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ヨーゼフ・ラッツィンガーを突破口にして、カール・ラーナー、イブ・コンガール等の、現代カトリック神学を学ぶことになった(福音主義神学の重要な関連書、翻訳文献等は、恐らく殆ど、読了済みだった)。
特に、現代カトリック神学研究のきっかけを与えてくれたラッツィンガーを知りたくて、ファーガス・カー著『二十世紀のカトリック神学』(教文館)を調べてみた。 ギリシア正教会府主教ダマスキノスは、当時、教理省長官だったラッツィンガーに手紙を書いている。『主イエス』という宣言が「正教会は、ローマ・カトリックから見れば、いくぶん劣った教会であり、ローマ・カトリック教会のみが唯一の真の教会とみなされねばならない」(同書302頁)という意味を懸念したのである。 基本的に、ラッツィンガーは法王だった時、即ち、ベネディクト16世だった時は、正教会に対して非常に好意を表明している。その分、プロテスタントの諸教会とは一致できないと考えていたフシがある。 ところが、カトリックとプロテスタントは同じ西方教会なので、神学的に共通点が多く、フィリオ・クェ的に、東方教会はアリウス主義等の影響もあるはずなのに。 神学的な不一致にも関わらず、ラッツィンガーは以前の教え子ダマスキノスに、カトリック教会も「傷を負っている」と答えている。 なお、第二バチカン公会議において、ラッツィンガーは、カール・ラーナーと連携して活動した。 ラッツィンガーは、幾人かの司教たちが教会一致に関連する項目において過度なマリア崇敬を持ち出そうとしたことに対して、それは障碍であると嘆いている。彼が皮肉を込めて評しているところによれば、ある人々はヨセフ、ロザリオ、および世界をマリアに捧げることとマリアの聖なる御心に対する信心等々以外には関心を持っていないように思われたのである──そしてそれは、彼らには神学上の知識が欠落していることを示しているのであった(同書306頁)。 所謂、トマス主義に対する評価を検討する必要のなかったラッツィンガーだったが、その分、ハイデガー、ヤスパース、ニーチェ、ベルクソン、ブーバーに加えて、オリゲネス、婚姻神秘主義、バルタザール、シャルダン、ラーナーから大きな影響を受けることになった。 イブ・コンガールは「危険な学識経験者たち」という記録に、ラーナーだけでなく、ラッツィンガーも数えている。 理由は何だろうか。 それは、一般に認められているように、司教の団体性に関する公文書の助祭職に関する最後の三行において、彼らが独身性について言及しなかったからである(同書307頁)。 プロテスタントからすると、絶句してしまう批判内容だが、ラッツィンガーが婚姻の秘跡を大切にしていることが伺える。 キリストの体としての教会、聖霊の宮としての教会を教えられることは多いが、キリストの花嫁としての教会が何故か強調されない。 神論において、愛の神、義の神、聖なる神は本質的な視点である。義の神はキリストの体、聖なる神は聖霊の宮に対応している。 それなのに私たちは、キズ付いたままであり、神の愛を信じることに困難さを覚えている。何故なら、婚姻がただの象徴以上の秘跡であることを、誰も教えてくれなかったからだ。 若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。 (イザヤ書 62:5 JA1955) |
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私たちは次のことをいつも心に留めておかなければならない。すなわち、イエス・キリストは私たちを癒しかつ救うことに関わるすべてにおいて、私たちを人格とし人間とする活動に専心しているのであって、断じて私たちを非人格的にし非人間的にする活動に携わっているのではない。その結果、私たちは、キリストとの関わりのすべてにおいて、信仰をもって人格的に応答することにより、以前には決してありえなかったほどに真実で完全な人間とされるのである(トーランス著『キリストの仲保』キリスト新聞社、8頁)。
