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この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。 (テトスヘの手紙 3:8 JA1955)
福音を宣教し宣言する時、色々な理由で、主の語りかけを封印しようと感じる時がある。 主の言葉を伝え、語らなくて済むのなら、それに越したことはないかもしれない。ところが、神の言葉は炎のように燃えるもので、語らざるを得ないものだ。 では、どのように語れば良いのだろうか。 もっとも重要なことは、パウロがその宣教の発展のために協力者を用いたことです。特別な意味での使徒パウロが、多くの教会の創立者であり、司牧者であったことはいうまでもありません。にもかかわらず、明らかに、パウロはすべてのことを独りで行ったのでなく、自分と労苦を分かち合う信頼できる人に仕事をゆだねました(ベネディクト16世『使徒──教会の起源』ペトロ文庫215頁)。 教会の務めは、確かに最初の段階から、牧師・奉仕者に負担が集中すること、間違いなしである。 一方、あまり対人関係の能力がないとか、学歴が不足しているとか、神学的・語学的な水準が低いとか、教会員よりも若輩者であるとか、教会の政治力学などの理由によって、牧師・奉仕者が見下されたり、馬鹿にされる必要もない。 従来までは、そのような狭義の意味での献身者たちに、教会の務めが委ねられていたが、「信仰者の普遍的祭司性」(H.クレーマー)を教会は実践しなければならない。 教会は、外部から協力者を招聘すると同時に、内部から献身者を生み出すことを祈り願っているだろうか。 だから、教会が内外から協力者を見出し、受け皿を作り、支援することは至極自然で、すばらしいことだと思う。 では、「協力者」とは、どのような人間で、どのような考えの持ち主なのでしょうか? ラッツィンガーは、テモテとテトスを評価しながら、次のように述べています。 彼らは、福音に奉仕することが、教会そのものに奉仕することでもあることを知っていたからです(同書215-216頁)。 |
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