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あまりにも傷付いてしまい、「自分自身が何故、批判されているのだろうか」と問うこと、若しくは、疑うことを断念するのは、非常に簡単なことである。批判という言葉は、近頃、評判が良くないが、自分自身に対する疑惑や不安を、攻撃性だとか、霊的逸脱、神学的離反等に還元することが可能だと思っているならば、相当の楽天家だと考えられる。 リラは、あくまでも自分自身の事柄として語りたいと願う。しかしながら、同時に、現在でも被害者として苦しんでいる方々、キズの癒しが必要な方々が、神の最善の時に立ち直って欲しいとも思っている。 何が悪くて、誰の責任なのかと、あまり難しいことを議論している暇があるならば、他者の批判からでさえ、神の恵みを味わうことが可能だと知るに違いない。 批判とは、自分自身に対する断罪と教導である。 自分は悪く思われているかもしれない、と思い込むことは、誰にとっても簡単だが、基本的にリラは、個人攻撃をしない。何故なら、矛先が自分に向けられてしまうからだ。 ところが、例外はある。穏健にではあるが、説得しようと、何気なくすることはあるだろうし、明白な形で示すこともある。何故なら、自分の目前に、キズだらけの天使たちがボロボロになっているからだ。 傲慢不遜だったのかもしれない。 牧師や役員会の言うことを拒絶した可能性だってある。 十戒の幾つかを破ったと言うならば、全員であろう。 教会に所属していても、神の言葉に飢え渇き、聖霊の交わりを慕っている方々が放置されている。 批判されるならば、まだ良いと思う。何故なら、人格的な関係の中で、一致の望みがあるからだ。 一番、酷いのは無視されること。 確かに、キリストを信じていても、受容不可能な方々は存在するだろうし、性格的に合わないことも数知れない。時に、自分自身を制御できなくなって、逆ギレして、己の罪の恐ろしさに対して麻痺状態になってしまうことが、日常茶飯事なのではないか。キリストの十字架の贖罪があるからこそ、信仰者であると同時に、罪人の最たる者であることが、いよいよ、認識されなければ、福音の真理に立っているか否か、疑わしい。 一人からだけではなく、打ち合わせもしていないのに、沢山の批判に遭遇した時、リラも弱い人間なので、感情的に落胆したり、憤ったりもするのだが、自己義認の罪によって、ジタバタした後は、祈りに専念したり、古い価値観を方法的に懐疑する。 キリストを信じる信仰者として、ありのままの自分で良いなんて、福音でもなんでもない。批判されて無視されて、暴れてしまうしか表現方法がない、霊的な子どもなのかもしれないが、そのような方々はきっと、キリスト教的希望に関して、無知というよりも、キズだらけの経験しか重ねることができなかった、可哀そうな人々なのだ。 だからこそ、キリストを信じる信仰者である私たちは、キズだらけの天使たちに向かって、慰めの言葉を、批判の後で語り続けなければならない。 そんなに無理しなくても良かったのに。 共に歩む道は同じなのだから、無理をせずに行きましょう。 キズの癒しが与えられるまで、祈っています。 だけど、相手にも激しい苦痛を与えたのだから、神の慈愛に導かれて悔い改めていこう。 神学的方向が異なり、対人関係のレベルでは最悪だったとしても、キリストを信じて救われた神の家族である事実は、地域が違っても、対立していても、誤解し誤解されていても、無視していたにしても、絶対に変わらない。 批判・キズ・無視の中でも、神の愛が絶えることは決してない。 あなたは、神の愛を信じていますか。。。
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2012年01月18日
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コイネー・ギリシャ語に関しては、何も知らないわけではなく、日本語と英語の各翻訳聖書を調べてから、インターネット・ツール(英語)を使い、ギリシャ語小辞典(織田昭著)を使う、そんな釈義をしていた。「コイネー」とは「共通」という意味だ。 更に、高い精度を保ちたいと思い、この学びを継続したいと思う。 既存の神学校を卒業しないことの弱点は、語学を学べないことである。一方、神学や聖書解釈、奉仕技術等は、リラの受けた教会訓練で十分過ぎる。モノになってはいないが…。 但し、神学校にせよ、教会訓練を受けるにせよ、神からの召命は、すべてを備えて下さるわけで、事前準備させる。魂の収穫だったり、神学や語学の独学などである。 説教する・宣言するという務め(ギリシャ語・ケルソー)は、みことばを福音として伝える働き(同上・ユアンゲリゾー)と違い、更に専門的であるべきだと思う(使徒8:4-5)。 聖書釈義と聖書解釈は、非常に大切だが、将来的に聖書解釈学の方法論、解釈学を習得したい。何が良いのかは知らないが、ガダマーの著作から開始しよう。ポール・リクールの方が良いのだろうか?解釈学で推薦図書があれば、何冊か紹介して下さると有り難いです。 |
