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定立(テーゼ)に対する反定立ほど、厄介なものはない。ところが、反定立を認識する過程は、個人的作業じゃない。あくまでも、仲間たちとの関係によって教えてもらうことなのだ。 言われたくない事柄だって、自負と偏見が強い私たちには多い。だから、教えられること/教えることの地平を、一旦、突き放すならば、相手に質問することを大切にしたくなる。 キリストに問うことで、何を得られるのだろうか。無論、リラの望む答えが与えられることではない。 何かを問うことは、相手を信頼するに等しい。信頼抜きの質問は、ただの批判であり、中傷に過ぎない。 一人で何かが可能だとは思わない、とゆうか、思えない意識は、自己卑下でなく、ヨブのように「友情」を慕っている自然の感情なのであり、断じて否定することはない。 先日、リラは或る場所に行ったのだが、そこは最大の罪の場所であった。 過去、誰もがリラに、そこに行ってはならないと叱責した。機会は何度もあったが、時を逃していたわけである。 絶えず、罪意識に悩まされて、真の意味で罪が赦されている存在感覚がない年月を送っていた。 神の測り知れない計画があったに違いない、そのように現在では断言可能だが、当時は、激しい霊的苦痛に悩まされていた。 居場所。神が備えられた仲間たちとの関係が結ばれる絆である。 神の愛に至る方向転換は、キリストに対する復活信仰のサインである。 疲れたり、諦めそうになったり、自分自身を責めたり、すべてを責任転嫁で済ませようとするならば、反定立は残存したままであろう。 日々、私たちは、キリストの十字架を仰ぎ見て、罪意識が除去されたことを思い出したい。 忘れてはならないが、自分自身を過度に責める時、あまりにも疲労困憊であることも多い。憩いと安息に加えて、友情があるならば、神の霊が助け手を絶対に届けて下さるはずだ。 時が満ちるまで、安易に、対立の統合(ジンテーゼ)してはならない。神を待ち望もう。 |
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2012年02月20日
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