『バルト初期神学の展開』で有名なトーランスの著作である。 冒頭、「この一連の講義の目的は、神学生、説教者、牧会者、そのほか教会の指導者や奉仕者が福音について神学的に考えることができるように助けることにあり、その結果、その多様な務めを果たすための福音の内容について、もっとしっかりした理解を持てるようにすることにある」(同書3頁)と、トーランスは書いている。 逆説的に言うと「神学的に考えること」と「多様な務めを果たすための理解」こそ、〈福音〉に不可欠だと述べている。もっとしっかりした理解を……!という風に。 キリスト教信仰は断じて「知性の犠牲」ではない。三位一体論や、キリスト論における両性論等、言語化することが難解な〈神秘〉は確かに存在するし、存在しなければならない。そして、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫、)。 しかしながら、「知性の犠牲」、若しくは「思考停止」は、キリストを信じる信仰の出来事と正反対である。 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 (マルコによる福音書 12:28-31 JA1955) τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?. 「思いを尽くし」の「思い」は「διανοια??」が使われており、「理解力」「思考力」等の「考える能力としての心」を意味している。 キリストは「理解力」「思考力」を尽くして、神を愛することを強調している。 もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 (コリント人への第一の手紙 14:14, 15 JA1955) ??ν γ?ρ προσε?χωμαι γλ?σσ?, τ? πνε?μ? μου προσε?χεται, ? δ? νο??? μου ?καρπ??? ?στι. τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?. 両方の節において、「知性」という言葉は「νου??」であり、「〈ψυχη〉の知性面」だが、「διανοια??」と殆ど同じ意味である。 神に対して、「霊性」に対置された「知性」で祈らなければならない。即ち、神との祈りは、私たちには「霊性」的と同時に「知性」的な関係なのだ。 霊性と知性の回復は、キリスト教信仰の人間観において、「人格的な応答」を可能にさせるものである。 但し、トーランスにおいては「人格的な応答」は、人間の応答責任でなく、「キリストの無条件の恵み」(同書9頁)に基礎付けられている。 その人間性におけるイエス・キリストは、「恵みのすべて」が「人間の無」を意味するのではないという事実を象徴している。まさにその逆であって、神の愛に対する人間の応答の自発性と自由においてこそ、十分で真正なる人間存在の回復が起こる(同書199頁)。 神を愛し、神に祈るために、「キリストはすべての人のために死なれた」という〈普遍的贖罪〉の教理を推奨し、〈限定的贖罪〉の教理に反対するもの、そのようにトーランスは批判されたらしい。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 (コリント人への第二の手紙 5:14 JA1955) 「キリストが全世界を同等に愛して世のためにご自分をお与えになったとすることが正しいなら、夫の花嫁とキリストの花嫁との相似関係は壊れてしまう」(パーマー著『カルヴィニズムの五特質』つのぶえ社、72頁)としながら、カルヴィニズムは〈限定的贖罪〉を以下のように主張する。 というのは、キリストが教会だけでなく──花嫁だけでなく──それ以外の人々のためにもご自身をささげるように、夫は自分の妻以外のものを愛し自分をささげなければならないという命令になるからである。これは聖書に反することである。聖書は夫が一人の妻を持つべきであると教えている(同書72頁)。 他方、古典的カルヴィニズムは、神の愛は様々に変容するという考え方が土台にあると思われる。神の選びという条件下でのみ、神の愛の変容は説明され得るという(エサウとヤコブのように)。 アルミニアンとカルヴィニズムとの対立は、どのように把握すれば良いのだろうか。 贖罪についてのこのような合理主義者の思考法はたいへん嘆かわしい。なぜなら、それが実際に行っていることは、キリストの血の効果を値踏みすることで、聖霊の活動を論理的な関係に置き換えようとするものだからである。キリストの贖罪死は、究極的に神の無限の存在に根拠を持つ聖なる秘儀(holy mystery)として、最大の崇敬と畏敬の念をもって探究されるべきである。贖罪の理由、その「なぜ」と「いかに」は、神の聖なる愛の中に隠されており、この聖なる愛の前では天使たちですら顔を覆い、私たちの詮索好きの理性からこの秘儀を保護するのである(同書10頁)。 そのような「説明不可能」の「奇跡」として、トーランスは以下の聖句を引用している。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 (ガラテヤ人への手紙 2:20 JA1955) |
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映画『ピアノレッスン』のサウンド・トラック。
