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絶望的に思えても、神を愛し続けること。
私は不満に思うことがあっても、力を尽くして「関係」を大切にしたいと願っている。 過去、どのような事柄があったにせよ、互いに赦し合う気持ちを忘れたくない。 たとえ、そのような気持ちが私の一方通行だと分かっていても、忍耐と励ましの神に慰めを徹底的に受けていきたい。 だから、祈りと黙想の時間が長くなる、そんな時もあります。 神の御前で、私たちは「無に等しいもの」なのです。 ですが、キリストに対する信仰の交わりは、「〜しようとする自我」を打ち砕きます。 何故なら、どんな正義だったとしても、神の義を排除して主張することは愚かなことだからです。 以前の話ですが、私は、自動車で追いかけ回されて、走って逃げたことがあります。 ある環境下で、たくさんのアクシデントやトラブルに巻き込まれた経験もあります。 〜を覚悟して、絶体絶命の時も。 持病だとか、負傷その他で、今まで生きてこれたのは不思議です。 親しい友人だと思っていた方々から、中傷され罵詈雑言の嵐の末に、何度も裏切られ続けました。 ただでさえ、私は過去の、本当に大切な友人たちが召されていくことに、心を痛めています。 教会は、一人ひとりの痛みが他人事ではないからです。 だから、弱い私は仲間を祈り求めていたのだと思います。 同時に、人間に頼れないから、神の言葉を聞き続けているのかな〜って。 孤立は、大勢の人間が周囲にいても「一人ぼっち」で可哀想な状況です。 独立は、キリストにただ拠り頼み、関係を保つ状況です。 コリント教会には、ペテロ派、パウロ派、アポロ派の他に、キリスト派という危険な分派がありました。 恐らく、自分たちだけが、正統信仰を持っている、人間は不要である、神との関係で十分みたいな。 神の言葉を本当に聞いているなら、すべての事柄と状況から、聖霊の導きを識別するでしょうし、生かされていることの意味を僅かでも知ることになると信じます。 そして、私は「何をされても文句さえ言えない罪人」に過ぎません。 「原罪」と書きますが、神学的思弁などではないのです。 いつまでも、何処においても、主だけに頼るわけですが、だからこそ、主の御名によって集まることが慕わしい。 自分自身に苦痛があれば、我慢せずにキリストにある「関係」の中で吐露すれば良いと感じます。 極度に抽象化して書きましたが、誰であっても、困っていてもいなくても、悲しんでいてもいなくても、私はあなたを待っています。 そして、こんな私を誰かが必要として下さるなら、「キリストにあって」という唯一の条件下で、使い捨てでも、あまりに光栄なこと。 だって、私は本来、死すべき者、滅びるべき者、捨て去られて当然だから。 |
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2013年12月19日
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