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ストレスだとか、持病の服用薬の副作用で、ぱっと見、太ってしまったリラである。そんなに気にはしていないが、先日、こんな事があった。
「太りましたね」。 殆ど連絡を取っていなかった知人と、バッタリと会った時の開口一番だったから驚いた。しかも、女性から言われたのだ。もし、リラが異性メンバーに考えもなくそんな非常識な発言をしたら、牧師生命は終了寸前であろう。職場だとセクハラだ(冗談が通じないほど、信頼関係はない時には特に)。 その場ではスルーしたし、気にはしていないし、体型には原因があるので、自分自身も、事情を知らない相手を責める気持ちも、別に何も湧かなかった。 しかし、他の方々に対しても、知人は本人がどうすることもできないことを、理由確認なしに言い放つのかと思った。加えて残念なことに、知人の息子さんは献身者であり、少々、自慢気でもあった。 息子さんのことも知っているが、リラの友人に対する奉仕で、小さな疑問を持っている。詳細は言えないが。 親子の姿を比較して、悪気がないのはわかる。だが、無知こそ、最悪の罪ではないのか。 リラはそのような以前の教会員の方々に、何を言っても無駄だということを知っている。15年近く、スタッフや教会員たちから罵詈雑言を受け続けて、霊的に虐待されたのだから。 体型は崩れたし、持病も薬の副作用も辛いから、確かに、弱音を吐くのは日常茶飯事だ。しかし、以前の所属教会での信仰生活より、ずっと幸せである。 仲間も少ないし、財政的には奇跡の連続、体調不良と霊的な負担の区別が曖昧になるくらい重荷がある。度重なった、リラが信頼を寄せていたメンバーの分裂・離脱騒ぎで、精神的に何度か崩壊したような地獄の日々。 娘も、すっかり淋しがり屋となってしまった。そりゃ、あれだけ仲良くしてもらって、教会から突如離脱する方々の連続だと、あたりまえだろう。リラとしては、自分はともかく、娘のことが心配でならない。離脱者、分裂・分派でも、可哀想に思って、せめて、連絡があるとか、普通だと思うのだが、リラの方が連絡して消息を確認する始末である。 牧師批判や教会批判は簡単だが、日本人のキリスト者一人ひとりが、神の愛に満たされた人間になることが最優先なのではないか。自分自身の恐ろしい罪を棚上げにして、一体、相手の不満を言ったり、無意識に差別発言、見下し発言をするのは、どのような了見であろうか。 そして、リラ自身の中にも、そのような裁く方々を裁き直す罪があり、罪への誘惑がある。 これからどうなるのか、全然わからないが、罪の現実を直視しながら、裁きと自己卑下に惑わされないように、キリストの十字架を見上げて歩んでいきたい。 |
☆リラ☆の日記帳
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秋の紅葉が落ち始め、涼しい風が吹いてきた。
先程、開拓伝道に対する弱さを吐露したわけだが、いつものことである。 但し、落胆は、望んでいる事柄が強く願われていたことの裏返しであり、信仰は、諦めきれないという底を歩きながら、更に信仰へと移っていくものである。 自分自身の力が及ばないことを痛感するのは、神の絶対的恩寵に拠り頼む一歩ずつなのだ。 弱い時に、敏感になるのは当たっている。ちょっとした連絡の行き違いや、約束が守られないことに焦りを覚え、だから自分は駄目なんだと考え込み、悩むのである。 リラが何ができるか、できないかではなく、謙遜になれるかどうかも問題でもない。 何度も、挫折しては、自分自身に言い聞かせよう。神の戦いである、と。 |
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もしかすると、教会は消滅したのかもしれない、そう考えるのは早計だろうか?それとも、真実だろうか?
或る意味で、既存の教会の教会員の方々を支援し、それぞれの道を歩むようになっている。しかし、礼拝に人々が集まらない。そろそろ、閉店時刻なのだろうか…と呟く日々。 確かに、無牧教会は多いし、増加していくだろう。慢性的な牧師不足の時代はすぐそこだ。友人牧師からも、そのような無牧教会に赴任したら?という話もある。無論、友人が推薦者になるのだが、それよりも、失望感の方が強い。 一般的な開拓伝道のレベルなら、例えば、母教会から派遣され、教団等から支援されてなお、リラたちの状況ならば、撤退やむなしである。リラが制度的な枠から外れているから、自由に行動できているだけなのだ。 自由はリラにとって、かけがえのないもので、決して奪われたくないものである。説教者、牧会者ならば、自由を最大限に活用することは、最高の幸せだと思う。 主から与えられている言葉は違っているのだが。 何処かの群れに所属するよう祈るべきだろうか。友人から助言されたように。同労者も現れないし、離脱者(=問題解決者)だらけになってしまった。 何年も、誰も集められない時期を過ごした開拓伝道者の方々も多い。 弱気になっているのは間違いない。同時に、自分自身の徹底的な無力さ。 問題解決型のミニストリーに特化されているのだろうか。 ひたすら、祈るばかりである。今までの奉仕を、全然、後悔していないが、更に、小さくなり、弱体化していく定めなのだろうか。何だか、それも淋しい限りである。 不安というよりも、落胆の念が強い。何度耕しても、豊かな実を結ぶことがない。 何を問われているのだろう? わからなくなってしまったが、自分自身の没落と衰退を経験していくしかあるまい。そのような時にこそ、キリストの故に、神の栄光が明らかにされると信じたい。 弱音を吐いてしまった。 エリヤハウス基礎課程2のWeek4が、間もなく開講される。ベストタイミングだと確信する。 リラはいつ消えてもおかしくないが、まだ必要とされる方々が集められるならば、残りの務めを果たすことになる。 そうでなければ、途方に暮れてしまうが、自分自身を責めても意味はないだろうな。本来、主の奉仕を務めるには相応しくない者なのだから。 |