過去にマイケル・ナイマンの「The Piano」を紹介されて、映画を観るよりも先に聴いていた。 このアルバムだけで十分だったため、正直、ずっと後になって映画を観ても、良い映画だったが、そんなに感動したわけじゃない。 好きなのは「楽しみを希う心」である。 音楽は贈り物であって、疲れ果てた者への心に直接響く。 |
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余に一生の志望があった。それは日本全国に向かってキリストの十字架の福音を説かんことであった。この志望は、余が明治の十一年、札幌において初めてキリストを信ぜし時に起こったものである(内村鑑三著『ロマ書の研究』教文館13頁)。
内村鑑三は冒頭、『ロマ書』の研究に付する序 において、自分自身の「希望」(志望)を明らかにしている。 「リバイバル」(Revival)という言葉が妥当するかどうか思案中だが、ロイドジョンズは「リバイバルとは、定義すれば、神の偉大なる働きであり、神の主権的なみわざなのである。したがって、何かに強制されて起こるものではない。人間は何もすることができない。神のみがそれを成すことができるのだ」(ロイドジョンズ『リバイバル』いのちのことば社、165頁)と述べている。 個人的には、私自身、キリストを信じて告白し、三位一体の神の御名によって洗礼を授けられて以来、キリストの福音による「リバイバル」を待望させられている。 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。 わたしはあなたを、異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく、イスラエルの家につかわすのである。 すなわちあなたがその言葉を知らない、異国語の舌の重い多くの民につかわすのではない。もしわたしがあなたをそのような民につかわしたら、彼らはあなたに聞いたであろう。 しかしイスラエルの家はあなたに聞くのを好まない。彼らはわたしに聞くのを好まないからである。イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情である。 見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。 また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」。 (エゼキエル書 3:4-11 JA1955) 言葉の問題は歴史的事象にリンクするが、「リバイバル」(信仰回復)と「リフォーメーション」(宗教改革)とは異なる。だが国内において、私たちは両方を必要としている。 ルターの宗教改革が、たんに教会の堕落を正すのを目的としていたなら、それは文字どおり「改革(リフォーム)」であり、「リフォーメーション」と呼ばれることはなかったであろう。それが「改革」を超えて、歴史を画するものにまでなったのは、人ひわとの信仰のあり方を根本的に変えるものだったからである。ルターが、あらゆる苦難と困難を乗り越えて成し遂げようとしていたのは、人びとの魂を支える「信仰の再形成」だったのである(徳善義和著『マルティン・ルター』岩波新書、122頁)。 だから、ペテロは、信仰者の思考停止を諌めている。 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。 (ペテロの第一の手紙 3:15 JA1955) 「あなたがたのうちにある望み」の「望み」とは、ギリシャ語の「ελπιδο??」(エルピドス)が使われている。これは他に「希望」「待望」「期待」を意味している。 一般的印象と辞書的定義の「希望」は「そうしたい,そうありたいと思っている事柄」という意味であろう。 自分がそうしたい、自分がそうありたいと、私たちは絶えず自分自身の願望、即ち、内なる欲望を最優先にしてしまう。 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。 (出エジプト記 20:17 JA1955) 七十人訳ギリシャ語旧約聖書(LXX)では、第十戒が「ουκ επιθυμησει??」(ウク エピシミシス)という言葉で始まっており、「禁じられたものを切望してはならない」と、冒頭から原罪が書き出されている。 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 (創世記 3:1-7 JA1955) しかしながら、それらの人間的願望が私たちに生きる意味を与えることはない。何故なら、内なる欲望は「貪欲」(επιθημιαの単数形・対格)以上でも以下でもなく、私たちを裏切ってしまうからだ。 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 (コロサイ人への手紙 3:5 JA1955) では「貪欲」を処理する神の方法は何だろうか。