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旧約聖書・アモス書。 6:8 主なる神はおのれによって誓われた、(万軍の神、主は言われる、)「わたしはヤコブの誇を忌みきらい、そのもろもろの宮殿を憎む。わたしはこの町とすべてその中にいる者を渡す」。 6:9 一つの家に十人の者が残っていても、彼らは死に、 6:10 そしてその親戚、すなわちこれを焼く者は、骨を家から運びだすために、これを取り上げ、またその家の奥にいる者に向かって、「まだあなたと共にいる者があるか」と言い、「ない」との答がある時、かの人はまた「声を出すな、主の名をとなえるな」と言うであろう。 6:11 見よ、主は命じて、大きな家を撃って、みじんとなし、小さな家を撃って、切れ切れとされる。 6:12 馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。ところがあなたがたは公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた。 6:13 あなたがたはロデバルを喜び、「われわれは自分の力でカルナイムを得たではないか」と言う。 6:14 それゆえ、万軍の神、主は言われる、「イスラエルの家よ、見よ、わたしは一つの国民を起して、あなたがたに敵対させる。彼らはハマテの入口からアラバの川まであなたがたを悩ます」。 通読箇所は、アモス書6章全体であり、当該聖句の前に、1〜7節までを読んでおかないと誤読する可能性がある。 誤読とは、即ち、神の怒りだけに焦点を合わせる読み方のことだ。 確かに、主は、私たちの「誇り」を忌み嫌い、「その宮殿」を憎むと言われている。また、「あなたがたは公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた」(12節)とも語られている。 そして、私たちは、神の前で「罪」に引き渡されており、悔い改めて、立ち返ろうとしない。 神の怒りは、人間の罪に対置されているが、本来、南ユダ王国の「シオン」(1節)、及び、北イスラエル王国の「サマリヤ」(1節)に、アモスは預言している。「ヨセフの破滅」(6節)、「最初の捕らわれ人として引いて行かれる」(7節)は、北イスラエル王国の滅亡が示されている。 前半を読むと、イスラエルとユダに対して、神が絶望的なまでの愛を示しておられる。本当は、破滅のことで悩んで欲しいのである。捕らわれ人として引いて行かれてはならないのだ。 神に対して、経済的にであれ、宗教的にであれ、地上の繁栄を謳歌する様は儚いものである。それなのに、私たちは、わかっていながら、神に導かれて歩むことを拒絶する。 新約聖書・ヨハネの福音書。 1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 例えば、異端の方々は、我こそは真の教会であり、他の地域教会の存在を否定し、関係を拒む。カトリックとプロテスタント、それら以外の諸教会は、多数に分かれているが、霊的に別れているわけではない。真の教会は、天上の教会であり、更に言うと、神の国の完成である。 改革と批判は大事なのだが、異端とは、自分自身の怒りだとか、不満によって、教会を思い通りにしたい誘惑に敗北し、聖霊ではなく、異なる霊、例えば、複数形の「精霊」という言葉を使う。且つ、我こそは真のキリスト者として「悟り」を開いたと自称するのだが、神学的に、若しくは、聖書によって、正統性を告白できない特徴がある。惑わされてはならないし、関与すべきではない。絶対に異端者の偽りに騙されてはならない。使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスは、彼がローマ風呂に入っていた時、異端者が入浴しただけで、全速力で逃げたと伝えられている。 新約聖書・ローマ書。 3:10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 3:12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 3:13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。 3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 しかし、私たちは、神の言葉を自分自身に適用させないまま、相手の方々を裁いてしまう。キリストはそのような罪を取り除くために来られたのであって、限定的贖罪でも、普遍的贖罪でも、いずれの立場でも、贖罪信仰を共に教えられて、諸教会の多様性と一致が調和していくのである。異なる福音は、異なる福音の独裁主義が常に見え隠れする。 神の慈愛に立ち返らせるために、すべての人々が信仰によって、罪から救済されるために、キリストは十字架で命を捨て、神に対して新しく生きるために、復活して下さったのだ。