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敬虔な魂というものは、単なるこの世の財産に関して、それがなかなか与えられなかったり、拒否されても全く狼狽することはないだろう。そういう魂は、健康・富・妻・子供・家庭・地位のようなものは無条件の善ではなく、時にはそれらが得られないのも良いことだ、と知っているからである。しかし、心を尽して聖霊を求めたのに、金銭では得られないその恵みを拒まれるような時には、ひどく狼狽させられる。光を祈り求めたのに深い暗やみしか得られない時、信仰を求めたのに根底をゆさぶる疑いに悩まされる時、聖潔を求めたのに誘惑に負け、心にある永遠のいのちの泉から腐敗した泥水が湧き出て来る時もまた同様である。経験豊かなキリスト者が味わっているように、このような経験はすべて、心の願いが満たされる前に、キリストの学校の生徒たちが通らなければならない訓練の過程なのである(A.B.ブルース著『十二使徒の訓練・上』いのちのことば社)。 ブルースは、祈りに関する章で上記のように教えている。第一段階として、キリスト者は確かに、「健康・富・妻・子供・家庭・地位のようなもの」が「無条件の善ではなく、時にはそれらが得られないのも良いこと」だと知っている。 本音としては、それらの世的な欲望を叶えたいと願っている、そんな私たちだろうが、すべてが十分に与えられても、「もっと、もっと」の蛭的な欲望は更に肥大化していく。 30:15 蛭にふたりの娘があって、「与えよ、与えよ」という。飽くことを知らないものが三つある、いや、四つあって、皆「もう、たくさんです」と言わない(聖書口語訳・箴言)。 一般恩寵は、キリストという特殊恩寵と異なり、「無条件の善」でなく「条件付きの善と悪」である。 祈ることを教えられても、世的な意味で「無条件の善」を思い込んでしまうと、躓きと困難に直面する。 だからこそ、第二段階として、祈ったにも関わらず(その祈りが正しいように思えても)、それらの願いが叶えられない経験こそ「訓練」となる。 リラにとって、祈りの訓練は、言うまでもなく、ミニストリー・レベルでの恵みとは別に、シンフォニーチャペルの教会形成が、中々、前進しないことだ。療養中だが仕方ない点もあるが、まだまだ仕事中毒ならぬ、奉仕中毒から脱出できていないと思う。 祈りにおいて、訓練を経験していかなければならない。 |
☆リラ☆の日記帳
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10:23 それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。 10:24 あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」(聖書口語訳)。 キリストの弟子たちは、初期、見ること、聞くことに集中させられた。キリストの言葉を聞き続けて、神の力と業を見ること。 一見、資本主義的な何か(商品、若しくは、見えるもの)を生産せず、霊的な事柄(福音=見えないもの)を享受するだけの日々。 自分自身の問題として考えると、今の時、不本意に対人関係から排除されたりもしたし、キズを受けたり、忍耐の疲労もある。主日礼拝は少数の仲間だけで捧げ、経済生活は破綻寸前。綱渡りの毎日。 福音で生活する定めは、職業労働で稼ぐ以上に、霊的な歓喜と同時に、過酷な奉仕でもある。東証一部上場企業に勤務した経験から断言できる。賃金労働より、奉仕の方が不可能な務めである。給与が支払われるのは対価として当然だが、献金に保証はないからだ(聖書は賃金労働の二倍を保証しているが)。その背景に、神に対する礼拝と、キリスト者の交わりを分離する罪の傾向があるからだと思われる。 その分、神の言葉を宣教する者は、ただの成功談や聖書小話、証と区別できないものを、講壇から絶対に語るべきではないと信じる(別に講壇などなくても良いと言っておられる諸教会も多くなってきたが、それを実践している方々に出会ったことがない)。あくまでも、説教者の任務は、福音の真理を説教すべきである。制度的キリスト教から離れて、自由な教会形成を目標とするならば、神の言葉を聞き続けることは「聖霊の第一の働き」(ジャン・カルヴァン)なのだ。 この記事は、リラ自身の戒めとして書いている。