言うまでもなく、自分自身の方法に関して、私たちは徹底的に砕かれ、破れ果てていなければならない。 神の方法は「貪欲を殺してしまいなさい」(口語訳)である。別訳は「むさぼりを殺してしまいなさい」(新改訳)、「貪欲を捨て去りなさい」(新共同訳)、「この地上に属する部分を死なせなさい」(フランシスコ会訳)となっている。 しかしながら、それらの訳は、誰が、何が「貪欲を殺し捨て去るのか」を明確にできていないという共通点がある。だから、私たちは自分自身の力で「貪欲」を捨て去ろうと頑張ってしまうが、罪を殺すことを果たせない。 実は、「殺してしまいなさい」は「νεκρω」(ネクロー)という言葉であり、「死んでいる現実を認める」「地上にあるこの五体が既に死んだものであることを見抜け」という意味。直訳は「地上にあるこの五体が既に死んだものであることを見抜け」となる。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 (ローマ人への手紙 8:13 JA1955) 自分自身で罪を、貪欲を、内なる偶像礼拝を捨て去ること、殺すことは絶対不可能だと「知ること」から、純粋な福音信仰へと、信仰者は覚醒していくのである。 キリストとの結合の真理を語る時に、残念なことには、自分自身が死んだと認める第二の段階を強調しすぎる場合がはなはだ多いので、あたかも、それが出発点であるかのような錯覚を与えます。しかし事実は、自分自身が死んだと知ることに強調点が置かれるべきです。……私たちは知った時に、自発的に認めるのです」(W.ニー『キリスト者の標準』いのちのことば社、60頁)。 W.ニーによれば、自分自身が死んだという「啓示」を「知ること」が、聖化の第一段階となっている。 では自分自身の磔殺(たくけい)に関する信仰は、いつ与えられるのでしょうか。それは、「神が可能にすることができる」とか、「可能にされるだろう」とか言ってる時ではなく、喜びに満ちて「御名を讃美します。私はキリストにあって、十字架につけられています」と言う時です(同書68頁)。 ロイドジョンズは、神の方法に関して、何を語っているだろうか。 では、何が真の方法なのだろうか。使徒はは明白に語っている。「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら」──「御霊によって」である!御霊がことさらに言及されているのは、もちろん、御霊の臨在とみわざこそ、真のキリスト教を示す格別で独特な目印であるためにほかならない。……すでに見てとった通り、聖霊はキリスト者である私たちのうちにおられる。キリスト者でありながら御霊を宿していないことはありえない。人がキリスト者であるとしたら神の聖霊はその人の中におり、その人の中で働いておられる。事を行えるようにし、強くし、力を与えてくださる。主イエス・キリストが私たちのために実現してくださった大いなる救いを「仲介」し、私たちがその救いを達成できるようにしてくださる。それゆえ、決してキリスト者は、自分にはできません、力がありませんと不平を言ってはならない。キリスト者が「私にはできません」と言うのは聖書の否定である。聖霊が常にうちに住んでおられる人は、決してそのような言い回しを口にしてはならない。それは自分自身について言える真理の否定である(ロイドジョンズ著『ローマ書講解8・5-17』いのちのことば社、272頁)。 聖書を確認しておこう。聖霊と信仰に満ちた人間として、信仰の回復と再形成を、神は必ず得させて下さる。 モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。 主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいにだれがするのか。主なるわたしではないか。 それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。 モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。 そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。 あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。 あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。 (出エジプト記 4:10-17 JA1955) それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 (マルコによる福音書 10:23-27 JA1955) |
