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「このようにペトロの首位権が、最後の晩餐、すなわち主の過越である聖体の制定の時との関連で位置づけられていることは、この首位権のもつ究極的な意味をも示しています。すなわち、すべての時代において、ペトロはキリストとの交わりを守るものでなければならないということです。ペトロはキリストとの交わりのうちに人々を導かなければならないということです」(ベネディクト16世著『使徒──教会の起源』ペトロス文庫83ページ数)。
ローマ・カトリック教会は「首位権」を決して譲らないのは当然であり、別に今更批判すべき事柄でもない。 諸教会において、伝統と歴史の存在は否定できないものであり、カトリックは「聖伝」を残し、プロテスタント諸教団教派や、所謂、単立教会だとか、家々の教会等も例外ではない。 聖書を教会の土台としながらも(プロテスタントはカトリックのようにペテロ自身と使徒的継承より、ペテロに代表される信仰告白と福音継承を重視する)、伝統と歴史は重要である。 たとえば、歴史の浅い教会でも、賛美は何故ワーシップを礼拝で使用しないのか、牧師との相談に教会事務員が介在するのはどうしてか、牧師よりも、役員会が強い影響力があるのは何故なのか、席上献金があったりなかったり、聖餐式の回数云々。 イブ・コンガールが指摘しているように、「典礼」「聖体拝領」「教会」は、聖霊によって活性化されるだけの話ではない。 聖霊は、神が歴史的・伝統的に礼拝に介入していることを自覚させる御方なのだ。 あえて言うならば、首位権があるはずのペテロと、パウロの先輩バルナバが、使徒の働きにおいて、聖書の舞台から姿を消したのは、以下の聖句が事実だったことを裏づけている。 ガラテヤ書。 2:11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 だから、ローマ・カトリック教会の伝統だけでなく、ヤロスラフ・ペリカンによれば、全世界の諸教会(世界教会主義ではない)を包括する「キリスト教の伝統」を私たちは共有していきたい。 その上で、福音主義のキリスト者として、聖書、使徒教父、ラテン教父、ギリシャ教父、中世スコラ哲学、宗教改革等を横断して学ぶことは非常に有益だと考えている。 |
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2014年01月23日
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