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主だけに頼って導かれた行方は、「シンプルチャーチ」の教会論。 制度的な地域教会を越えた、最先端の教会論です。香港のベン・ウォン牧師が有名ですが、アメリカでも複数のリーダー的な指導者が存在します。日本でさえ、複数のハウスチャーチ・ネットワークが存在し、伝統的な諸教会、カリスマ系の教会、セル・チャーチに引き続いて、新しい教会群として形成され始めています。福田充男牧師(日本福音主義神学会西部部会理事)などが代表的な指導者です。 フラー神学校は「教会成長論」を、自らが否定する見解を示しています。「メガ・チャーチが出現した地域を調査すると、特定教会の教会員は増加するが、地域全体のクリスチャン人口は減少してしまう」という、科学的な統計結果から公表せざるを得なかったのです。 従来は「家の教会」(=家庭集会)、「ハウスチャーチ」と呼ばれていましたが、最近では「シンプルチャーチ」「オーガニック・チャーチ」とも言われています。 誤解してはなりませんが、古典的なサイバーチャーチから発展した仮想的な教会、「エマージェント・チャーチ」や「エマージェンシー・チャーチ」とは関係ないということです。これらのサイバーチャーチ・スタイルは、インターネット・ツールに頼り過ぎの傾向があり、PCの前で、イコン(聖画)や香をたくこともあるそうです。十字架などを祈りに使用したり…。個人主義の霊性と儀式を強調します。 それらのムーブメントに対して、シンプルチャーチは、全然、別のアプローチです。基本的に、聖書的な教会像を回復させようとします。「あなたの家にある教会」という表現が、聖書に見受けられますが、初代教会は現在のように、教会堂を確保するほど裕福でもなかったし、迫害・弾圧されていたので特定の場所にこだわらずに、移転しながら集まって礼拝していました。 その中でも、自分の家を集会場所として、礼拝を捧げていました。使徒・預言者・伝道者・教師たちが訪問して教えたことも多かったようです。 迫害下の中国で、急速に「家の教会」が発展したことは理解できますが、それぞれの「家の教会」にネットワークや交わりは殆ど存在しないようです。何故なら、ネットワークを構築したら、一つの「家の教会」が弾圧を受けると、ネットワークの教会情報が漏洩する可能性があるからです。その代わり、「家の教会」では、礼拝説教があり、説教と説教者の優位性が確保されていることが強さの秘訣なのでしょう。 一方、アメリカで発展した「ハウスチャーチ」は、既存の制度的な地域教会では、霊的なニーズと信仰生活が満たされず、自分たちで礼拝を捧げるスタイルです。「家の教会」と似ていますが、「ハウスチャーチ」では、ネットワークを構築し、友情関係、情報交換、合同礼拝など、神の愛の交わりを保つことを大切にしているように見えます。リーダーは不在で、聖書を対等な立場でシェアリングするのが中心ですから、ウェスレー時代の敬虔派のスタイルに似ているかもしれません。 シンフォニーチャペルの「シンプルチャーチ」の考え方は、「家の教会」と「ハウスチャーチ」の長所を統合させました。ネットワークの構築で地理的距離を克服し、孤立と疎外感を回避するためにセレブレーション(祝典礼拝・合同礼拝)を具体的に準備・実践すること。説教と説教者、奉仕者の職務を明確にしながらも、リーダー(=上に立つ者)ではなく、サーバント(=しもべ)として「仕える者」たちが、聖徒たちを「奉仕者」に導くことを目的としています☆ そのための具体的な方法としては、夫婦・家庭礼拝と子ども礼拝の回復を実行しています。 その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す(旧約聖書・アモス書9:11)。 「シンプルチャーチ」は、既存の保守的・制度的な教会を、絶対に否定しません。逆に、暖かい愛情に満ちたネットワーク、友情関係を大切にしていきたいと願っています。 だけど、礼拝の中心は神奈川県・愛知県・千葉県のシンプルチャーチ・ネットワークなのです! シンフォニーチャペルでアレンジした「シンプルチャーチ」の教会論に関しては、次の機会にまた新しい記事を投稿したいと思います。 *上記内容は、過去記事を若干校正したものです。現在の考え方と異なる内容も含んでいるかもしれませんが、参照記事としてアップしました。
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