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タイトルのまんまである。
キリスト教信仰は、神をただ信じるという一点に尽きるものではない。 神を信じる過程で、どうしたって祈り続けなければ挫折してしまう。 そして、祈りこそ、神との対話なのである。 でも、祈りが宗教的な頑張りとなってしまいがちなのも事実。祈りによって「神を動かす」などの表現は、非常に危険だと思う。 だから、私たちは「キリストを信じて祈る」「対話する」わけです。 信仰抜きの祈りは、どこにでもある宗教心。 祈り(対話)抜きの信仰は、別に「キリスト教信仰」じゃなくても可能です。 神との対話は、信仰者が試練に置かれた時に、火に油が注がれるように「祈られる」もの。 祈りながら、信じながら、そして、神の恩寵を受け取っていく。 言うまでもなく、聖書と教会共同体を土台にした「神との対話」です。 祈りは決して無味乾燥なものでなく、全身全霊の出来事となります。 何故なら、神の愛に満たされた対話なのですから。 |
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2013年12月31日
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