を選んだ」と言われる時、少なくとも第一コリント1:27-28ではアオリスト時制が使われている。 例えば、当該箇所の「εκλεγομαι」は「選ぶ」「選び出す」「選び取る」という意味で、「εκ」は「中から外へ」というのが基本的意味である。 ただ選ぶというのではなく、内部から外部へと取り出すのだ。 神の主権的な選びは、過去における唯一の、キリストの十字架と復活を前提にする。 即ち、神は教会共同体の中から、或いは、世の中から「無のような私たち」を選び、キリストの救いに定め、暴力的に排除せずに「不可能な決定」を下す。 神の主権的な選びは、そのような脱構築的な「決定」と「責任」によって、新しい共同体を実現させる。 キリストには不可能も不条理もなく、信仰と決定、及び、弟子たちに対する責任を、完全に引き受ける御方である。 キリストは私たちを「無」の中から外へ連れ出す。 神が不可能な決定を下した結果、信仰は啓示され、私たちはキリストに対する信仰を追認する。 教会共同体の「責任」とは、世話焼きの責任を取ることではない。司牧であり、牧会である。 要するに、神の「決定」を信じるように、慰め励ましていくことであろう。 私たちは、神を信じることが「不可能性の決定」であると知っているだろうか? 「不可能性」を「不可能性」として把握していないなら、未だに神の「決定」を追認していることにはならない。 そして、「無」が「世」だと錯覚する時、神と人間に対する「暴力的な排除」が開始される。 |
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昨春だったと記憶しています。 重い問題を抱えた或るメンバーが、様々な経緯と解放を受けながらも、結局、離れ去り、過去、縁のあった伝統的教会に無断で移ってしまいました。 詳細は守秘義務があるので何も言えませんが。 しかしながら、私たちが受けた事柄に関しては共有可能と思います。 実は、ブログ更新をしていなかったのは、その件が影響しており、主が再び私を導いて下さるまで、礼拝奉仕以外、殆ど何もしないと決意したからです。 長い間、そして今でも休むことにしています。 さて、私たちは先の伝統的教会の牧師と引継ぎ等の話をしたのですが、いつものことながら見下され、馬鹿にされた次第です。 私以外の奉仕者も、その牧師と話したのですが、同じ扱いを受けて憤っていました。 あまりの、「古い体質」故に。 そして、その奉仕者は私に「今までこんなに苦しい環境、他教会との人間関係に耐えてきたなんて、本当に知らなかった」「すみませんでした」「何故、既存の地域教会が酷いことばかり言ってくるのか、とても悔しいです」など、打ち明けてくれた。 私は慣れていたが、今回の事案では、神の導きと守りに委ねることにしたのだ。 曖昧なことしか書けず申し訳ないが、その後、私は生き方を変えることにした。 少なくとも、そのように祈り続けている。 エリヤは、バアルの偽りの預言者たちから逃走した後、神に語られ、新しい使命を授けられた。 私もまた、新しい使命が人からでなく、神から与えれるまで何もすることはできないと考えた。 自分から何かをしようとするならば、私たちは必ず失敗してしまう。 神の導きにより、扉が開かれるならば、あとは服従していくだけ、まぁ、ふっついていくだけである。 以来、神学や語学を徹底的に、不完全ながらも学ぶことを辞め、主に聴きながら服することに限って生きている。 正直に告白すると、厳しい現実の僅かな言語的反映である、このようなブログをよく投稿できたものだと、自分自身、驚いている。 でも、そのような季節があっても良いわけだし、キリストにあって私たちは真に自由とされている。 キリストにある新しい人として歩むことは、古きを捨て去ることと並行作業である。 他者のために、燃え尽きに至るまで己を鞭打つ時もあれば、キリストを憩いとして何かを待ち望む時もある。 主の時の到来を信仰で受容できるようになりたいものだ。 |
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午前中、歯医者で治療後、賛美奉仕者訓練会を初めて実践した。
賛美奉仕者(基本テキストを学び終えた方)と共に、主日礼拝の賛美を練習することができた。 主から教えられ、共有した点は、以下の通りである。 〇身?卜?は存在しない。賛美は賛美である。 機材、配置、ソングブック用意、PA等、すべてが賛美奉仕であること。 聖書の言葉を土台にすること。 さГ襪海函 チ蠎蠅剖別召畔任伝わらなかった場合、少しでも圧迫感を与えないため、頁でなく、曲名で語り直すこと。 ΦГ蠅肇函璽は短くすること。 録音し、賛美奉仕者訓練会が終わったら、即、フィードバックすること。 スキルの問題は、あまり問題じゃない。神に対する応答と、人々に対する配慮が大切である。 声量・演奏云々の話は、その次の問題である。 |

