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「痛み」は、肉体というより、自分自身の存在と不在の分岐点に直結していく。
自分自身の存在が不在であるというのは、ハイデガー的な意味の「〜である」ことの述語的な問題ではない。 不在というのは、認識だとか言語などの、人間の本質を暴露する。即ち、すべてにおいて、神から離れた自然的な私たちは「欠損」状態にある、ということだ。 稀に、非・必然的な仕方で、そのような「欠損」が修復される場合もあるが、それは神の奇跡、同じことだが、神の主権的恩寵である。 スコトゥスは、神の啓示が明らかにされなければ(神の啓示が理解される可能性の下でなければ)、必然的に私たちは「無限なるもの」に開示される。 そして、「無限」は「痛み」を永劫に循環させる楔となってしまう。 肉体的「苦痛」と同時に、霊性の「呻き」に限りがなくなると、死にたくても死の方が逃げていく。 しかしながら、「三位一体の神」という「啓示」は、私たちを「存在するもの」に開示させる。何故なら、三位一体の神の「痕跡」は、信仰者の内に刻まれているからだ。 となると、「痛み」と「私たち」の関係は、直接的でなく、常に間接的なものだと判明する。 キリストにあって「苦痛」は、自分自身の唯一独自の経験(論)としてでなく、「追体験」として概念把握される。 だからこそ、律法(νομο??)の牢獄に閉じ込められた、罪の自覚と方向転換を知らない、自然的な「私」(εγω)は廃棄される。 だが、その後の「私」は漸進的に、新しく存在すると同時に、三位一体の神の愛に、超自然的な仕方で触れられる幸いに与る。 それ故、無限の苦痛の中でさえ、神の愛に「包括」されて、御翼のかげに隠される真理に直面して生きていく。 そのようなわけで、他者の「痛み」を、自分自身の隣人の「痛み」として、「無限なもの」でなく、「存在するもの」として引き受け、愛することは、聖霊の御思いの故である。 |
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2013年12月07日
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