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福田誠二著『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのペルソナ神学』(サンパウロ)。
想像を絶する難解さなので、数年前に購入していたのだが、今迄、ずっと読んでいなかった。 だが、読み始めて理解に努めると、自分自身の霊的葛藤が「存在の回復」に基礎付けられていたことを思い出して驚いた。 クリスチャンになる前の私は、徹底的な無神論者だった。一切の宗教的な儀式、神棚・仏壇、初詣などの風習を無視していたのである。 だから、聖書を何度も読みながら、キリスト教の神に、初めて祈りを捧げた時のことを忘れられない。無神論は完全に粉砕され、神は「存在」する御方だという認識に腰を抜かした。 但し残念なことに、当時、神の存在論は組織神学上、あたり前のこととされ、詳しく掘り下げるには導く人が不在だった。 その後、様々な霊的経験や知的認識を得たが、キリスト教信仰の中心点には届かないもどかしさを感じていた。 何故なら、神的存在論をスルーされた後、即座に贖罪論へと教導されてしまったからだ。 しかし、神認識の可能性に関して、スコトゥスは「自然的認識」と「超自然的認識」を区別した。 後者は「存在の一義性」(すべてのものの共通分母を経て、「無限なるもの」として、神に対する「一般普遍的な概念把握」において認識することになる。 そして、「超自然的認識」の限界は、「三位一体の神」(=ペルソナとしての神)が認識不可能である点だという。 だが、言うまでもなく、「神が自己の三位一体に関する認識」を人間に直接与えようと欲すれば、様々な認識様式になるが、「神の啓示」「神の直観」を得ることができる。 このように、ドゥンス・スコトゥスの神学は、存在論・認識論・啓示論が厳密に統合されている。 他方、プロテスタント神学には「対立の統合」という発想が殆どない(プロセス神学と弁証法神学に期待したい)。 だから、無神論から存在論的回復へという、私の個人的な経験が神学的に言語化されなかったのは仕方ないことだった。 いずれにせよ、キリスト教信仰の霊性を、自己の経験と乖離させずに回復させていきたいものである。 |
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2013年11月29日
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