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アキラとプリスキラという夫婦は、パウロの協力者だった。二人はユダヤ人だが、その名前はラテン語である。
キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。 彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。 また、彼らの家の教会にも、よろしく。 (ローマ人への手紙 16:3-5 JA1955) 聖書は、初期キリスト教がユダヤ教の神殿で礼拝する段階から、追放されて「家の諸教会」で礼拝する段階を描写している。 ラッツィンガーは少なくとも、3世紀までは「家の諸教会」こそが教会の基本的形態であり、4世紀に国教化されてから、キリスト教独自の教会堂を持つようになったという、──そのような極めて聖書的な教会観を認めている(歴史的認識と教会論的実践は別次元らしいが)。 例えば、コリントの諸教会において、「ガイオ」に言及されています。 わたしと全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしく。〔 (ローマ人への手紙 16:23 JA1955) ラオディキアの諸教会では「ヌンパ」について。 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。 (コロサイ人への手紙 4:15 JA1955) コロサイの諸教会では「アルキポ」です。 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、 姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。 (ピレモンヘの手紙 1:1, 2 JA1955) アキラとプリスキラに関して、パウロは次のように感謝している。 アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。 (コリント人への第一の手紙 16:19 JA1955) ラッツィンガーは「こうして、この夫婦が初代教会の中でたいへん重要な役割を果たしたことが分かります。二人は地域のキリスト信者グループを自分たちの家に招き入れ、そこでともに神のことばを聞き、感謝の祭儀を行いました」(ベネディクト16世『使徒──教会の起源』ペトロ文庫237-238頁)としている。 そして、「家の諸教会」論から、話題は「キリスト教の発展」論へと移ります。 キリスト教が成長することができたのは、使徒たちがキリスト教をのべ伝えたからだけではありません。キリスト教が人々の大地に根ざし、生きたしかたで発展するためには、こうした家族、夫婦、キリスト教共同体、信徒の献身が必要でした。 そして、教会の成長は、つねにただこのようなしかたでのみ行われます。とりわけこの二人は、キリスト信者の夫婦の働きがどれほど大事であるかを示しています。キリスト信者の夫婦は、信仰と堅固な霊性に支えられるなら、自然に教会のため、また教会の中で勇気ある献身を行うようになります。 キリスト信者の夫婦は、日々の共同生活を延長し、ある意味で昇華することによって、キリストの神秘的なからだのための公的な責任を引き受けます。たとえそのわずかな部分であってもです。最初の時代はそのように行いました。これからの時代にあってもそれはしばしば同じように行われるでしょう(同書241頁)。 あくまでも教会は「家の諸教会」(〜3世紀)であろうが、「会堂の諸教会」(4〜21世紀)であろうが、「建物」ではない。 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。 (ヨハネによる福音書 2:18-22 JA1955) キリストの体こそが、聖霊による教会(εκκλησια)なのであり、「聖体がない聖堂はただの部屋」とカトリック教徒の方が断言したように、少なくとも「建物」は「教会」ではない。 だから、すてきなデザインの教会堂だったり、音響施設の完備された教会堂だったりしても、キリストの体は絶対に「建物」ではない。 更に、キリストの体なる教会は、同時に、神の家族とも言われている。 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 (エペソ人への手紙 2:19-22 JA1955) 私たちは家族から養育されて成長していく。基本的に愛情を豊かに注がれて、「どんなに苦しいことがあっても、家族だけは味方」だと教えられるものである。 世においては、家族が不在の方々も存在するが、そのような方々は、天の父なる神の愛を誰よりも理解し信じて救われていく。 いずれにせよ、肉の家族も、霊の家族も、その中心は神の愛に結ばれた夫婦が二本の柱である。 二人の模範から引き出すことのできるもう一つの教訓を忘れてはなりません。それは、すべての家が小さな教会に変わることができるということです。それは、家の中で、隣人愛と互いの配慮という、本来のキリスト教的愛が中心とならなければならないということだけではありません。さらに、信仰に基づく家庭生活全体が、唯一の主であるイエス・キリストを中心として回るよう招かれているということです(同書241頁)。 教会でどんなに用いられているように見えても、世において成功者になったとしても、地位が高くなり、経済的に不自由なく、人々から賞賛されたとしても、私たちが神の家族から養育されていなければ、すべては空しくなってしまう。 わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。 たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。 そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。 (コリント人への第一の手紙 4:14-16 JA1955) そして、キリストの体なる教会と、神の家族なる教会を述べた後、キリストの花嫁なる教会へと、私たちは導かれる。 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。 (エペソ人への手紙 5:25-33 JA1955) |
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