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暖かい日ですが、今日は、持病(特定疾患)の診察となります。
私は先天性の身体障害があり、両腕を、自由に動かせる感覚を知りません。 なお、後天性の特定疾患のため、ある程度の健常を保てた状況から、一日一日が闘病生活である暮らしに慣れないでいます。 先天性の障害者、且つ、後天性の病気を発症した者として、先天性の障害は不治の病に等しく、後天性の障害には過去の健常と比べるので事故のようなものです。 このような平凡な日常生活と、神学的霊性は何の関与が存在するのか、それとも存在しないのか。 アタナシオスが古代教会のもっとも重要で、尊敬される教父であることは、間違いありません。しかし、何よりもまずこの偉大な聖人は、「ロゴス」、すなわち神のみことばの受肉を熱心に考察した神学者です。神のみことばは、第四福音書の序文が述べるように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)からです。そのためアタナシオスは、アレイオス(Areios 250-336年)派の異端のもっとも重要かつ最強の反対者でもあります(ベネディクト16世『教父』ペトロ文庫、90頁)。 キリストの受肉は、クリスマス・メッセージに限定不可能です。気候的にも、降誕日は、10-11月という有力説もあります。 私たちが注目したいのは、キリストの受肉こそ、苦痛からの解放、──否、苦痛の只中の信仰であり、神との関係における霊的基礎であるという点です。 キリストの受肉は、両性論(キリストは神の御子であり、完全な人間である)では、完全な人間性に該当します。 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル人への手紙 2:14-18 JA1955) キリストの受肉は、決して思弁でなく、歴史的事象に還元できるものでもない。何故なら、主は試練を共にして下さる御方だからである。その唯一絶対の根源が、キリストの受肉なのである。 彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。 (イザヤ書 63:9 JA1955) |
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よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。 (ルカによる福音書 15:10 JA1955)
最近、地域の方と、食事会をしたり、カラオケで歌う機会があった。数年も関係作りをしているのだが、中々、主を信じて下さらない。とゆうか、それ以上に、その方が礼拝に参加したのは一度だけ。 改めて、宣教の難しさを覚え、時に意気消沈してしまう。 キリスト教神学は、教会の侍女に過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。目的は、神を愛し、隣人を愛することである。 キリストを信じて、罪から救われた方々を開拓以来、洗礼式の執行により、僅かに見せてもらっている。 一人の魂が救われるのは奇跡であり、最高の喜びである。 同時に、私たちは救いに関して、一切何もできず、神だけが主権的に働いて下さるのだ。私たちは最善と全力を尽くすが、本当に何もできない。 神学研究に多忙だったが、教会のことが気になって仕方なかった。特に、牧会と宣教である。 確かに、神学研究は霊性を変革し、説教に絶大な影響を与えている。 しかしながら、真剣に祈り、すべてを捨てても、一人の魂が救われたり、信仰者であっても、信仰の回復が起きるなら、私は幸せである。 そのような方々が集まる教会を、私は愛しているし、何らかの事情で教会がキズつけられると泣いてしまう。 ある意味、私は満身創痍なのだが、他方、時間、体、経済、飲食等を犠牲にしても、いつだって、誰かが救われることを望んでいる。 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。 (ヨハネによる福音書 19:28 JA1955) |