基本的福音を共有するならば、教団教派がどうであれ、兄弟姉妹であり、神の家族として「無に等しい者」である。 だから、神は福音の真理を捨て去る者を、己の罪に引き渡し、悔い改め(方向転換)ができないように選択させる。 しかし、キリストの福音を信じる者を、神は決して見捨てない。キリストの体なる教会を、神はキリストの花嫁として大切にされる。 神の怒りを恐れる者の罪意識は、聖霊による罪の自覚ではない。神の律法に基づく、肉の弱さと不可能の現れである。 新約聖書・第一ヨハネ書。 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 キリストの十字架の贖罪を、絶えず見上げて、いよいよ、選びと救いを掘り下げていきたいと願う次第である。 |
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永井均著『これがニーチェだ』(講談社現代新書)は、1998年に発行されている。ニーチェ入門書としては、批判的に、やや印象批評的なもので、好き嫌いが分かれると思われる。 「何故、人を殺してはいけないのか」という馬鹿げた問いが、真面目に検討されていた怖い時代である。曰く、そのような絶対的な道徳規範は存在しないとか。 但し、著者はニーチェに傾倒している者こそ、危険視している。また、キリスト教に対するニーチェの姿勢が、ただの無神論と異なる指摘をしているので、一読の価値はある。 だが、2001年9月11日に、アメリカ同時多発テロが起きる。 2010年、北野武監督の暴力的な作品、「アウトレイジ」が上映される。 2011年3月11日、東日本大震災により、続編「アウトレイジ・ビヨンド」の国内上映が延期される。 2001年、特に2011年は、倫理と生命における高貴さが、改めて確認された年であり、それ以前の哲学的著作とそれ以後を区別して読むべきだと思う。 昨日、「アウトレイジ」がテレビで再放送されていたが、あまりの残虐さと暴力に強い抵抗感を覚えた。SFなどと異なり、空想と日常生活の中間的な作品なので、生命の問題、暴力の問題を考えざるを得なかった。 北野は、「アウトレイジ」シリーズを、エンターテイメントだと発言しており、本当はラブ・ストーリーを描きたかったらしいが、真意と経過は不明である。 現在、何故、殺してはならないのかという問い自体が、非常に邪悪であろう。だからこそ、死の問題を乗り越えて、生の問題を考え抜くイタリア現代思想に魅力があるのだ。 岡田温司著『イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)は、フランス現代思想以降の(ジャック・デリダ以降と言うべきか)道案内としては最適の見取図になっている。 楽観的なアントニオ・ネグリや、悲観的なジョルジュ・アガンベンの著作は数多く翻訳されているが、残念ながら、否定の思考のマッシモ・カッチャーリ、神の敗北のセルジョ・クインツィオ等は殆ど紹介されていない。 何故なら、フランス現代思想と違い、イタリア現代思想は、カトリック神学、ギリシア語、ラテン語、古代哲学、美学等に関する深くて広い造詣がなければ、中々、理解しにくいからだ。 とは言え、フランスとイタリアの国境的な思想の区別に関心はない。 ニーチェ=否定の思考、神の死から、実存主義におけるヒューマニズム、構造主義のよる主体性=人間の死を経て、現代思想は、いよいよ、キリスト教神学へと接近している様相を呈している。恐らく、最低限、イタリア現代思想を学ぶには、聖書を通読し、キリスト教思想を知らなければ、浅い理解になってしまう。特に、イタリア現代思想は、中身は濃いが、何より読みやすいので、フランス現代思想の方が高尚だと錯覚する可能性があり、注意が必要だ。 アガンベンは『残りの時』(岩波書店)というローマ書注解を書いている程であり、『王国と栄光』(青土社)などは、キリスト教神学を知らなければ、わけがわからない。 そして、神学と現代思想を学ぶ意味は、知的好奇心でなく、キリスト教から「宗教」的な要素を剥ぎ取る思考作業なのである。キリスト教会において、自明であり、常識とされている事柄があまりにも多い。中々、信仰義認が探究と結合していない実態が蔓延しているから、福音の真理を弁証する備えが弱体化しているのではと感じる。 聖霊によって、言うべき言葉が与えられることを確信しながらも、霊性だけでなく、知性でも祈り、主に仕えよと聖書は私たちに教えている。 神の栄光と、キリストの愛の故に、知恵と知識が用いられ、自然にも触れながら、シンプルな信仰生活を送ることができますように。 ちなみに、エマニュエル・レヴィナスは、倫理的な意味で、徹底的に学ぶ価値のあるユダヤ人哲学者である。 |
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