聞くことの注意点は、説教者に限らず、すべての表現者は常に「自分自身に対して問題提起しながら語る」という基本前提である。説教は説教者自身の信仰告白が伴っていなければ、押しつけがましい説得になるし、聞く方もそのような共通了解を持っていないと、「あの先生は私のことが嫌いだから、私目掛けて酷い事を言っている」みたいな険悪な雰囲気になる。私的解釈は聞くことの悲劇を生み出し、説教者と会衆(私は会衆でなく兄弟姉妹と呼びかける。会衆という言葉を使う式文は、その聖書的根拠を引用すべきだ)。 弟子としての訓練の初期には、聞くこと・見ることが、十二弟子の主要な仕事であった。彼らは新しい世界に生まれた子どものようだった。彼らが学ぶべき最初の重要な教科は、彼らの感覚を生かして、彼らを取り巻く驚くべき対象を観察することであった(A.B.ブルース著『十二使徒の訓練』上巻84頁)。 そして、リラは、神の驚くべき業を経験中である。最低限の人数で礼拝を持続し、献金による養いは額として過去最低だが、献金回数は過去最高なのである。それまでの五年間、不眠不休と精神的・体力的な酷使をしていたが、奇跡的に休めている。 家族と遊ぶことも、今まではあり得なかったのに、楽しく過ごせている。リラの持病の症状は辛くて変化はないが、その分、物事を考えたり、祈ったり、学んだりする時間が与えられている。 毒舌だったろうか? リラ自身、改めて、神にどれだけ恵まれているかを再認識したい。 |
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何とも言えない淋しさとか、儚さみたいな気分。やはり、今年の春に起きた事件の霊的・心理的な後遺症に、無意識下で苦しんでいるかもしれない。関係諸氏には申し訳ないが、本音はこんなものである。
リアルの礼拝や交わりは貴重であり、大きな恵みだ。教会に一人ひとりが集うという奇跡。確かに地域教会(見える教会)は、ボロボロであろう。シンフォニーチャペルも例外に漏れず、欠けだらけである(ローマ・カトリック教会も、大規模だが地域教会であり、プロテスタント諸教会と同格である)。天国の教会(見えない教会)から見下ろすと、地上の教会は重症であり、麻痺状態にあると言っても過言ではない。 シンフォニーチャペルに、過去、関与して下さった方々、現在、直接・間接に、関与している方々には、今でも頭が下がる。 リラたちは失敗ばかりを続けてきたのだから、捨て去られて当然だし、その後で批判され続け、憎まれても、あたりまえの存在だ、そのように考え始めている。 自己否定と十字架。神が私たちを裁いて下さるのだから、自分自身に対しては否定していくだけであろう。自己卑下でなく、十字架を見上げる自己否定である。 リラにはもう何も残されていない。しかし、「どうでもいいや」と思うのは、神の愛に対して無礼だから、的外れな感情だ。 礼拝中、過去、共に礼拝を捧げた方々の姿を思い出し、己の不甲斐なさに嘆き、主に罪の赦しを求めるしかなかった。 キリスト教信仰は、自分自身がどこまでも「罪人の最たる者」という自覚から開始される。改めて、リラは休息を取りながらも、若干の不安と、一抹の淋しさを覚えている。願いは一つ、神の家族として交わり、神を愛する歩みをしたいだけなのに、福音の真理が受容されることが、こんなにも稀で困難だなんて。 |
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主日礼拝を無事、終えることができた。最近、賛美の礼拝では「ヴィンヤード」と「トリニティ」を多用している。時間的にも長く、リラたちは賛美することに飢えている。通常の地域教会では、恐らく、10曲以下だと思う。何故なら、礼拝時間が決められているからだ。
時間の問題は、交通の問題でもある(無論、それだけではない)。教会に限らず、移動の時、裕福層の方々は、(若い世代には購入不可能な)車で通っている方々が多い。そうなると、会堂だけでなく、駐車場も必要になってくる。固定財産が増加すればする程、更にもっと、「資本主義的キリスト教」になる。即ち、モノとモノの交換による利潤か損失かが、「聖徒の交わり」となってしまう。神の導きは数量化されると同時に、利潤的な交わりという物質化は「組織的キリスト教」(ジェームズ・フーストン)を強靭にさせる。 正反対に、見えないものと見えないもの交換・共有は、その無生産性により、見えないものを享受する人間にとっては、ただの物質的損失にしか思えない。