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9/6学習会「子供たちを放射線管理区域から安全な地へ移住させよ 。疎開裁判の焦点」の報告
冨塚元夫(たんぽぽ舎ボランティア) 前半に、原発いらない福島の女たちの黒田節子さんから、「フクシマ」からの報告がありました。郡山市などの人々は、人間らしい生活の楽しみを奪われ、基本的人権を無視され、収入の減少と不要経費に苦しみ、命と健康のリスクにさらされ、正当な補償を受けていません。国と県がやっていることは、日本国憲法違反です。世界人権宣言と子どもの権利条約にも違反しています。 後半は柳原敏夫弁護士から、申立て以来最大の転換点を迎えた「ふくしま集団疎開裁判」と題する報告がありました。仙台高裁は10月1日に原告・被告を裁判所に呼び出して審尋するという決定をしました。書面審査ではなく審尋期日を設けるということに一審判決見直しの可能性が出てきました。 子供たちが、放射線管理区域でもありチェルノブイリ事故の避難基準場所でもある高放射線量の所に住んでいることに対し、世界中から警告がなされています。 調査された子供たち38000人の35%に甲状腺ののう胞や結節が発見されたにも関わらず、適切な生体組織検査がなされていないのは異常だと、NYタイムズに出ました。 さらに異常なのは、再検査を求める家族に対し、多くの病院が診断拒否をすることです。福島県立医大の山下俊一副学長が通達をだして再診をしないよう指導しているからです。 これは医師法違反ではないか!参加者から怒りの声が多数上がりました。「このような違法状態を放置しているのはおかしい、なんとかしなければならない!」 本当にそうだと思います。 上記の文章は転載です。福島県の人口は約200万人で、子どもの人数は6万人か、16万人のいずれかだったと記憶している。その三割だから、開いた口が塞がらない。 宣教ではなく、避難援助を…と、リラは主張しているが、テレビの情報操作だけではわからないのも無理はない。 |
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1万8千716人。
東日本大震災で亡くなった方々の人数だという(現在まで)。 前回、原発賛成・肯定の宣教を批判したわけだが、脱原発・反原発ならば、現地での支援とアウトリーチは、むしろ不可欠だと思っている。 経済的に問題がなければ、是非、支援者同士で協力して出発することはすばらしい行為だと信じる。 で、リラは関東に住んでいるわけだが、日本人に対する宣教の困難さを実感中である。ヨーロッパやアメリカと違い、聖書という共通基盤がないから、輸入される教会論は、殆ど訳に立たない。合理主義や成長論は、日本人の感性には、あまり合わないらしい。 リラたちの「地下的教会論」は、開拓当初から、まだ持続している。領土問題が、即、中国・韓国と紛争になるとは思わないが、来年には、世界の指導者たちが変化するのは間違いない。紛争の可能性も否定できない。 仮に、キリスト教に対する弾圧、迫害があった場合、備えはしておくべきかと。リラは兎に角、キリスト信仰以外の理由で叩かれるのは無益だと思っている。勿論、信仰に伴う愛の行動は別である。 そのように色々と考えてはいるのだが、どうも最近、弱気になっている。本当に、教会は回復されるのか。癒されるのか。リラ自身、毎日、トラウマも残っているし、経済的損失も被ったので、不安を隠せず、苛々してしまう時がある。 楽になりたいのに、どうすれば良いのかわからない。 体調不良も深刻である。 冷静に考えると、今までの経験から、立ち直るためには、一人では無理だ。仲間から受けたキズは、新しい仲間が集められて、初めて可能になる。 しかし、リラが癒されていないのは事実だ。ちなみに、過去、関与した仲間たちには何の責任もない。自分自身の弱さの問題だ。 弱い時にこそ、強いと、聖書は断言している。 ならば、そのままの弱さを、主に任せるしかないではないか。 環境の変化で頑張り過ぎちゃったかな。残暑もそうだが、肉体疲労は持病にヤバ過ぎる。 そして、上記の人数の一人ひとりに、苦楽の人生が存在していたのである。津波被害の後に生き残った方々は、原子力発電所の事故で避難するしかなかった。数字に還元できる問題ではない。 霊的な波乗りに、私たちは失敗したのだろうか。波を造り出すことは不可能だが、波に乗ることも、本当は、ただのムーブメントであり、動物の猛突進だったのではないか。 そして、リラなりに良かれと思って実行してきたことは、はた迷惑であって、主の導きではなかったのかもしれない。 他人を犠牲にし、自分自身を損なってしまった。だから、主日礼拝では、神に向かって悔い改めの祈りを捧げるしかなかった。説教中も苦しかった。ましてや、賛美と聖餐は、足元もフラフラだった。 こんな状況なのに、娘は礼拝を土曜から楽しみにしてくれている。「明日、礼拝だよね?ヤッター」云々。 希望は、あるのだろうか。 |





