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旧約聖書アモス書。
5:4 主はイスラエルの家にこう言われる、「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ。 5:5 ベテルを求めるな、ギルガルに行くな。ベエルシバにおもむくな。ギルガルは必ず捕えられて行き、ベテルは無に帰するからである」。 5:6 あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のようにヨセフの家に落ち下られる。火はこれを焼くが、ベテルのためにこれを消す者はひとりもない。 5:7 あなたがた、公道をにがよもぎに変え、正義を地に投げ捨てる者よ。 5:8 プレアデスおよびオリオンを造り、暗黒を朝に変じ、昼を暗くして夜となし、海の水を呼んで、地のおもてに注がれる者、その名は主という。 5:9 主は滅びをたちまち強い者に臨ませられるので、滅びはついに城に臨む。 5:10 彼らは門にいて戒める者を憎み、真実を語る者を忌みきらう。 5:11 あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から麦の贈り物をとるゆえ、あなたがたは切り石の家を建てても、その中に住むことはできない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲むことはできない。 5:12 わたしは知る、あなたがたのとがは多く、あなたがたの罪は大きいからである。あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。 5:13 それゆえ、このような時には賢い者は沈黙する、これは悪い時だからである。 引用は、聖書口語訳から(著作権がきれているため引用自由)。マナタイムは、基本的に聖書新改訳(第三版)を使っている。 「神を求めて生きよ」という言葉が印象に残った。そうなのだ、現在のリラは、神以外の何かを求めて無に帰そうとしていた。 抱えている問題が何であれ、神を求めながら生き抜くことを、アモスは励ましている。ベテル、ギルガルは、北イスラエル王国の主要都市、聖所であり、偶像礼拝の地でもある。 旧約聖書列王記上。 12:28 そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。 12:29 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。 12:30 この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、ダンへ行って一つを礼拝したからである。 ソロモンの子レハブアム王と対立したヤロブアムの罪の描写だが、南ユダ王国から分裂させるため、ヤロブアム王は、ベテルに「金の子牛」の一つを設置したのである。 神殿は当然、南ユダ王国のエルサレムに存在したのだが、ヤロブアムは神に対する礼拝を邪魔しただけでなく、偶像崇拝にすり替えてしまった。 自分自身の中にも、偶像崇拝がある。教会形成であったり、健康だとか、安定した収入等だ。 しかしながら、それは「罪」であり、神を求めて生きることから、遠く離れている。絶望したり、諦めたくなるのも無理はない(その場合、祈れなくなる)。罪は死に至るのだから。 ベエル・シェバは、南ユダ王国に属している。北イスラエル王国は、確かに人工的な宗教国家であり、南ユダ王国のエルサレム神殿で礼拝すべきだった。 しかし、アモスは北イスラエル王国に対する預言者だったにも関わらず、南ユダ王国のベエル・シェバにも語っている。 新約聖書ヨハネの福音書。 4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 キリストに結ばれているならば、聖霊によって一体とされているならば、神を礼拝する「場所」自体の区別が無効とされたことに気付く。 神を求めること以外には、何の正統性もないし、偶像崇拝に脱落してしまう生き方である。自分自身の「欲望」「貪り」という罪は増し加わるばかり。 新約聖書コロサイ書。 3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 聖書は先ず、祈りに導き、次に聖書の言葉に固着させて下さった。神の言葉にこそ、永遠の命が秘められている。キリストを慕い求める道は、祈りから神の言葉をきちんと咀嚼することだ。 アモスは8節で、神の創造を語っている。だから、主を求めて生きよという第一戒に加えて、創造信仰が前提となっている。それらの預言は、神に対する罪の数々を具体的に、特に貧しい者に対する不正を糾弾している。 13節は、不思議なフレーズに思えた。しかし、時代の悪、人間の罪に対して、キリストの「沈黙」が対置されている。 神に対する罪は、神によってすべて知られている。ただの罪ではなく、重い罪である。 キリストの十字架直前の沈黙に、身を投じていきたい。どんな訴え、誹謗中傷にも答えることのない「沈黙」。 新約聖書マタイの福音書。 26:63 しかし、イエスは黙っておられた。 |
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或る方々は、神の目的が大事だと教え、他の方々は聖霊が重要だと強調する。共同体の交わりこそ、既存教会が回復させる使命だと考える方々もおられる。
すべてが大切なことであろう。リラも、学び続ける必要がある。 だが、シンフォニーチャペルの祭壇が廃墟から回復されるためには、祈りと悔い改めが不可欠である。最近、そんな気持ちばかりになっており、希薄な意識に倒れそうになる。 すると、バプテスマのヨハネの言葉を思い出した。「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない」。 一対一の関与において、徹底的に弱さを覚え、下に落ちることを、牧会哲学にしてきたのだが、更に、リラ自身、どこまでも衰退していき、打ち砕かれていかなければならない運命。果たして、信仰で受容できるだろうか。 主の言葉は確かであり、偽りはない。 時々とゆうか、ほぼ毎日、虚脱感に襲われ、不安に怯えている。そんなリラに、主は未だに語りかけて下さる。神の愛の故に、人間的には厳しい言葉を。 リラに限らず、すべての人間は虚偽であり、神だけが真実な御方である。訓練生時代に、嫌と言う程、聖霊に叩き込まれた教えである。牧師、スタッフ、訓練生、教会員の誰からも教えられたことのない真理だ。 だからこそ、今でも、キリストを信じ続けていると断言できる。神の真実はキリストとの関係に導き、その愛から離れさせないのである。 思えば、絶えず、リラは神から離れた者であり、罪を悔い改めるに遅い者だ。 それなのに、真実なる神は、リラの躓きをご存知の上で、信仰を与えて下さっている。もはや、十字架以前の「あなたの信仰」と言われる私の信仰ではなく、キリストが完成して下さった信仰である。キリストの信仰に与ることは、キリストと霊的に一体となることだ。 私の信仰には、常に躓きが伴っており、主は躓きさえも、キリストの信仰に包含して下さったのだ。 その意味で信仰義認は、躓きの問題を直視しなければならない教理となる。 信仰と躓き、リラには両方が混在している。どちらか片方に偏ってしまうから、苦しくなってしまう。 神の真実と躓きの問題を直視しながら、改めて、リラは没落していかねばならない。神の前で一層のへりくだりが与えられますように。 |
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