だが、事実はその逆で、見えないものを伝えられる者の霊的損失なのである。 しかしながら、会堂、車、駐車場、組織、教団・教派自体が悪いわけでもない。それらを是が非でも必要としている方々は圧倒的多数である。だから、キリストを信じる信仰者たちが、霊的にも物質的にも、精神的にも体力的にも、担いきれない圧迫が生じる限りにおいて悪いのである。 神殿礼拝=会堂礼拝は、やはり、教会の一体感という価値がある。制度と組織が教会に集う一人ひとりを最大限に生かすならば、確かに良いものである。 家の教会にも長所は沢山あるが、あまりにも不安定だったり、神学的修練が足りなかったりする。 リラたちのような独立開拓は、「資本主義的キリスト教」の枠組みでは、絶対的な辺境に位置している。キリスト教を「宗教」という「商品」に還元しようとする誘惑は、絶えざる不安に埋没させる。 マックス・ウェーバーによれば、宗教改革と資本主義は、同義的であり、ルターのドイツ語訳聖書で、「召命」と「職業」を意味する「べルーフ」という言葉が天職概念を生み出すとされている。 現代の諸教会でも、無生産的な方々は軽視されることは多いし、働くことにおいても、自営業、賃金労働というスタイルだけが推奨される。 可能ならば、リラはブログでなく、ホームページを作成したい。メルアドで対話可能性を探りたいのだが、作成技術(HTML言語)を忘れてしまった。 資本主義的キリスト教、若しくは、宗教改革の彼方へと、福音の真理を改めて保持することは可能だろうか。 |
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昨日、或る方と食事会をした。リラはその方と会うのは二回目で、ネットや電話では、何回も連絡を取っていた。
例外にもれず、その方は多くの問題を抱えており、仕事や病気に支障が生じるまで、誰かさんに酷使されていた。 話を聞いていて、関与は無理だと確信した。他のすべてにおいて、その方はリラの助言を受容したし、性格や波長も合っている。 だが、一点だけ、霊的警報が鳴り響いた。その方は酷使する者とまるで同じ思想を語り、同じ考え方に憑依されていることに無自覚だったからだ。 問題の詳細は言えないが、リラは可哀想だなと感じた。虐待とか、支配とか、加害者は、弱者を道具として扱って、悔いることもない。助けられて当然、離れていく者は裏切り者の烙印を押すようだ。 リラは疲れたし、対話しても無意味だと思ったので、適当に話を打ち切り、退散させてもらった。やはり、探究心、疑惑、霊的な飢え渇きがない方々に関与することはできない。キリストを必要としていないのに、押しつけても徒労に終わる。その後、リラと娘は疲労で寝込んでしまった。 都心で研究会をすることになったが、楽しみと喜びが動機にならないと、持続させるのは不可能である。 仲良くなることは素朴だが、不可欠な要素。 しかしながら、例え、リラの祈りと願い通りに事が進まなくても、「キリストは私たちと共におり、私たちもキリストと共にいる」(日本聖公会祈祷書)。 背伸びはしたくない。するとすれば、更に安息を味わってから。 休んでいても、無活動というのはない。アンテナを張って、主の業を見極めたい。 最近は、悪く言えばグータラになっていると思う。良く言えば、療養中だ。或る種のこだわりや執着などもなくなり始めている。 諦めと希望の二項対立を揺れているわけでもない。こんなリラでも、いつか、主の役に立つこともあるかもしれない。過去、リラが経験してきたことは、どれもこれも、塵と灰であろう。 睡眠を取り、食事をし、礼拝を捧げる。趣味に没頭して息抜きをしながら、家族サービスをする。 あたりまえのことだが、奉仕の名において、一番、ないがしろにしてきた、リラの罪である。 以前、友人牧師から「夫婦関係と家族を大切にしなくて、どうして神の教会を大切にできるのか。頑張っているのはわかるが、神の家族の意味を考えてごらん」と言われて、その通りだと認めるしかなかった。 だからといって、閉鎖的な夫婦、家族であってはいけない。逆に、牧師家庭が安定し、仲良しだと、即ち、神の愛の臨在に満ちているか否か、仲間はきちんと識別・判断してくれる。神の家族が開放的であるはずのように、リラたちも信仰の基礎の上に加えていくべき課題は沢山ある。 十字架の「完了した」という言葉に安らいでいきたい。 |





