日付: 5月28日(土) 聖書: ヨハネの福音書 4:43−54 「二日後」、イエスはサマリヤを去って、ガリラヤに戻ったわけだが、「尊ばれない」ことを承知で帰ったのである。 確かに、過越祭に行っていたガリラヤ人は歓迎したが、その理由はイエスの行われたしるしを見ていたからだ(2:23)。 「預言者」とは、神の言葉を託された者だが、人々から歓迎されることを通して「尊ばれない」。 何故、主はガリラヤに戻ったのだろうか。 正確には、ただ単に故郷に戻ったのではない。私たちは何の考慮もなく、故郷に帰ってしまうに過ぎない者だし、主の導き抜きに安全地帯でリラックスしようと思う。 主はガリラヤのカナに行き、第2のしるしをすることが目的だった。死にかかっていた子どもを直したという奇跡である。 主が言われたように、私たちは「しるしと不思議」を見なければ決して信じない。 しかし、王室の役人は「主よ」と語りかけている。 キリストに対する信仰は、「しるしと不思議」によって得られものではないし、王室の役人の信仰も不十分なものであった。私たちの信仰が不十分であるように。 しかしながら、「主よ」と御名を呼び求めるならば、主の言葉と時によって、私たちは信仰の助けを奇跡から与えられるに違いない。 キリスト・イエスは、信仰を私たちに得させるだけでなく、信仰の助けをも、奇跡として与えて下さる御方である。 だから、神の奇跡だとか、問題解決、対人関係の改善等を得ようと頑張ることは空しい。 自分自身、或る方に対して、憤りと不満を持っていたのだが、人間的にそれを解決しようとしていた。 何せ、自分の中の善悪の基準で考え、判断していたのだから確かな行動に移せると思い込んでいた。 だが、主は先回りして、すべての備えの第一歩を与えて下さった。 もはや、自分が何かを変えようとすることは不要である。 主は必ず、その方を義の道に引き戻して下さるであろう。
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