|
「神を哲学した中世」の中で、キリスト教神学へのアリストテレス主義が流入したことが記述されていた。
イスラム社会のアリストテレス哲学の解釈(質料形相論)が、そのまま中世神学の形成に影響を与えたのである。 アリスター・マクグラス著『神学の喜び』(キリスト新聞社)において、マクグラスは『神学大全』と『キリスト教綱要』を古典とし、トマス・アクィナスとジャン・カルヴァンを紹介している。 現代なら、カール・バルトとカール・ラーナーの著作が推奨されます。 これは「神学者たちの著作を読み、探究方法、見解の発展、議論の評価」を、神学研究のアプローチとしているから。 その後、「歴史的アプローチ」として、「使徒的時代」「教父時代」「中世時代」「宗教改革時代」「近代的時代」が簡単にスケッチされます。 ちなみに、『神学の喜び』の原題は「神学、その基礎」です。マクグラスは「主題別」アプローチを採用し、「聖書」「伝統」「信条」「理性」を列挙し、神学における使徒信条を基礎に「神についての語り」が実行されることになります。 比較的、簡単な内容に見えますが、基本的前提とされる膨大な知識は、やはり、ヨーロッパ的、キリスト教国家的なものです。 ですが、神学の基本書なので、私たち日本人にとっては、非常に不可欠な思考過程を提示していると言えます。 何故なら、私たちは神学的に考え、自らの信仰を「体系化」することに不慣れだからです。 |
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
詩篇62:10-12 口語訳
62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。 62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。 62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。 詩篇62:11-12を、ある問題との関連で、主から与えられたのですが、祈りながら少し釈義してみました。 わたしは普段、聖書は新改訳第三版を使っていますが、62:12は「恵み」と訳されています。 でも、妙に気になる!(▭-▭) スチャ まず、ギリシャ語訳70人訳聖書(LXX)を調べたら、「ελεο?」(エレオス)となっていました。「慈悲」「憐れみ」「同情」という意味。英語だと「mercy」です。 新改訳第三版の「恵み」だと、ギリシャ語の「χαρι?」(カリス)が使われるはずで、英語なら「grace」ですね。 実際、口語訳でも、新共同訳でも、フランシスコ会訳でも、「ελεο?」を「慈しみ」と訳出しています(KJVでも、mercy)。 主はあわれみと慈しみに満ちた御方。 わたしたちは「神の偉大な支配力」(κρατο?=クラトス)の代わりに「圧制」「暴力」に頼ってしまう。 「神の慈しみ」よりも、むしろ、「かすめ奪うこと」「富の増し加わること」に望みを置いてしまう。 「神の力」「神の慈しみ」は、一度、確かなものとして告げられるものですが、それらを受け取るわたしたちは二度に限らず、何度も聞き続ける必要があります。 神の言葉を「力」と「慈しみ」として、キリストを通して聞き続けていきましょう。 ローマ書10:17 口語訳 10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 |
|
八木雄二著『神を哲学した中世』(新潮選書)を読了。
著者は、わたしがお世話になっている東京キリスト教神学研究所の所長さんです。 最初から最後まで、この「一般向け」の本は、神学することの喜びを再確認させるものでした。 八木先生は、あれだけ博識で実践家で、キリスト教信仰と神学に造詣が深いのに、ど〜して、キリスト者にならずに「孤独」と「(神の摂理としての)ボランティア」に生きるのか、不思議に思います。 第7章・中世神学の精髄は、著者の専門であるヨハニス・オリヴィの学問論と受肉論でした。 最終章になると、大体の本は速読できますが、『神を哲学した中世』の内容には、死角がありません。何度も読むのに値する本だと思います。 中世をあまり知らないプロテスタントは、謙遜にさせられます。 |
|
「痛み」は、肉体というより、自分自身の存在と不在の分岐点に直結していく。
自分自身の存在が不在であるというのは、ハイデガー的な意味の「〜である」ことの述語的な問題ではない。 不在というのは、認識だとか言語などの、人間の本質を暴露する。即ち、すべてにおいて、神から離れた自然的な私たちは「欠損」状態にある、ということだ。 稀に、非・必然的な仕方で、そのような「欠損」が修復される場合もあるが、それは神の奇跡、同じことだが、神の主権的恩寵である。 スコトゥスは、神の啓示が明らかにされなければ(神の啓示が理解される可能性の下でなければ)、必然的に私たちは「無限なるもの」に開示される。 そして、「無限」は「痛み」を永劫に循環させる楔となってしまう。 肉体的「苦痛」と同時に、霊性の「呻き」に限りがなくなると、死にたくても死の方が逃げていく。 しかしながら、「三位一体の神」という「啓示」は、私たちを「存在するもの」に開示させる。何故なら、三位一体の神の「痕跡」は、信仰者の内に刻まれているからだ。 となると、「痛み」と「私たち」の関係は、直接的でなく、常に間接的なものだと判明する。 キリストにあって「苦痛」は、自分自身の唯一独自の経験(論)としてでなく、「追体験」として概念把握される。 だからこそ、律法(νομο??)の牢獄に閉じ込められた、罪の自覚と方向転換を知らない、自然的な「私」(εγω)は廃棄される。 だが、その後の「私」は漸進的に、新しく存在すると同時に、三位一体の神の愛に、超自然的な仕方で触れられる幸いに与る。 それ故、無限の苦痛の中でさえ、神の愛に「包括」されて、御翼のかげに隠される真理に直面して生きていく。 そのようなわけで、他者の「痛み」を、自分自身の隣人の「痛み」として、「無限なもの」でなく、「存在するもの」として引き受け、愛することは、聖霊の御思いの故である。 |
|
闇に陥ること、しばしば。。。
言葉も乱れ、錯乱した思考に疲れ果てるが、何とも不思議なことに「終わり」はない。 キリスト教神学は私には、決して体系化されたものとして現前しなかった。何故なら、神学者の学説に過ぎないものを私は知らなかったし、これからも同じだから。 あえて言うならば、断片として残されている神学的思考の散乱こそ、自分自身の声なき声であった。 最近、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスという神学者に魅力を感じている。彼がどのような人物で、何を考えていたのかを、私は全然知らない。 表層的には、トマス・アクィナスとスコラ哲学の正統的な後継者であり、アリストテレス哲学を利用した、中世の神学者だ。 しかしながら、彼が探究した(と思われる)神の愛と、神の愛に至る過程を僅かに辿るうちに、ステレオタイプに教えられてきた「神の愛」という言葉が、自分自身の存在に受肉したような感覚に襲われた。 本当の意味で私は、神の愛を知っていただろうか?という不安は即座に打ち消される。 何も知らないまま、スコトゥスの、否、中世の神学的霊性にすっかり魅了されてしまった。 何故だろう? 一見、思弁に過ぎないように思っていたから、真剣に学ぼうとしたことはなかった。 それなのに今、難解な文章の中に、新鮮な風が吹きつけるような経験をしている、即ち、私は「知らなかった」のである。 カール・バルトは『ローマ書』の序文で同じようなことを書いているのではないか。神の言葉は彼にとって、未知のものとして啓示されたのであろう。 驚愕から何かが開始されるとすれば、それは哲学でなく、明らかに神学的霊性による探究である。 スコトゥス自体に関心があるかどうか、私は自分自身でもよくわからない。 だが、スコトゥスが祈り、考え抜き、聖書と世界から何かを味わったなら、是非、私もその「何か」を経験したいと望む。 新しい声を得ることが可能だろうか? |