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われわれはこの移りゆく世界に生を享け、人間として、言語的知性的存在者として生きているが、同時にまた、己れの在ることの根底においていわば無に接していると思われる。すなわち、とにかくも存在し生きていることは事実だとしても、われわれは今、ここにあって時々刻々と生成変化の波に晒されており、常に非存在への傾きを、そしてさらには無を抱え込んでいるのである(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、3頁)。
「存在と無」という主題は深淵であり、汲み尽くすことができない。だが、著者の問題意識は、〈存在〉を思弁的・固定的に把握せず、「時々刻々と生成変化の波に晒されて」いるものと考えている。 存在の生成変化と言えば、プロセス神学を即座に思い出す。 伝統的形而上学のむしろ静的な世界観(「実体」とか「本質」といった言葉で表現される)に対する反動として、ホワイトヘッドは過程(プロセス)としての実在を考える。有機的な全体としての世界は動的なものであって、静的なものではない。世界は生起する。実在は「行動的存在」あるいは「行動的機会」という構成物から成っており、それゆえに生成・変化・出来事という特徴を持つ(マクグラス著『キリスト教神学入門』教文館、194頁)。 存在すること = 無を抱え込むことは、自明的・日常的な出来事ではない。 してみれば、「わたし・自分の在ること」は、どこまでも有限で可変的なわれわれにとって決して解消されることのないアポリア(難問)であり、われわれはこの世において、いわば「存在と無との間」に置かれているのだ。ただし、後の論述をいささか先取りして言えば、そのことは、単に対象化された「存在」と「無」との間にわれわれがいるというよりは、むしろわれわれが、ほかならぬ自らの意志によって「真に存在するもの(神なら神)に聴従し、それに与ってゆくか」、それとも「意志的背反によって、在ることの欠如を自らに招来させてしまうか」、という分水嶺に立っていることを意味しよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、4頁)。 だからこそ、自分自身という存在の自明性を喪失し「非存在への傾き」に気付く時、私たちは自分自身と、他者との関係からの「疎外」を経験する。 いずれの場合にも、問題は、自明性のもつ自然さということに、つまり、間主観的に構成されたものとしての生活世界に根をおろす仕方にある。「自明な」ということばは、ともにその点を指しているが、重点のおかれ方が違っており、前者はどちらかといえば現存在の超越論的主観性にかかわる構成を、後者はむしろ、現存在の超越論的客観性にかかわる構成を強調している。したがって、自然さという概念の方が、より根本的だということになる。この概念は、人間が住まうということにかかわる自然な先験性を、つまりその本来の場所(シラジ)を示し、同時に、それと近縁の正常性という概念の超越論的客観性にかかわる規定への道を開いている(ブランケンブルク著『自明性の喪失』みすず書房、227頁)。 自分自身が存在するのは、神に対する信仰がなければ、曖昧な事柄に留まるに違いない。 この点、総じて言えば、それらが突きつけてくる難問は、ある意味では、与えられた自然・本性(ピュシス)の秘密に恐らくは何らか「自然・本性に反する仕方で」踏み込んだために、いわば自然そのものからの逆襲として人間が抱え込んでいる負荷だとも看做されよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、5頁)。 曖昧不明瞭が嫌で、明晰さを求めても、超越論的主観性の中、不自然な自明性に至ることもあるかもしれない。 患者・彼は絶対に私を愛しています。 医師・何故ですか? 患者・だって私が愛しているから。 自明性の自然さは、超越論的客観性、即ち、閉鎖的自己から、外部へと開かれていく過程で得られるものだ。 ともあれ、そうした事柄には、自己と他者との関わりがおのずと影を落としている。が、さらに言っておくとすれば、およそ問題の根底には、われわれの「自己自身との関わり」が、また同時に「超越的なもの、無限なものとの関わり」が、何らか重層的な仕方で現前しているであろう。言い換えれば、そこには、「自己」と「他者」と「絶対他者(神なら神)」という三者の微妙な関わりが存していると予想されよう(谷隆一郎著『人間と宇宙的神化』知泉書館、5頁)。 序章は、どのような本でも難解なものである。通常、本論を脱稿してから、内容をまとめるため、最後に執筆されるからだ。加えて、マクシモスの著作を殆ど読めない問題点もある。 だから、可能な限り、他の著作との連携の中で読んでいくつもりだ。 |




