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自分が経験してきた事柄と、理解している事柄の間には乖離が存在する。経験と理解は、自分自身の存在と関係に遅延して、他者、若しくは、他者から到来するものだからだ。
実体、即、関係である。……だからこそ、「在る」と言うことは「関係がある」ことと同じ意味になる。……ところで、個々のものの間に横たわる関係は互いの出会いの関係であるから、一般的に言えば、偶然的なものである。……したがってこのような「在る」の論理から言えば、個別者は「関係」を通じて、その都度「何であるか」が決まる、と言うほかない(八木雄二著『「ただ一人」生きる思想』ちくま新書123-125頁)。 キリストを通してでなければ、神に至ることは不可能なのと同様に、他者の存在と関係があるからこそ、自分自身を「一人で生きる」ことができる。 だから、孤立と独立は異なると言われることもある。 ところが、現実においては「一人で生きる」ことの実体と関係が引き裂かれてしまいがちかもしれない。 自己というものが構成されたあとでも、他者を失ったとき、自己は他者とともに実質的に崩壊していってしまう(同書125頁)。 だから私は、孤立と独立の違いが分からない、認めたい。何故なら、他者は存在しているだけでは、自分自身と何の関係もない風景に過ぎなくなってしまうからだ。 逆に、他者と関係しているだけならば、自分自身の存在自体が消尽していくだけであろう。 完全な自己一人の世界の孤独に耐えることは、人間には不可能であって、人間が孤独に耐えている、というのは、最愛の人であるにしても、何かを想定すればこそ、人は孤独に耐えるのである。その力を失えば、人間の脳は自己破壊を自動的にはじめる(同書126頁)。 |
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実際、人間の心はまことにさまざまなしかたで堕落することがありえます。心を堕落から守る唯一の方法は、個人主義と自律だけを重んじるものの考え方に固執しないことです。そして、その反対に、いつも新たにイエスの側に身を置き、イエスの視点を自分のものとすることです(ベネディクト16世著『使徒──教会の起源』ペトロ文庫、174頁)。
ヨーゼフ・ラッツィンガーの言う「堕落」とは、イスカリオテのユダの裏切りを意味している。 しかしながら、ユダは12使徒の1人であり、会計係だったのは言うまでもない。それ以上に、主イエス・キリストが使徒として任命したことを忘れてはならない。 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。 (ルカによる福音書 6:12, 13 JA1955) こうして疑問が残る。何故、主はユダを選んだのか?という点である。 ラッツィンガーは、ユダの裏切りに関して「不可解なもの」(同書174頁)と認めつつ、「けれども、イエスは、自分に従って幸いへの道を歩むようにと招くにあたり、意志を強制することもなければ、サタンの誘惑からあらかじめ守ることもしませんでした。イエスは人間の自由を尊重したのです」(同書174頁)と述べている。 自由の尊重に異論はないが、ユダの文脈において、主は何とかして彼を悔い改めに導こうとしたのは、福音書を読めば明白である。 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。 (ヤコブの手紙 5:19, 20 JA1955) 残念ながら、ユダは「後悔する」(メタメロマイ)ことになったが、自分の力で心を変えようとして失敗した。 主は私たちが単純に「後悔する」ことではなく、自分中心から方向転換し、神に立ち返る「悔い改め」(メタノイア)を望んでおられる。 私たちは、信仰者なのに、すぐに神に対する望みを失ってしまいがちだ。物事に悲観し、ついには絶望してしまう。ユダのように、あまりにも後悔しながら、神に向かわず、自分自身の罪を何とかしようとする。 ラッツィンガーは、聖ベネディクトの言葉を引用しているが、私たちも心に刻みたいものである。 神の慈悲に対して決して望みを失わないこと(同書175頁)。 |
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